「パーカー大佐の映画になってる」エルヴィス アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)
パーカー大佐の映画になってる
字幕版を鑑賞。1977 年に 42 歳の若さで亡くなったスーパースターの一代記である。生い立ちから丁寧に描いてあって、黒人音楽やカントリーミュージックに精通した経緯や、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽から始めてロックンロールスタイルを確立して成功した理由が明確に示されており、晩年の活動や死に至る経緯まで描かれた映画は本作が初めてである。
プレスリーの音楽活動の開始は名物プロデューサーのパーカー大佐との出会いとほぼ同時期であり、金勘定に長けたパーカーの手腕によって売り出される様子は、あたかもビートルズにとってのブライアン・エプスタインのようであるが、パーカーの悪質なところは、プレスリーを飼い犬のように服従させ、稼いだ金の 50% を搾取するという吸血鬼のような害虫だったことである。
この映画は終始パーカーの視点で描かれており、主役はプレスリーというよりパーカーではないかという感覚を見るものに与えるのだが、案外それが本当のことのようにも感じられる。劇中で明かされるパーカーの正体と特殊事情から、ワールドツアーが実現できず、ラスヴェガスのホテルのステージに立たされ続けたプレスリーは本当に気の毒であった。
ミュージシャンのスーパースターは、やり甲斐のある仕事であろうが、その一方で、いつファンに飽きられるかという不安が拭えず、常にウケを狙わなければならないというストレスのかかる職業である。自分自身を小説のネタにしたために破滅的な人生を選ばざるを得なかった太宰治と少しかぶる気がした。日本よりドラッグに対して禁制の緩いアメリカでは、簡単に薬物が入手できることから、薬物に頼って身を持ち崩す者は昔から多い。エルヴィスもまたその一人であったということらしい。
エルヴィスに好き放題させておきながら、金勘定はしっかりとパーカーに握られてしまい、自分で金銭的なマネージメントを行わなかったことが悲劇を生む。現在のように Excel でもあれば、自分や家族の誰かが金の出入りに注意を払うことも出来たのであろうが、Macintosh が誕生するより7年も前に死去したプレスリーには無理であった。
パーカーはプレスリーが薬物に手を出すように仕向けた疑惑も持たれている。パーカーが連れてきたプレスリーの主治医のニック医師ことジョージ・ニコポラウスは、プレスリーと同時代のロックンロール・ヒーロー、ジェリー・リー・ルイスなどにも薬を処方しており、無罪になったものの、過剰な薬物処方で起訴されている。最終的に彼は 90 年代に入ってから同じ罪で医師資格を剥奪されることになるので、ロクな医者でなかったのは確かである。
本当に救いのない話で、「ボヘミアン・ラプソディ」とはまた違った問題提起の映画であるが、悪人がパーカーただ一人にほぼ絞られる本作は、フレディ・マーキュリーの場合とはかなり事情が違っており、見る者に与える感想の質も随分違うものになっていた。
既に故人となったミュージシャンを現代の俳優が演じて再現度の高さに感心させるという作りは、「ボヘミアン・ラプソディ」という偉大な先例があるので、どうしても比較されるのは避けられない。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは完璧だったのに対し、本作のオースティン・バトラーもかなり健闘していたと思うが、歌唱シーンが比較にならないほど短く、先例を超えたとまでは言えないように思った。
トム・ハンクスの特殊メイクの出来は凄まじいほどであったし、晩年のエルヴィスの激太りも同じ方法なのではと思うが、非常に自然であった。映画を見終えて最も印象に残っているのが、オースティン・バトラーの吹き替えなしの歌よりもトム・ハンクスの特殊メイクというのは、やや本末転倒のような気がした。
また、本作が「ボヘミアン・ラプソディ」と違うのは、エルヴィス本人の動画が終盤の方で流される点である。折角オースティン・バトラーが頑張って作り上げたエルヴィス像が、やはり本物とは少し違っていることを再認識させてしまうこのような演出を何故監督は行ったのだろうか?真意が解しかねた。ラブ・ミー・テンダーなど聴きたかったのに流れなかった曲が多かったのも少し残念だった。
(映像5+脚本4+役者5+音楽4+演出4)×4= 88 点