「裂け耐性ある人向け」魔女がいっぱい 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
裂け耐性ある人向け
映画を見る前、そのプロモーションスチールに、ハサウェイの両口端からうっすら引かれた線が見えた。
てことは殺し屋1の浅野忠信のように、この口はぱっかりひらくはずである。
と思った時点で、すでに見たくなくなった。
口裂けには生理的な忌避感があるからで、この苦手属性の人は多い──と思う。残酷描写に耐性を持っている(つもりだ)が、頬が割れるのは、けっこう普通に嫌です。
だがストリーミングサービスに降りていたので、気は進まなかったが見てしまった。
アンハサウェイって、わりと(て言うかぜんぜん)作品にめぐまれない人だという認識がある。なんていうか、美貌がすんなり反映されない人──である。
きれいすぎて使いにくい──の感が、ある。
市井に馴染まない、映えな顔をしているので、日常があわせにくい。──わけである。
映画は、コケていると思う。
人間離れした(美貌の)ハサウェイの魔女は、適切な配役だが、それを見事なまでに殺している。率直に、きれいな人なんだからきれいに撮りゃいいのに──と思った。
いちばんのコケ要因は、コミカル方向へ振ればいいのに、妙にグロテスク方向へ振っていて辟易させるところ。
ターゲットに大人をも包括しているからだが、おそらくダールの魔女がいっぱいは児童文学であるはずで、原作と映画の位相が、かんぜんに乖離している。ようするに誰が見て面白い映画なのか、の初動からハズしている。──と思った。
ところでウィキペディアに以下の記述があった。
『アン・ハサウェイ演じる大魔女の手先の指は3本しかない設定となっているが、この事が手の先天異常である「欠指症」を連想させ、「同じような手を持つ子どもを含め、腕や手足に違いを持つ人たちの気持ちを傷つける」として、本作公開後に身体障害者や国際パラリンピック委員会などから批判を受けた。それらを受け、ワーナー・ブラザースは直ちに謝罪声明を発表し、「原作に描かれている『猫のような鋭い爪』を、この映画のために再解釈してデザインしたが、決して身体的障害を持つ人を表現するつもりではなかった」と釈明した。』(ウィキペディア「魔女がいっぱい」より)
歴史上、人権擁護は、つねにクリエイティヴィティの妨げになってきた。それを見て、傷つく、差別される、と言われりゃ、猫も杓子も、はいすいませんでした──とならざるを得ない。同和ヤクザみたいなもんである。やれやれ。
同時にストリーミングサービスに降りていたニコラスローグ版の魔女がいっぱい(1990)では、少年もお祖母ちゃんも白人だったが近年の傾向に合わせ、忖度して、ここでは黒人になっていた。(オクタヴィアスペンサーは楽しかったけど。)
ワーナーとDCコミックの界隈では、年内(2021)に黒人のスーパーマンが誕生する──として話題になっているらしい。スーパーマンも黒人になる時代である。そしたらわたしはスーパーマンにアジア人がいないのは、おかしい、差別だ、と声をあげようと思っている。