モロッコ、彼女たちの朝のレビュー・感想・評価
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パワーを貰えました
眼差しが強い。
その力に吸い込まれるように魅入ってしまいました。
笑顔がなかった二人が、
徐々に心を開き、心の隙間を、お互い少しだけ補い合い、
だんだんと笑顔を見せるようになっていく様子に、
こちらも、ホッとしました。
娘の笑顔が終始キュートで可愛かった。
いい子ですー。
そして、女の権利が想像以上に確立されていない異国の地の女性たちに
負けるなー!とエールを贈りたくなりました。
また、私自身も強く生きる二人にパワーを貰えました。
さらに、モロッコの風習、食べ物、服装、とても新鮮で、興味深く楽しめました。
宗教やジェンダー問題の背景があっても「思いやり」の基盤はどの国も同じなのかもしれない...
今作は第92回アカデミー賞のノミネート候補に挙がった作品。他国の多種な映画が日本に輸入されてきているものの、商業映画として劇場公開されるモロッコ映画は今回が初めて。
モロッコに住む人々のほとんどは、イスラム教徒。イスラム教徒では婚前交渉が禁止されており、未婚の妊婦という時点で、誰も関わりたがらない。
普通に考えても未婚の妊婦サミアが、ひとりさまよっているとなれば、ただでさえワケあり感が漂うものの、宗教上の問題が関わっていれば、なおさらだ。
モロッコの場合は、法律、つまり国のベース自体にイスラム教があるだけに、感情だけでは、なかなか揺れ動かない。
ジェンダー・ギャップ指数も143位(2020年)と、女性がひとりで子供を抱えて生きていく環境としては、決して良いとは言えない。
そんなモロッコという国を背景に、ひとりのシングルマザー、アブラと出会い、物語が展開されていく。
アブラは、夫を早くに亡くして、パン屋を経営しながら、女手ひとつで娘ワルダを育ててきた。境遇は違うが、少なからず女性がひとりで生きていく厳しさを常に感じているものの、宗教上や自分自身に抵抗がある。そこに風穴を開けるのがワルダ(ちょっと藤田ニコルに似てる)。
ワルダは無邪気で、モロッコという国にある概念をまだ知らない。だからこそ純粋そのものな存在であるのだ。
モロッコという国も時代を経て、少しは開放的になりつつあって、サミアはそんな世代で、何より若いということもあって、差別されながら貧困の中だったとしても、何としてでも子供を育てるという母性意識よりも、わからないように産んで、普通の生活に戻って、同年代の女性と同じようにオシャレして、何ごともなかったように結婚したいと思っている。
合法的に中絶もできない。両親に打ち明けてしまうと、両親まで差別を受けかねない。そんな国の風潮や圧力によって、サミアは両親にも言えないまま、お腹が目立ってきたから家を出てきたという状況であり、サミアにとってお腹の子は、厄介な物でしかなかったのだ。
サミアもアブラも、心に壁があって、逆にそこが心地よい部分もあったりするのかもしれないが、一方で相手に世話を焼いてしまう一面もあったりする。そこにワルダの無邪気さが加わることで、ある種の擬似家族の形態へと変わっていく。
そのグラデーションの部分を、映画的にドラマチックに描くというよりも、ごく自然体で淡々と描かれる。変に慣れ合わない独特の環境だからこその心地よさという面では、真逆の結末に向かっていくが『17歳の瞳に映る世界』に近いものも感じた。
人間というのは、幼い頃は、どの国もそんなに変わらないと思う。生活環境だったり、親の価値観の押し付け、社会に染まった大人の汚さを知っていくことで、知らないうちに、自分も気づけばそんな大人になってしまっている。
それを常に思いおこさせるのは、子供という存在であって、人間は子供を見ていると常に自分のあり方を思い直させる。動物的な繁殖機能によるものという一方で、心の部分でも子供という存在は人間には、必要な存在なのだ。だからこそ全く違ったジャンル『海辺の家族たち』『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』などを観てもわかるように、子供が希望の象徴のように描かれることが多いのだ。
監督であるマリヤム・トゥザニが、家族で助けた未婚の妊婦との体験談が今作のベースとなっているのだが、監督もまたモロッコ出身である。この映画と変わらない環境にありながら、未婚の妊婦を助けたことは、監督の家族は概念に捕らわれず、人間の繋がりを大切にしていたということが感じられる。
そういった環境で育った監督が、映画を通してモロッコの人々だけではなく、例えばヒンドゥー教の多いインドだったり、保守的なキリスト教信者の多いアメリカの地域だったりといった、宗教色が人々の概念に影響を強くもたらしている国に対しても、何かしらの刺激になって、考えるきっかけをあたえてくれる。
私たちは、どうしても国という大きなくくりで、人間性を判断してしまいがちだが、人間性のベースにあるものは、どこの国も変わらないのだということを改めて考えさせられる機会を与えてくれたような作品だ。
モロッコは、1日3食パンを食べるほどのパン食文化の国である。日本のようにふっくらとしたパンもあるが、平べったいチヂミのようなパンが主流だったり、麺のようなルジザといわれるパンもあったりと、モロッコの食文化を知ることができる。
入口は食文化でも景色の美しさ、または女性の地位でも何でも、様々な観点から、モロッコという国に目を向けるきっかけに、今作がなるのだとしたら、監督も本望ではないだろうか。
一人きりでは作れない明日がある。
イスラム社会で生きるシングル女性達の物語。
「女性に権利はない。」とは登場人物のセリフ。女性蔑視などで時々ニュースになる我が国ではあまり聞いたことがないセリフ。しかし、イスラム社会では当たり前に話されるんですね。宗教的な理由でしょうから嘆いてもしかたないのかもですが(詳しくないので想定です)。
だからと言って、社会にシングルマザーが生まれる状況は変わらないですよね。イスラム社会では本当に辛いでしょうね。女性にとっては厳しい文化。肩肘や気を張れるものは全てパンパンに張って生きていかないと舐められてしまう男性上位の世界なんでしょうね。
明日も生きる、と言うのは大事なことですが、いつしか生きることが全てになり、人間本来の悦びを忘れてしまいがちになるんでしょう、、、自分一人の世界では。
人は一人では生きていけない、とはよく聞きますが心豊かに生きていくって面でもそうかもしれませんね。心豊かになれば、今まで願うことすらしなかった明日を見ることが可能になるかもしれません。
本作の2人の物語はイスラム社会で生きる女性達はじめ、日々踏ん張って生きる人々にちょっとした勇気をくれるかもしれません。
アブラ、ライラ2人の日々が糧になり、共に明日が明るいものであってほしいと願いたくなる作品です。
秀作です。
ラストこそ”モロッコ、彼女たちの朝”
本を読むような映画。映像やセリフだけでなく、その行間を感じてこそ興味深く感じる。
起伏が少なく単純明快な娯楽作品ではないが、色々考えさせられ退屈ではなかった。
カサブランカから産声が聞こえる。
人生初のモロッコ映画。土壁とレンガ。ちょっとスモーキーな雰囲気と入り組んだ迷路のような街並み。あまり目にする機会のないモロッコの景色とそこで暮らす人々の日常が新鮮でした。
最大都市カサブランカで出会う2人の女性に光をあてた良作。大きなお腹で仕事を探しながら街を彷徨うサミア。一人娘ワルダを育てながらパン屋を営む未亡人アブラ。男尊女卑の思想が今なお根強いイスラム教では未婚のまま妊娠すればたちまち居場所を失ってしまう。あるきっかけで渋々サミアを居候させることになったアブラ。
強く美しく実直で神経質な女性アブラ。心を閉ざしているかのようにも見えるが彼女もまた深い悲しみを胸に秘めている。女性というだけで公然と差別される社会。共鳴し合う2人。それは母性がそうさせたのかもしれない。お祭りのシーンは唯一ほっこりできた。なによりワルダがずっと無邪気な天使のようでかわいい。
産まれたばかりの我が子の顔すらまともに見ることができない後ろめたさ。不甲斐なさ。一瞬ヒヤッとする場面があって背筋が凍った。そして観る側に委ねられたその後の物語。
「子供を渡してはいけない。物のように扱われる」これは紛れもなく同じ時代を生きる女性から発せられた言葉。その現実を遠く日本でしっかり受け止めたいと思った。
キム・ジヨン、あのこは貴族、燃ゆる女の肖像…。惹き込まれた人はどうぞ
すごく官能的で肉惑的。性描写など一切ないのに。
音楽が殆どないのと、赤ちゃんはじめ役者たちの息遣いがそのまま録音されているからか。
パン屋の女主人アブラは娘に対しても厳しい教師のように接する。決して笑わない。
ふくよかで子供に優しくどこか妖艶な妊婦サミアがアブラとは対照的に描かれている。
パン作りの時、アブラが床に生地を叩きつけるようにしていたのを見て、若いサミアがアブラの手を握り、もっと優しくするのよ…と一緒に手を握り生地をこねながら、語りかける。そのうちアブラの手も優しくなる。
アブラが髭の男から誘われている。
冷たくし、無視を決め込んでいた彼女も、サミアから言われてある日自分のセミヌードを鏡に写してみる。
まだ女として自分に魅力があるかどうか点検する。
翌日彼女はきちんとメイクしてオシャレして店に立つ。
その変化に同性のサミアはすぐに気づいて微笑む。
アブラの急死した夫。葬儀の儀式のため、妻が哀しむことすら出来ない風習。
最愛の人にサヨナラの挨拶もできず、死を悼めなかった彼女は夫の死や男性に対し、ココロを固く閉ざしていた。
お祭のさなか、通りで女達が喧嘩していた。それを見たサミアやアブラ、髭の彼らが楽しそうに笑った。アブラの笑顔を初めて見る。
アブラの一人娘、ワルダも無邪気で可愛らしい。
この作品。家の中も街なかも柔らかい暖色系の光を使っている。太陽の陽光も優しい。
だからなのか、風景や人がとても美しく映える。
ラスト、彼女は赤ちゃんを殺めようとするが、諦める。
母親は赤ちゃんの未来を考えて、やはりあの選択しか無かったんだろうか。
『アダム』…映画の題名。
赤ちゃんの名前だったのだ。
エンド前の『母に捧げる』とは、この監督のお母さんもまたシングルマザーだったのか?
と、思ったらチラシに過去にこの監督さんの家で未婚の妊婦さんを世話したエピソードが…。
この美しい作品を、このときまだハッキリと赤ちゃんの未来を決意出来なかった彼女には、どう映ったんだろうか?
そして、今、彼女は彼女自身の選択を、どう感じたんだろう。
時に女性にとって、『生』とは残酷なもの。果たしてこの選択は正しかったのか?
懊悩が伴わない最初から祝福される生ならば、女性側だけがこんなにも苦しむ必要は無いわけで…。
それはこの国だけでなく、世界的で普遍的な問題なのでは?
だからこそ彼女だけでなく、多くの、子を産んだことのある女性には永遠にQuestionマークなのかもしれない。
役者の表情からその心情を探る映画。佳品です。
観る人によっては、退屈な映画だと感じるかもしれません。劇的なことは子供の出産があることぐらい。アップが多用され、役者の表情からその心情を探るまたは想像することで、この映画の良さが理解できます。夫の事故後、心を閉ざしているバン屋の経営者、彼氏に逃げられた未婚の妊婦。この二人の心の交流がストリーです。妊婦は出産後、子供を里子に出し故郷に帰って再出発をしようと考えています。それでいいのかと反対する経営者。この揺れ動く二人の心情を味わうことが、この映画の肝です。
結末は里子に出して帰郷したのか、それとも子供を連れて帰郷したのか、そこまでは映画では描かれていません。観客の想像に任されています。私の解釈はこうです。妊婦は里子に出すつもりだったので、子供に名前をつけようとしませんでした。出産後、子供に母乳を飲ませることで悩み始めます。結局、アダムと名付けます。原題はアダムです。この事から、子供を連れて故郷へ帰った。或いは里子に出したが、名付けたことにより子供との繋がりを残したと考えてました。私の隣にいた男性に尋ねたら、子供を連れて故郷に帰ったと思ったそうです。
良作、見れる機会があれば絶対に観るべし!
「夫と死別したシングルマザーと未婚の妊婦の話」
本作ではモロッコでは禁戒とされている“未婚の妊婦”がカギとなる。そう、モロッコでは婚外交渉と中絶が違法とされている。
今じゃフランスや北欧をはじめとした国では50%以上が未婚の母、日本では2%しかいないものの年々増えていっていると言うのに…。宗教、国によってこんなにも大きく変わるのね。
サミアの存在によってアブラも生まれ変わった。
生活することで精一杯ともとれるような険しく厳しい表情のアブラ。
かつて夫とよく聴いた大好きな曲を流すことさえも拒み、愛する娘への愛情表現さえもおざなりになっていた。しかしサミアとの出会いによって固く締め付けられたアブラの心の鎖が解かれていくーー。
物語が進むに連れて柔和な表情になっていく二人、アブラが化粧をしたり、鏡を前に自分の身体に向き合ったり、また愛娘に対しての接し方も明らかに変わり、何よりアブラに笑顔が見られるようになっている。亡き夫の死によって失った“女性性”そして“母”を取り戻したのだ。
特にアブラがアイラインを引く姿が印象的。
美しく哀しくもある後半のシーンではアダムを抱きしめながら涙するサミアの姿に胸が張り裂けそうになった。
出産した後に我が子を胸に抱き、授乳した瞬間のこの上ない愛おしい幸福に満ちた気持ちを思い出す。
我が子の小さな手、足を一本一本数えて優しくキスをするシーンが胸にグッとくる。世界のママが我が子に同じことをしてるんだね、子を愛する気持ちは世界共通。
小さな小さな我が子を抱いて授乳した瞬間の筆舌に尽くしがたい喜びと深い感動を味わった直後に、我が子との別れがあるのかと思うと…それはもう想像を絶するほどの痛烈な痛みと苦しみだろう。
また本作が監督自身の母が未婚の女性を世話していたといった実話を基に製作されたというからよりリアリティである。
夫の死に向き合う権利さえも与えられないというモロッコの現状、“女性の権利”がほぼ無いに等しいイスラム社会が浮き彫りになるこの不条理の中でも、強くしなやかに生きる女性の姿に心が打たれる。
画面が絵画的。ストーリーも良かった。
日本で初めて劇場公開されるモロッコ映画。長編デビュー作となるマリヤム・トゥザニ監督の実体験に基づいている作品だそうです。
ドキュメント調で絵画のように美しい照明、子役も含めて出演者たちの自然な演技、最後まで映画の中に入り込んだような作品。
女性監督特有のきめ細かい仕草や情景があり全体的に飽きる事はなく最後までじっくり見れる人間ドラマでした。
小さなパン屋を営む一人娘を養う女主人アブラと仕事を求めて玄関に尋ねて来た未婚の妊婦サミア。
カサブランカの街並みや路地裏、日常の食べ物、そして店先のパン作り。未婚の妊婦の微妙な偏見や将来の不安等々すべてがリアル感がありました。
派手さはないし衝撃的なテロや犯罪事件も起きないストーリーですが微妙な顔の表情や音楽、雑多な路地の音や光で表現する手法は絵画的で芸術的な美しさがあります。
モロッコ地方に興味のある方はぜひご覧ください。女性には特にお勧めします。
光の美しさ
夫を事故で亡くし苦労をしてきた女性が、行くあてのない妊婦を見過ごせず手を差し伸べる姿が眩しい。
まるでフェルメールの絵画や、キリスト教・ユダヤ教の宗教画にも通じるような色や構図があちこちに。
パンを焼いたり、身体を洗ったり、赤ん坊へ授乳したりといったシーンで、空気に混じる僅かな埃すらカメラで捉えた「光」の美しさが魅力でした。
背景にはイスラム文化圏であってもフェミニズムが台頭し、一夫多妻制が制限され女性の権利が認められてきたモロッコながら。
最大の商業都市カサブランカでさえ、未だ旧市街に暮らす人々には女性への偏見と差別が根強く残り、また宗教をベースとした法で未婚女性の妊娠や中絶が認められていない現実があるからで。
そのあたりの背景を事前にある程度学んでから観ないと、日本の人には全くぴんと来ず、淡々と2人の女性の会話が続くだけの作品にしか思えないんじゃないかと。
当てずっぽう
パートナーの居ない妊婦と、母子家庭の母という2人の女性の交流の話。
職と住居を探し歩く未婚の妊婦サミアと、彼女に目をかけた旦那を亡くし小学生の娘を持つパン屋の女性アブラ。
神経質で一見冷たい様だけど、人情味や同情心や自身の考えがあっあり、サミアと暮らしたことにより刺激を受けたり、考え方を拡げて変化もみせたアブラの物語はとても良かったけれど…。
社会や文化やお国柄の違いがあるのはわかるけれど、家族にも妊娠や仕事や暮らしのことを偽り隠したり、目をかけて貰っていることに感謝の念がある様にはみえないサミアの、自分さえ良ければというところが透けて見える感じがどうしてもいけ好かず。アブラは加点、サミアは減点という感じ。
ドラマとしてみせたいものはわかるけれど、ヒューマンドラマ以外の何ものでもないドラマだし、もう少し人物像を何とかして欲しかった。
まあ、小麦の件と一緒でモロッコ辺りの方はそういう人間性が一般的ってことなのかねぇ…指摘もしなかったしね。
ちなみに、あらすじに記されている程の背景は本編では語られず、前情報がないと少しわかり難いかも知れない。
主役は赤ちゃんかも 原題は・・・・
登場人物(役者さん)をじっくり観賞することができる点において非常に満足感の高い映画でした。
臨月の身でひとりカサブランカの町を仕事を探して一軒一軒門をたたくサミア。一度は断るも、向かいの道端に夜になっても座りこんだままのサミアが気になって仕方ないアブラ。未婚の母に対する世間の目がとくに厳しいお国柄。美容師の職も住居も失って、バックひとつ担いで放浪の身。アブラは頭がよく、お世話好きで、困っているものを放っておけない性格。厳しい表情でひとり娘の生活のリズムが壊れるのを心配したり、世間の目を考えて、揺れるアブラにこちらの心もその都度グラグラしてしまう。少しずつ譲歩したり、的確なアドバイスで強要することなく、サミアの心に寄り添うアブラ。決心の固いサミアが母性愛を抑えられなくなってゆくさまは、アブラが無理しなくていいのよと口には出さねど、誘導しているかのようでした。
言葉にせず、表情での細やかな心理表現。
娘の好奇心に溢れたおしゃまな可愛らしさ。
自分のことは棚においておいて、粉屋の若旦那とアブラをくっつけようとするサミア。ちょっとその気になって化粧を念入りにしたり、体型を気にするアブラ。
サミアは本当の臨月の妊婦さんだったのでしょうか?アブラの娘がお腹を触るシーンが本当の臨月のお腹の皮に見えたので。新生児の赤ちゃんはもちろん本物ですが、授乳シーンでのサミアのお乳の張りがあまり感じられなかったので、お腹は特殊メイクだったのかな?
赤ちゃんもじっくりと描写されていて、とてもよかった。もみじのような手。自然な鳴き声。サミアがちっちゃい足にキスするシーンがよかった。
見ているものに任せられるエンディング。
実家には帰れないサミアがまた街をうろうろしているところをアブラに捕まって、四人で仲良く暮らせればいいのになぁと思いました。
別れの予感
少し前に、C.アケルマンという女性監督の映画「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 、ジャンヌ・ディエルマン」(1975年)を観た。
3時間以上もある作品だが、主婦の日常の家事を延々と描き続ける。(最後に、突然キレて破綻するのだが。)
本作ではアケルマン作品ほどではないにせよ、軽んじられている“家事労働”というものを、女性監督が意図的に長尺を割いて、スクリーン上にぶちまけて見せつけている点では、共通していると思った。
映像については、確かにフェルメールの絵に影響を受けていると思うが、それは写真として静止させて見た場合だろう。実際に動く絵として観れば、自分はそれほどフェルメールっぽいとは思えなかった。
あえて言えば、色彩や意匠からはスペインバロック絵画であり、また、19世紀のオリエンタリズム絵画の一種だ。
この静かで眠りを誘う映画には(自分は寝てしまった)、実はさりげない形でいろいろと盛り込まれている。少し変化球があるのだ。
メインテーマのサミアや庶子に対するモロッコ社会の冷酷な扱いだけでなく、サミアによって寡婦アブラの中の“女”が揺さぶられることや、娘ワルダの天真爛漫さや配達人スリマニのコミカルさが描かれる。
そして、映画の最後を占める「母と新生児」の間のふれあいは、特に何ということもないのだが、“別れの予感”をはらむだけに、せつないほどに素晴らしい。
主軸がしっかりした、巧みな起承転結の構成をもつ映画だと思う。
なお、あたかもモロッコ社会の後進性を描いた映画のように見えるが、それは西欧の価値観に照らした場合だろう。
もしサミアの妊娠が不名誉な形でなされていれば、地域によっては大問題のはず。不義の息子を養子に出して帰ってくれば、普通に結婚できるのだから、モロッコのアラブ社会はむしろ緩いのかもしれない。
Wikipediaによれば、トゥザニ監督はもとは脚本を書いたりドキュメンタリーを作っていたようで、夫も映画監督だそうだ。
本作は、良くも悪くも、女性中心の女性目線の作品である。スリマニの描き方は、その典型だ。
単なるサミアの理不尽な境遇を訴えた“社会派映画”というだけでなく、“フェミニズム”を確信犯的に打ち出した作品と言っていいだろう。
一見、静かだが、なかなかクセのある映画であった。
そして、彼女の決断は?
イスラム社会では、未婚の母はタブーとされるが、それだけに、助ける側の人達もいるということなのだろう。
主人公サミアは、仕事を探し、カサブランカの町をさまようが、妊婦であるその姿を見て、ことごとく拒絶されてしまう。
小さなパン屋を営むアブラも、「仕事はない」と言って断るが、行くあてもなく路上で寝るサミアの姿を見かねて、自分の家へと招き入れる。
当初は、「すぐに出ていって」と冷たい態度とっていたアブラだったが、サミアが「何か手伝いたい」と言って作ったパンが売れたことで、アブラの仕事を手伝うことになる。
アブラの娘ワルダもサミアになつき、アブラとサミアの距離も少しずつ近づいていく。
お祭りの日に、サミアは産気づき、子どもを生むが、「私が育てると不幸になる。子どもは養子に出し、田舎に帰り、また誰かと結婚する。」と語り、自分の生んだ子どもを抱くことができない。
アブラの「よく考えなさい。」という言葉も受け入れることができず、数日が過ぎていく。
少し冷静さを取り戻したサミアは、子ども抱き、おっぱいを吸わせ、母親としての愛情に目覚めていく。
ある早朝、アブラとワルダの寝ている間に、サミアは子どもを抱き、家を出る…。
その先は、この映画の中では、描かれていないが、自分で子どもを育てる決心をしたということなのだろう。
アブラの「子どもを養子に出せば、物のように売られてしまう。」という言葉が耳に残る。
決して豊かではない国の中で、女性一人で生きていくことの厳しさと、イスラム社会の不条理を、この作品は描く。
モロッコの映画としては、日本初公開となる作品。映像も見応えあり。
ぜひ、劇場でご覧ください!
青✖️黄色はお互いを輝かせる色
モロッコの景色にひっそりと慎ましく生きる母・アブラと娘のワルダ。そして、2人の前に現れ妊婦のサミア。知識がなかったが、モロッコは婚外交渉と中絶が違法であり、ましてや未婚の母に対する社会保障はない。また、婚姻関係にあっても女性の地位の低さがある。その中で、笑顔も希望も忘れた彼女たちが出会う事で、輝きを取り戻せる糸口を見つけるお話。極彩色の映画に慣れてしまうとこの映画はとても華やかな色彩とは言えないのだが、灰みがかったモロッコの景色も女性たちの笑顔と自信を取り戻す中での穏やかな色使いが心地よくみえてくる。アブラは青がよく似合う!(アブラに恋してるちょっと3枚目キャラのスリマニが目をハートマークにして言う)そして、サミアは黄色が似合う。アブラの冷静で静粛性を青の服で表し、サミア本来の元気で明るくハツラツした姿を黄の服が効果的に使われている。また、黄色は他の映画の中でも希望や困難に立ち向かうなどを表している場合が多くサミアにはよく似合う。青と黄色は色彩学では補色と言いお互いを輝かせ合う色である。この色の服が現れるシーンはこの映画の中で2人が笑顔になれる時。女性監督らしい少しずつ湧き上がる母性と監督自身も感じている男尊女卑の厳しい現実の中で葛藤する姿をラストに導いてくれた映画でした。
今週(8/13~)の隠れた名作。超お勧め。
今年99本目(合計163本目)。
今日はお休みをいただいて(会社のよくある計画有給)、4本はしごしたのですが、そのうちの最後です。
原作は adam(アダム)ですが、日本では全然違うタイトルになっています。ただしこの点はちゃんと理由が明かされます(ネタバレ防止のため以下カット)。
映画内でも明かされるように、モロッコにおける女性、それも妊婦に対する差別問題が背景にあります。かつ、男性が女性に対してそういうならまだ百歩譲って理解できるのですが、女の子まで「妊婦は悪魔だ」とか言ってくるので(公共窯に行くところのシーン)、かなりの嫌悪感が国内にはあるのかな…と思われます(ストーリー自体も実話から生まれたそうです。公式サイト参照)。
一方でこの手の映画、特に舞台がアラビア圏であれば、イスラム教の教えの影響によるものとも思えます。もちろんイスラム教の教えもどこまで厳格に守るかは国によって差があり(サウジアラビアのように厳格な国から、世俗化したトルコまでさまざま)、モロッコは「それほど強くはないが、決して無視はできない」ようです(参考:大阪市立図書館)。実際、街のお祭りに男女問わず参加していたり、「女性だけのパン屋」に男性が訪れて「普通に何の暴言も吐かずに」買い物をしている点を考えると、多少の宗教による「ゆがみ」はあっても、それは直接の原因ではないように思えます(むしろ、モロッコ特有の俗にいう土着宗教や教育事情など、関係がない部分からきている?)。
翻って世界を見渡すと、日本のように「男女平等は一応達成されつつあるが、まだまだで、まだもう少し努力が必要」な国がある一方で、「最低限の人権すらも存在しない国」があるなど(IS国を国とするかは微妙ですが…。ISISをテーマにした映画では「女性と踊ってはいけない」とかよくわからないことを言っていた。あの映画も実話)、いろいろな国の中で、今回のモロッコの描写のそれは、その中間点くらいにあるのだろうと思います。
また日本を見渡すと、韓国や中国、台湾(便宜上、国扱い)なども、日本と同程度の男女平等の考え方が浸透している国です。しかし、それは日本や日本の近くの国がそうなのであり、全体から見ればそうとは言えない国・地域のほうが多いという点、それは忘れてはならない…と思います。そして、その「差別感が残る国」だからこそ、出産に対して迷いが生じたり、出産後子供をどうしようか(例えば、孤児院に預けるなど)といった問題が出るのであり(日本では経済的な問題以外で、このような類型は現在ではおよそ存在しない)、世界各国という観点でみれば「男女平等はまだまだ」であり、「それと戦いながら、パン屋を一緒に経営して、最後に自分で決断を下す」という「少しでも抵抗していこう」という描写がとても好きです(ただし、一部、考えさせるのか意図的に決断部分をぼかしている場所あり)。
今年(2021年)下半期ではまず間違いなくベスト3には入りそうだし、全体(2021年全体)でもベスト3にも入りそうな感じです。決してアクションものでもないし、淡々と進んでパン屋を運営するという趣旨の映画で、「派手さ」は一切ないですが、考えさせられるところは多いです。
採点にあたっては、特に減点要素とすべき点はないので、フルスコアにしました。
(パンについては、モロッコのパンは日本ではほとんど売られておらず、固有名詞が余りにも多すぎて理解が難しい、という点は一応ありますが、何が何のパンかは本質論ではない)。
今週は「フリー・ガイ」があるのでどうしても2番手以降に回らざるを得ないのではないか…と思いますが、観て絶対に損はしないです。
異なる文化に触れる大切さ
初めてのモロッコ映画鑑賞。
主人公のアブラは妊娠しておりパートナーはいない。住み込みで働ける所を探している所から作品は終わる。
断られるシーンも挟みがらパン屋として働くサミアと出会い彼女の下で住み込みで働く事となる。
サミアもまた夫を事故でなくし、シングルマザーとして娘を一人で育てている。
モロッコではシングルマザーは悪として扱われそれは子供も同じ扱いを受けてしまうそうだ。
それを恐れミアはお腹の子を産んだ後は養護施設に入れる事を強く望みながら産まれるまで強く生きる姿を。
そしてそんなミアの姿をサポートしながら、子供を養護施設に預けるのではなく育てる大切さ美しさを教えようとしてくれるサミアの姿を描いた作品であった。
最後のシーン含めこの作品ではシングルマザーで産み育てる事への確固たる答えは描いてない。それを考える過程を説いてる作品だと勝手ながら感じながら見ていた。
もちろん日本に生まれ日本で育った僕の視野ではシングルマザーだから子供を育てる資格はないだの、ましては生まれてくる子供になにかレッテルを貼るという事は想像もつかない。
もちろんそれは幸せな事なのかもしれないが同時に他国の文化、歴史を詳しく知らずにあれこれ言う事もできないのも事実だろう。
ただ一つ今作を見て感じる事ができたのは人は1人で生きていくことは難しく、他者を頼るのまた自分の人生を豊かにすることである。
金銭的や住居面の物理的なことでももちろん助けてもらったがアブラにとってサミアとその娘と出会うことで精神的にも安定しそして無事子供を産むこともできた。
その後どういう決断にしろサミア達と出会う前の時のアブラとでは決断の意味合いも大きく変わると思う。
人と人の繋がりの美しさと同時に時には他者を頼ることの美しさも今作で改めて感じることができた。
今作を見てモロッコという国の文化に触れる事が大切であり、そして異なる文化について考える事が大切だと感じさせてくれた。
女性同士 助け合う
サミアは出産までを助けてもらう
アブラは次への一歩を助けてもらう
アブラの娘の明るさ
子供目線
からも何度も助けられる
時にはぶつかり合い
励まし合い
笑い
泣き
踊り
…
モロッコ
それは宗教が関わってくる故に
女性にしかわからない辛さ
生きにくさ
不便さ
時には女性同士なのに
酷い言葉を浴びせられる
そして
最後の授乳の時
あっ、やめろ!
ち、ちょっと
誰かとめろや!!
と手に汗握る(汗)
そしてラスト
絶対離したらいかん
手離したらいかんで!!
とエンドロールで思った
人類最初の人間は
アダムと言われている
文化や宗教などをこえて欲しいという
意味がある
とても素晴らしい映画でした(涙)
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