「大衆映画の皮を被ったボーイズラブ」さんかく窓の外側は夜 冥土幽太楼さんの映画レビュー(感想・評価)
大衆映画の皮を被ったボーイズラブ
1, ストーリーテリングの粗さ
お化け退治の美男子バディものという型は海外ドラマ「スーパーナチュラル」を地でいくような王道である。
そこに宗教、大量殺人、自殺などのめちゃくちゃディープなものを大量に扱っているにも関わらず、その扱い方が粗雑すぎた...
尺的に仕方ないのかもしれないが、それならばドラマで撮るべき題材である。
その結果あまりにも死が軽んじられ、様々な違和感が発生する。
外では凄惨な事件が大量に起こっているにも関わらず(それこそ映画一本のテーマにできそうな)終始、内輪で揉めて内輪で解決して終わる構造、また人に操られていたとはいえ大量に人を殺害した主人公格の登場人物二名が結局のうのうと日常生活を送っているのはあまりにもおかしな物語の着地点である。
要するに、二人が仲良くなってケンカして仲直りして終わりなのだ。これには訳がある、次点へ。
2. BL要素
わかっている、本作のテーマは実は大衆映画の皮を被ったBL作品であることを。
物語序盤からやたらと顔が近かったり身体に触れまくったりする二人の関係性、臆病で内向的で人間味のある志尊くんは「ウケ」で、積極的で強気で人間味の少ない岡田くんは「セメ」なのである。
二人は肉体的な繋がりすら超越して、お互いのコンプレックスやトラウマすら曝け出すプラトニックな精神的交流を果たし物語は帰結する。
実はこれは肉体で繋がるよりもディープでエロティックな関係性なのだ。
この映画のテーマが散漫としているのは、
悲惨な事件の被害者や加害者がこの二人をイチャイチャさせるための道具としてしか機能していないからであって、だからストーリーにもキャラクターにも実に奥行きがない。
それならもっと二人の関係性をギリギリにするべきだった、しかし大衆映画という建前があって中途半端にその要素を含ませたことで、バディものとBLものスレスレをいく緊張感が薄くなってしまった。
僕的には、テーマをこのスレスレ感に絞って本格的に撮れば、見応えがあるものが取れたのではないかと思う。
中途半端はよくない、せめて戦国自衛隊くらいやらなきゃ駄目だよ!!!!
3. 映像表現に関して
漫画でも小説でもないのにセリフがやたらと多い。(セリフで説明したり語らせるのは漫画や小説の技法であり決して映像媒体で実行してはならない、映画は映像で語るべきであり、映画のための脚色を施すべきである。)
また、そのセリフというのが殆ど世界観の説明に当てられるわけだが(主に事務所のシーン全般)そういうシークエンスが続く時は映像にキレや動きをつけ、登場人物の性格やセリフにひとくせつけるべきであり(なぜなら基本説明とはつまらないものであるから)、そういうシーンがひとつあるだけで観客は退屈しないという基本構造を理解していない。
或いはそういう手間や労力を省いた作り手による映像表現の妥協或いは無知の産物である。
(ドラマならまだしも)
動きのない説明シーンがたくさんあり退屈に感じた。
また、とにかく映画ぽくみせているだけの表現が多用されており、本質的な意味で映像に力がない。
それを音楽を多用することで誤魔化している。
やたらと音楽を流し続けるのはそのせいであり、
その音楽というのも無垢な観客への印象操作が可能な程度の店内BGMのような出来。
(もし音楽を乱用しなければそのようなイメージは避けられたかもしれない。音楽は印象的なシーンで印象的な音楽が流れるだけで十分で、それ以上やると視聴者の記憶に残らない。)
映像とは本来音楽に頼らない独立したパワーを持っていなければならず、映画音楽というのも独立したパワーを持っていなければならない。
映画の本質というのはそのように各々のパーツが分解されて細部のディテールが露呈された時にその真価が問われる。
名作は全てのパーツが美しい。
以上、酷評になってしまいましたが、
作り手が一生懸命作っていることは勿論認めます。
opやゴアな表現、終盤の大量自殺の場面など、大事なところはとてもこだわっていることが伝わりました。
僕は揚げ足取りをしたい訳ではなく、誠実に、根本的にダメなところを直してほしくて痛烈なことを言っているのです。
それは、いかに「大衆邦画」が映画表現という伝統と乖離したものになってしまったのかということを徹底的に考察して、直せるとこは観客と作り手で協力して直していかなければ、本当に映画産業は死ぬと思うからです。