「格差は固定化される」21世紀の資本 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
格差は固定化される
グローバルな経済の話だが、諸外国の実情はよくわからないので、日本の内情を考えてみた。
小泉純一郎が総理大臣だった時代、平成の御用学者である竹中平蔵の主導によってアメリカ式の市場原理主義を導入し、小泉は「構造改革」と称して規制緩和を連発した。おかげで非正規雇用が劇的に増えた。正規雇用者との収入の格差は増大し、それはそのまま生活の格差、教育の格差、文化の格差となった。要するに貧乏人が増えたのだ。同時に、なんでもかんでも自己責任という論調が世に広まった。政治家にとっては自己責任という言葉ほど便利な言葉はない。貧乏も自己責任、病気も自己責任と言っておけば、政治が果たす役割は限りなく小さくて済む。
民主党政権はCIAに鳩山首相が潰され、折から起きた東日本大震災で、構造改革と自己責任はしばらく放っておかれたが、安倍晋三政権によって小泉改革路線が踏襲され、世の中は豊かな人がどんどん減少し、格差は更に広がっていった。悪いことに自己責任論は輪をかけて広まり、時代のパラダイムと化してしまう。ジャーナリストが紛争地域に行ってテロリスト集団から拘束され、あるいは殺されるのも自己責任ということになり、中には殺された後藤さんをSNSで非難する有名人まで現れた。
ジャーナリストが紛争地域に行く理由は簡単である。事実を伝えるためだ。世の人々が正しい判断をするためにはより正確な情報が必要である。しかしすべての情報にはバイアスがかかっている。政府の出す情報には政府に不利な事実は含まれない。場合によっては嘘が混じる。戦前の大本営発表を鑑みれば明らかだ。だからジャーナリストは現場に赴いて自分で見て聞いたことを伝える。勿論ジャーナリストの情報にも個々のジャーナリスト毎のバイアスがかかっているが、政府の出す情報とは確実に違う情報が得られる。権力のバイアスのない情報である。それは人々にとっては例えば選挙での投票先を考えるのに必要な情報なのである。テロリストに拘束されたジャーナリストを自己責任として放置する姿勢は、貧乏人を自己責任として放置する政治家の姿勢、あるいは生活保護の申請をなかなか受けつけない役人の姿勢にも通じる。国民から徴収した税金を自分たちの金と勘違いしているのだ。
国民は自分のレベルに合った政治家しか選べないという。つまりは雇用を流動化させて格差を増大し、貧富の差に平然として弱者も病人も自己責任と一刀両断してハナから救う気がない政治家を選んだのが日本の有権者であり、突き詰めれば日本国民はそれを望んでいるということである。
世界中で似たようなことが起きているとすれば、人間は格差が好きなのである。勝ち組と負け組という意味不明の言葉を作り、勝ち組に入れないのがいけない、つまりは自己責任だという論理になる。貧しい人が総理大臣になることは殆どない。多分田中角栄くらいのものだと思うが、政敵である福田赳夫を大蔵大臣に抜擢したり、自分に諫言する人に金を渡していたことを考えると、自分がたまたま運がよかっただけだと自覚していたのかもしれない。しかしそういう反省の気持ちを持つ人は極めて稀である。
金持ちの子供は塾でも家庭教師でも参考書でも十分に与えられ、東大でもスタンフォードでもケンブリッジでもMITでも行ける。しかし貧乏人の子供がコロンビア大学に入学することはまず不可能だ。国家公務員上級試験に合格することも滅多にないだろう。そうして金持ちによる金持ちのための政治が連綿と続く。格差は固定化されるのだ。
しかし人生の目標は生活レベルの向上だけではない。美人を妻に持ち大きな家に住んで高級車を乗り回すのが夢だった時代、あるいは三高の男と結婚して贅沢な暮らしをするのが夢だった時代はもはや終わった。特に超高齢化社会でしかも低成長、またはマイナス成長という下り坂の国家の最先端である日本に住んでいれば、そういった価値観は過去のものである。前世紀の遺物だ。これからはモノに執着しない精神的な充足が目標になるだろう。
とはいっても「衣食足りて礼節を知る」ということわざもある通り、最低限の生活を営むことができなければ精神的な充足もへったくれもない。貧しくても衛生的で健康な生活を保障するのがこれからの政府の役割だろう。ところが現在の政府はその役割を担おうとしていないように見える。それどころか貧乏人も病人も自己責任で切り捨てている。そして同じことが世界レベルで起きているということを思い知らされたのが本作品である。問題は現代の政治であって、御用学者が本作品を意味不明に論評している「戦間期の悲劇」などではないことをはっきり申し上げておく。