三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
全175件中、41~60件目を表示
漂うサム・ペキンパー臭! 「分断」の時代に「対話」の可能性を探る好ドキュメンタリー
奇しくも、2020年に鑑賞した映画のなかで、特に僕の印象に残った3本は、いずれも「分断」と「対話」をめぐる物語だったように思う。
『鬼滅の刃』、『ミセス・ノイズィ』、そして本作である。
これら3作はいずれも、いまの時代が欲した作品だったのかもしれない。
そんな気がしてくる。
『鬼滅の刃』は、不可逆的な敵(鬼)になったはずの妹を、こちら側に引き戻すために戦う少年の話だ。彼は鬼の首は容赦なく刎ねながらも、相手の境遇や悲しみには理解を示し、それを引き受けて涙する。一方で、煉獄vs猗窩座もまた、分断された者どうしの「対話」の一形態として興味深い。
『ミセス・ノイズィ』は一見ご近所トラブルを題材としたキワモノのコメディ映画と見せつつ、その実、分断がいかにして生まれ、闘争状態にまで発展したときに、人はどう対処できるのかを描きだした傑作だった。
『三島由紀夫vs東大全共闘』は、政治思想としては両極に位置する二者が、たまさか対話を夢想してそれを実現させた、幸せな時間の稀有な映像記録である。現実に起きた出来事であるだけに、われわれにとって示唆的な要素も多かろう。
ただ本作で最も見逃せない点は、おそらく「いかに両極の二者が対話したか」(How)ではなく、「なぜ両極の二者は対話し得たか」(Why)のほうではないかと思う。
ここでポイントとなるのは、両者が1969年の段階で「すでに」時代に取り残されていたということだ。東大全共闘は前年に安田講堂闘争に敗れ、民青との主導権争いにも敗れていた。三島にとってもこの時期は、自刃まであと1年半の猶予しかない、思想的に切羽詰まっていた時期だ。
すなわち両者は、あのとき真の意味で両極にいたわけではない。
「右回り」と「左回り」で進んでいるうちに、極点近くでこんにちはしたようなものだ。
彼らにとっての真の敵とは、高度経済成長の波にのまれて物質的快楽を享受し、反米主義を非現実的と断じ、過激主義を嫌悪する大衆社会だったのであり、一方で一般大衆から見れば、両者はいずれも、もはやペルソナ・ノングラータとして白眼視される存在だった。
「政治」の時代は退潮し、両者は時代遅れのドン・キホーテのように滑稽な道化的存在と化した。
あるいは、彼らの境遇は実にサム・ペキンパー的だったといえるかもしれない。
ペキンパーが描くような、保安官と無法者。
車が走り、警察が登場し、市民社会が成立した時代に行き場を無くし、それでも誇りをもってオールドファッションな生き方を貫く男たち。
それが、彼らだ。
どちらにせよ、彼らの時代は終わった。
それでも、彼らは互いに戦わねばならない。
それこそが彼らのレゾン・デートルだからだ。
近づく滅びのなかで、なお彼らは決闘場に赴く。
そこは、奇跡的に成立した無風地帯。
900番教室だ。
ここで行われた討論会は、真の意味でのガチンコの真剣勝負ではない。
夢に破れて、それでもなお夢を追う者どうしが、内なる声で呼び合って成立したプロレス。
真剣を用いてはいるが、きちんと相手に花をもたせ、相手の技は受け止める、巌流島の戦いなのだ。
映画を観ていて誰しもが感服するのは、三島の大人の対応だろう。
冒頭の演説からして、彼は全共闘の若者に対して大変融和的だ。彼らの暴力を肯定し、彼らの熱情を肯定し、共通の地盤を強調する。たくみなユーモアと愛すべき笑顔で若者の心をあっという間につかんでみせる。そして相手の話をよく聴き、若者特有の拙い形而上的な議論を引き取って、わかりやすくいったん整理したうえで、ちゃんと受けられるように投げ返してやっている。言動の端々から、彼が「こういう血気盛んで頭でっかちの怒れる若者」自体はどうやら「大好き」なのだということがひしひしと伝わってくる。挙句、多分にリップサーヴィス的だとはいえ、両者は共闘できるのではないか、とのオルグまで投げかけてみせるのだ(実際、討論会のあと司会の青年に電話をかけ、楯の会にさそっている)。とにかくあの笑顔。三島は、心から楽しそうだ。
一方の学生側も、必死で三島を挑発してみせてはいるものの、そこには、たとえば現代の国会の野党質問のような「相手をつぶす」ことが第一義のディスコミュニケイションは感じられない。つい「先生」とつけて慌てて弁明する愉快なくだりからもわかる通り、少なくとも彼らは、世間に対する怒りと行動主義という共通の地盤においては三島を認め、あるいはある種の尊敬の念を抱いていることがうかがえる。
時代に取り残され、追い詰められた反逆者。
その対抗勢力として名乗りをあげながら、空回りを続ける右翼の急先鋒。
両者は、「決闘」の夢を見る。
かたや私兵として立ち上がった天皇主義者。かたや武闘派の新左翼。
敵としてはもうしぶんない。
本当は、1969年の日本には、彼らの戦うべき場所も、戦うべき理由も、もはや残されていなかった。
でも、彼らは奇跡的に「決闘」を実現させたのだ。
幸せな邂逅。
これはその、どこまでもロマンティックで、どこまでもセンチメンタルな、幸福な時間の記録である。
滅びの美学――。
この討論から2年も経ずして、全共闘は崩壊し、三島は自刃する。
死の直前に光芒を放つ、ダンディズムと若い情熱のぶつかりあいの火花。
好敵手どうし、死を悟った男と男の、最期の決闘。
これをペキンパー的と呼ばずして、なんと呼ぼうか。
―――――
ドキュメンタリー映画としても、本作は優れた作品だと思う。
どちらかに肩入れして見る筋の人や、彼らの在り方にシンパシーを抱くタイプの人から見れば、物足りない部分もあるかもしれないが、僕のようにこの手の手合いに興味はあっても、思想的共感はゼロの人間からすると、よくバランスのとれたまっとうなつくりで、安心して観ることができた。
むしろ、傑作『ゲッべルスと私』を観ればわかる通り、歴史的/政治的問題を映像が扱うときは、すみずみに至るまでの細心の注意が必要であり、それをしくじれば『主戦場』のような、たんに不幸な映画に堕するだけだ。
おそらく、思想的に偏向のなさそうなドラマ畑の豊島圭介を、あえて「東大出」というだけで監督に起用し、東出くんを「東出昌大」という名前の洒落だけで起用した(と考えると楽しい)プロデューサーの慧眼の勝利だろう。冗談ではなく、これこそが、分断の時代の正しい対話の在り方だと思う。
実際、最近Twitter界隈で痛々しい下卑たコメントを投下しては、私のような旧来のファンをがっかりさせている内田樹や平野啓一郎も、この作品にかぎっては中立的な立場から、きちんとコメントを出していて大変好感がもてる。識者のコメントが必要かどうかといわれれば、なくてもいいのかもしれないが、サルトルやトロツキーの著作が当たり前の共通言語だった三島や全共闘の世代と、われわれはもはや遠いところにいるので、一定の解説をああやってはさんでくれるのは大変ありがたかった。
全共闘や楯の会の生存者が出演して、当時を振り返るのも、じつに興味ぶかかった。
彼らが自らの無残な敗北をどう総括し、どのように世間にまぎれて生き恥をかいてきたかほどに面白いテーマはないだろう。
学生運動出身者はまともな就職ができず、「地方公務員になるか、大学に残るか、予備校講師になるか、マスコミに行くか」に相場が決まっていたと側聞していたが、本当にそういう感じでちらばっていて、そこからしてもう面白い。敗北についてインタビューを受けて、それぞれのスタンスで差異はありつつも、芥正彦も木村修も橋爪大三郎も頑なに敗北を認めないのは、NHKのドキュメンタリーで観たあさま山荘事件の犯人たちの今を思い出させる。彼らもまた、必ずしも自分たちは敗北したわけではないと盛んにうそぶいていた。
一方、楯の会のメンバーも、決起自体は失敗に終わったものの、現代にいたるまでの過程で、反共という理念自体は相応に満たされたということもあるのか、苦味の残る元全共闘の老人たちに比べると、歳の取り方がどこか鷹揚な感じがする。今も三島との楽しかった追憶のなかで生きている、そんな雰囲気である。
とにかく、顔だ。
顔に、その人の人生は刻印される。
どこかふやっとした若者時代の顔が、その人独自のなにかを宿した老齢者の顔に変化する。
それをこうやって、いくつも並べて見比べられるというのは、なかなかにない体験だ。
とくに芥正彦の顔は、彼自身が不屈の呪いによってつくりあげた奇相であり、やはり衝撃を受ける。
いやあ、やっぱり「人は見た目が9割」って、本当じゃないか。
ちなみに、ラストでうつった今の900番教室にも驚かされた。
きれいな机と機能的な椅子のならぶ、近代的な内装に様変わりしていたからだ。
私が在学していた30年前の900番教室は、まだ映画で出てくるままの古ぼけた講堂だった。教会建築のようなウッディな空間で、授業中以外はタバコも吸えた。すでに全共闘の気配などみじんもなく、そこは社会学者である見田宗介(真木悠介)のマスプロ授業の場として機能していた。この映画は「あれから50年」を謳っているが、20年しか経っていないあのころすでに、学生は大半がノンポリで、活動家はオウムや原理の連中とほぼ同一視されていた。
この映画に惹かれるのは、たった一世代前の同じ学生たちが、賢しげな言論で武装し、国家を相手取って血まみれで闘っていたという事態をとても信じられず、飲み込めないまま大人になった自分に、なにがしかの答え合わせを示してくれるからかもしれない。
あのとき、すでに全共闘の時代から、東大は変質し、学生気質もおおいに変わっていた。
それから30年。さらに大学は変わり、学生も変わったはずだ。
私の後ろで映画を観ていたのは、大半が20代とおぼしき若者たちだった。
彼らはいったい、この映画の三島と若者たちに、何を見出したのだろうか?
これが伝説?ぬるい。
問いには答えが必須
今年の第1トピックでした
皆さんのレビューが面白くて!
この「レビュー欄」は、三島が帰ったあとの興奮冷めやらぬ会場での “参加者たちのディスカッション”のようです。
映画館でぜひ観たいと念じつつも、折り悪く世の中はそのままコロナ閉館の時代に突入。
諦めていたら、なんと再開したシネコンで三島のドキュメンタリーは復活したのです。
この どマイナーな映画が(笑)コロナのおかげて足掛け4ヶ月のロングランとかあり得ないおまけでした。
今年の映画鑑賞の1st.トピックでした。
・・・・・・・・・・・・
900号教室に自分も座っている錯覚。そんな鑑賞でした。
討論会の軍配は、完全に三島に持っていかれてましたね。
あの頃、現役の売れっ子作家にしてファッションモデルでもあった三島は、学生たちの絶叫的アジテーションや文法無視・礼儀無用の粗野な質問に、微笑みを浮かべて温かく、そしてダンディーに答える。
質問下手の若造たちの問いをば、その言葉足らずを補い、瞬時にして連中のプライドを尊重しつつ真意を汲み取ってくれる。
おまけに彼らの緊張をやわらげてやろうとジョークを取り混ぜてもくれようというのだから。
セイガクよ、君たちは何を得意げになっているのだ?
三島の眼前で完敗の立場を悟っていたのはたった一人詰め襟くんだけではないか。
しかしそれにもかかわらず入れ替わり立ち替わり三島に突っかかってみせる若者たちの、三島の目を見ない質問。ああいう喧嘩腰の審問をやっていて若造たちは恥ずかしくならなかったのだろうか?
あの目は闘う前から怖じけ付く負け犬の目だ。
叩き台の本人三島由紀夫がここまで来てくれているのだから、三島に正対して話しかけるべきなのに。
その晩の電話で
「楯の会に入らないか」とまさかの本人に問われたときの詰め襟くんのうろたえが、このドキュメンタリーのクライマックスであったと思う。
自身の政治的姿勢への確証の無さを暴露してまでも、また天皇への信奉を文学者として言葉化出来ない力不足を告白してまでも、一人の人間三島由紀夫が裸になってくれた=咬ませ犬になってくれたあの場、あの真摯さに、うろたえたのは詰め襟くんだけか。
今回のロングラン上映を、彼らもどこかの映画館の薄暗がりできっと観ていたことだろう。
反抗期は終わったかい?
君たちは、“兄”が、“父”が欲しかったのだろう。
・・・・・・・・・・・・
映画の仕上げ方としては
惜しむらくは、900号教室の“アンチ三島の若造”たちだけでなく、楯の会の元メンバーたちが過去を振り返って、今現在あの時をどう総括しているのか、そこも是非、インタビューが見たかったな。
(あと、あの日加藤登紀子はどこに?⇒三島集会の前年にお登紀さんは卒業でした)。
法政大?の写真のみ、女子学生が二人写っていたが、参加者は男子学生ばかりだ。
見事に男だけの世界でした。
・・・・・・・・・・・・
「対話」はソクラテス以来学問の基本だ。
僕は進学先を最終的に決定するとき、対話を放棄して機動隊に学生を売った学校を選らばなかった。対話こそが核であったはずのその学校に失望して、大量の退学者が出た大学だ。
三島は、毒杯をあおったソクラテスに重なってしまって辛いけれど、逃げずに単身、若者たちの招きに応えた。
「もはや立ち去るべき時である。私は死ぬために、あなたたちは生きるために。だが、われわれのどちらがよりよいほうへと向かっているのかは神よりほかに誰にもわからない。」
(『ソクラテスの弁明』42A)
問いには答えが必須だ。
答える相手を失ったいま、
900号教室の残党がいまもこの社会で、あの日の体験を負ってきっと良い働きをしているのだろうと信じたい。
ゆとり世代の感想
69年の「熱と敬意と言葉」に思う
二度目の鑑賞、やはり言葉の力は満ちていた。
昔と今、そこを比べ悲観することに慣れては駄目だろう。しかし、あの年代特有な語りの熱量、言葉の緊張感、タバコの煙で曇る講堂… 確かに“この時代が最後だった”と自覚するに足りる、尖った思考の渦で発せられる主張と同調に、やはり憧れを禁じ得ない自分がいた。TBSが保存する、この貴重な映像資料を観たことは何度もあった。しかし、改めて「新しきを知る」真相に満ちた本作は、当事者達の証言が単なる回想に非ず、眼の奥に鋭さも保った声の主が、未だ「三島の思想と言葉」に対し「反論・尊敬・格闘」を繰り返していただろう事を感じさせた。多感な時期に「国運と自身の運命は同様」な死生観を抱いた若者が、あの8.15を境に分離した感覚を、取り戻さんとする思想の納得も禁じ得ない。そして、あの場において高圧的な態度や、語気を荒げる事なく、“まぁ先ずよく聞いてやろう”な理解への心構えが、双方にあった点が見過ごせない。やはり、何処かで“共通の敵”を見出していた、それ故教壇での一服も微笑ましく映っていたのかもしれない。正に愉快な一時を観た。
生の映像は迫力がある
何を言っているのかわからないけれど…観てよかった映画作品
今日は三連休の中日で夜遅くの上映時間。
そんなに本作を観に来る人はいないはず。
昨今のなんちゃらウィルスのリスクも少ないはず…だったけど、、、、
淡い期待を崩されてしまった感じの席の埋まり方でした。。
なんだ、この作品は注目されてるのか?それとも話題作なのか?
ちょっと驚きましたです、
私は私で三島由紀夫氏にとっても興味があったんです。
太宰治氏や芥川龍之介氏や夏目漱石氏以上に、この方の本は読んだことはないけれど、経歴(割腹自殺・自衛隊入隊・癖のある人物像)等で何故か早く観たい!と思わせる何かがありました。
全体を通して、とても素晴らしいドキュメンタリー映画作品でした。
何を言っているのかわからない(私がおバカなので、笑)中にも、ストーリーに引き込まれてしまうほど、本作の魅力に取り憑かれていってしまいました!
心の中で、何度も"へぇ〜"って言ってました!
三島由紀夫氏の後輩で、元東大全共闘の橋爪大三郎先生のお話はとても素敵で、久しぶりに聞き惚れてしまうくらいの内容でした。
こういう風な映画も教養の一つとして知っておいたほうがよい大切な作品なんだ!
と、思いました。
オススメです!是非御覧ください!
※推してる役者さん、女優さんの観たい映画作品は、昨今のなんちゃらウィルスに戸惑っている間に一度目?の上映が終わってしまいました。
二度目の再上映がもうすぐですので、必ず劇場で観て感想を述べたいと思います☺︎
劇場の幹部の方々も配慮をしてくださっているのでとっても感謝しています!
ありがとうございます♡
もう若くないさと、君にいいわけをした。
この三島の映像をニュース番組で、
ノーカットでオンエアしていたのは、
80年代後半だっただろうか。
三島は室内に充満する青臭さの臭気に顔色も変えず、
言葉にも出さずに、
「諸君の熱情だけは信用する」
コトバで武装はしているけれど、
一緒に市ヶ谷に行くほどの迫力や覚悟は感じなかったので、
信用するという言葉に留めておいたのだろうか。
信用された人たちひとりひとりへの、
総括のインタビューかと期待していたが全く違った。
そんなわけないよな・・・
髪を切ってもう若くないさと言い訳をしていたであろう、
信用された人たちは、
もう見ないのだろうか?
希望も夢も、探し物も。
それを見ていた少年たちは、
はいつくばって、はいつくばって、
探すのをやめて、
白いMSや、
黒い暗黒面、
ベトナムの闇の奥、
という、
ココデハナイドコカに、
籠城することになったひともいたのかもしれない・・・sun goes down
蛇足
今、旬な話題に乗っかって書いとくと、
9月始業が可能か不可能かが本質ではない。
9月始業に向けて20代から40代の人を中心に社会を回す、
経済に血を通わせる、
制度設計をやり直して、
困難を乗り越えて、
本当の意味での昭和を終わりにして、
子どもたちに明るい未来を見せる。
民に無関心な為政者に引導を渡す。
三島はそれに似た目的の為に、
この学生たちは、共闘する覚悟は、
あるのか、ないのか、
本気なのか、単なるファナティックなノリだったのか、
を探りに来たのでは?
蛇足の蛇足
雨に破れるはずのない、
デジタルのポスター、
君もみるだろうかこの映画を、、、
聞こえるだろうか言霊が、、。
文字通り大人と子供の喧嘩
題名から天皇制の是非などについて両者が丁々発止の舌戦を繰り広げるのかと思っていたが全く違っていた。三島由紀夫は誠意を持って相手の意見に耳を傾けながら「直接民主主義を目指す点で君らと本質は同じ、我々は共闘できるんだ」と自らの政治的主張を明らかにする。一方東大生たちは本で読み齧った事実かどうかも分からない理論を前提に「偽の三段論法』で相手を論破する事が主目的であり、明確な主義主張はほとんど出てこない。論客と言われる学生も含め最後は「お前こんな理論も知らないの。レベルが違いすぎて話にならないね。時間の無駄だからオレ帰る』というような、今でいう「マウントを取る」ために議論があるように見えてしまった。最後は何の結論も出てないが同志感が芽生え、タバコを分け合うといったあたりは20歳過ぎの若者として無邪気で可愛い気もする。三島も「可愛いもんだなお前ら」と言ってそうな……先輩方には失礼ながら、難解な言語を駆使しつつ体制批判の議論を吹っかけ相手を論破するというのがあの頃の壮大なモラトリアムの過ごし方だったのかもしれない。だって後日談に登場する全共闘の人も楯の会も、その後は皆けっこう堅実な人生を生き、話し方もとっても分かりやすくなっているのだもの(芥さんは例外のようだが)。
俺たちの敵は、「曖昧で猥雑な日本国」
正直、なぜ、三島由紀夫が割腹自殺をしたのか、ただの右翼の小説家なのか、名前は知っていても彼のことを全く知らず、興味本位で観に行った。
初めて動く三島を見て、思っていたよりもずっとリベラルで、純粋で、正直な人だと感じた。
彼が1000人の東大全共闘の学生の前で「言葉でしか世の中は変えられない。僕は「言霊」を信じている」と言ったことには、右とか左とかを超えて、人としてお互いをリスペクトする潔さを感じた。
正直、いつ生まれたのかによって、感じることは違うんだと思う。
三島のように1920年代〜30年代に生まれた世代は、戦中に自分の周りの友達や同級生が戦死したことを経験し、生き残った自分に対する思いを抱えて生きていると思う。
全共闘世代の学生は、1950年ごろに生まれた世代で、戦後の日本が、アメリカに振り回されていく恐怖をリアルに言葉に出して戦っていこうとした世代だと思う。
そして、1960年以降に生まれた私を含めるほとんどの人は、過去に起きた戦争で実は何が起きていたのかを知らずにそのまま暮らしているように思う。
今の若い世代の人に この時代に起きていたことが実際に日本で起きていたことと受け止められるだろうか?
ある意味、私は今の日本はものすごく平和だと思う。それは、このような過去に起こったことを全て、自分が知ろうと思えば情報を得ることが出来るからだ。
三島が東大全共闘に言った言葉、「俺たちは、いつでも共闘できる。俺たちの敵は、曖昧で猥雑な日本国だ。」と言ったところに深く共感する。
その曖昧さや猥雑さは、50年経った今でも変わらないのではないかと感じる。
三島由紀夫の功罪
三島由紀夫の作品なんか一作も読んでいない私も三島のカッコよさは体感できた。右である楯の会を率いる三島が極左である東大全共闘が相入れるわけない。しかし三島は全共闘にシンパシーを感じていた。両極でありながらともに共通の理念としては過激派であるということ。実際に三島は全共闘の幹部に対しリクルートまがいの活動をしている。全共闘を完膚なきまで論破するどころか天皇に対しての考え方以外は思いのほか肯定的。普通に考えたら稼ぎのないすねっかじりが偉そうに革命を語るのを認めてしまっている。後に全共闘の一部が連合赤軍に移行しトンデモ事件を起こしてしまっている。左翼の武装闘争を三島が全否定できるわけはないが、武装=正義という構図をこの討論で認めてしまっている三島の功罪は明らかにあるような気がする。
とにかく21世紀の日本の学生にはない熱さと男三島由紀夫のカッコよさを体感できるナイスなドキュメンタリー作品だと思う。
薔薇を背負う男
昭和の文豪である三島由紀夫だが、2作しか読んだことがない。電車の中で「憂国」を読んで気持ち悪くなって以来、拒否反応が…。うーん、「潮騒」からにすれば良かったのだろうか。あと、美術館で少し見た程度だけど、細江英公の写真集「薔薇刑」は知っている。半裸で、様々なポーズを取る三島。なんとも妖しい匂い。この写真集の何年か後に、薔薇族が出たのかな。
こんなイメージしか持ってなくて、ごめん、三島さん。もーほんと頭の回転が早い早い、若者から投げられたボールを返しまくったね。しかも相手の話もきちんと聞く。すごく誠意が感じられた。終始、紳士だった。
左指向の1,000人に、右の人が1人で対する。護衛が秘かに入り込むくらい、危ない状況だろう。でも、赤子を抱いた芥正彦のおかげで、場の雰囲気が丸くなったように思う。もしかして、わざと連れてきてたりして。赤ちゃんが、流血沙汰を防ぐストッパーの役割になると考えてたとしたら…? 何となくそんな気がした。三島と芥のやりとりにも、そこはかとなくユーモアが感じられ、年齢も主義も違う2人だけど、通じ合うものがあるように思えた。
ナレーターは東出昌大。多分、監督の要望通りにしゃべっているんだろうけど、なんか甘いというかセンチメンタルなイメージ。確かに題材は過去の出来事なのだが、ちょっと感傷的に聞こえてしまう。好みの問題だろうか。討論の合間に解説が入るのは、わかりやすくて助かった。
しかし、全共闘とは何だったんだろう。共産主義って、みんな平等のように想像するけど、実際は格差もあるだろうし、全ての人が幸せかどうか…。若いうちは理想に突き進むものなのか。あの熱の正体がわかる日は来るのだろうか。
好きじゃないのに魅力的だと思ってしまうカリスマ性
三島由紀夫に対する思い入れどころか、作品さえも読んだことのない自分がなぜこの映画を観たのだろう。それはもうタイトルに惹かれたからだと思う。なんて刺激的なタイトルなのだろう。
50年前に東大全共闘が主催した三島由紀夫との討論会の映像に、当事者やゆかりのある専門家たちのインタビューを追加したドキュメンタリー。正直、喧々諤々の大激論を想像していたので若干肩透かしにあった気分だった。
映像の三島由紀夫は論理的に話そうと心がけていたし、話し方も紳士的で笑いもとるくらいのユーモアもある。あー、この人は魅力にあふれていると感じた。三島の考え方は好きではないが、好きになる人の気持ちもわかった。
日本の左翼運動・学生運動はなぜ廃れたのか。学生たちがふっかける論点や三島と議論する内容はかなり哲学的で難しい表現であった(時代が違うといえばそれまでだが)。彼らは革命への熱情はあったと思うが、思考遊びが過ぎたのではないか。大衆の支持を失っていった一因はそんなところにあるのかもなんてことを考えてしまった。
不思議なことに、基本的には昔の討論とインタビューを交互に映し出すだけの映画だが、飽きずに観ることができた。昔の映像の加工であったり、全体の構成がよかったんだなと実感。こんなドキュメンタリーならまた観たい。
50年前の討論会なのに古く感じなかった
知らなかった事が多すぎて
三島由紀夫の「天皇」
カリスマ性
熱情だけは信じる。
1969年の全共闘学生約1000人と三島由紀夫の討論会を軸に、当時のにおいを伝えるドキュメンタリー。
三島由紀夫の肉声を聞いたのは初めてで、ちょっと高めな声。理路整然と文学的な教養を交えて切り込む言論には引き込まれる。
学生の言論にも耳をかたむけ打ち負かそうすることなくユーモアを交えていなしていく言葉のやりとり。自説の論理を行動で体現することにヒリヒリしたものを感じる。
あれから50年、あの熱情は中和されたかのようにふわっとした空気が包むが、熱情自体が現代に消え去ったわけではないと思う。拡散中和されているだけで、みえない部分できっと人は熱情をもっているはず、そう思う。
三島由紀夫が「熱情だけは信じる」と言っていたが、僕はあの言葉がすがりつける唯一のものだったとして、それは現代でもあると信じる。
全175件中、41~60件目を表示