「今、私は諸君の熱量を信じます。これは何があっても信じます。」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
今、私は諸君の熱量を信じます。これは何があっても信じます。
学生運動華やかかりし60年代。東大全共闘側は体制側の象徴である三島をやり玉にあげようと討論の場に呼んだ。特別陳列品”近代ゴリラ”のポスター、飼育費100円のカンパを募り、三島を虚仮にする学生側の思惑を分かった上で乗り込む三島の度胸たるや。挑発的スピーチで始まるが、けして言葉はぞんざいではない。態度はとても誠実で手を抜かず、学生と言えども相手をリスペクトしていることがうかがえる。千人の学生を圧倒する存在感。敵視していたはずなのに、つい「先生」と口走る学生。三島の笑顔は侮蔑ではなかったし、タバコをすう仕草はポーズではなくゆとりだった。もう、この時点で三島の勝ちだった。三島の言葉は、学生に届く。思想は違っていても、自分たちと同じ熱量を持った男だと知って。
議論の間に挿し込まれる、当事者や現代識者のインタビューがまた絶妙な解説となる。ナレーション役の東出の語りも邪魔にはならなかった。
全共闘屈指の論客・芥が形勢逆転に奮闘するが、彼の言葉は難解で会場のどれだけの人間がその真意を理解したであろうか。僕には、若さゆえの虚栄、自己陶酔、難語による攪乱のように映った。聞く者に届いてこそ「言葉」だと思う。それに比べ三島は、彼の言葉を受け止めながら学生に伝わる言葉を選びながら対峙する。だからと言って三島は学生相手にマウントをとったりしない。颯爽と会場を去る三島の凛々しさったらなく、やはり時代の寵児たるオーラを纏っていた。
そして、一年後の自決。演説でもその予言めいたものはあった。彼を失ったことは時代の失態であろうが、あの才能があのまま朽ちていく老いは想像できないので、彼は彼で自らの完結を命の代償をもって演じてみせたのだろう。
僕はエンドロールを見届けながら、おおきく息を吐いた。