トルーマン・カポーティ 真実のテープのレビュー・感想・評価
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カポーティを知ってないと退屈
アメリカ文学を代表する作家(らしい)トルーマン・カポーティの実際のインタビュー映像や音声テープを基に製作されたドキュメンタリー作品。
この作品を観るまでカポーティを知らなかった為、そんな作家が居たのか、位の気持ちで観ていた。
自分のこの作品に向かう姿勢の問題だが、興味が持てず退屈だった。
翻訳ででも何作か読んだ事が有れば見方が違ったのだろうし、この作品を観賞したおかげでカポーティと言う作家の事を知れたのは良かったと思った。
「叶えられた祈り」で有名人の秘密を暴露した事が社交界追放の理由らしいが、それも彼らしいな、と思った。
奇才な人のドキュメンタリー
恥ずかしながら、トルーマン・カポーティをそんなに詳しく知らなかったので
たまにはドキュメンタリーも観てみようかなくらいの感じで
観に行ってきました。
実際のインタビュー動画も多く使っていて
リアリティがありよかった。
トルーマン・カポーティに興味を持てるという意味でも、
よく知る人にとっても良さそうな作品かなと思う。
その時代の映画や音楽も楽しい
内容は解説を読めば分かります^_^。ジャズのナンバーが心地良く流れ、懐かしい映画も見られて、時代を感じて字幕読みを忘れて楽しめます^_^
魅力的
若干、眠ってしまいまして…
面白くなかったわけではなく、
体調によるものですので惜しいことをしたと後悔しつつ、
覚醒していた部分だけで申し上げますと
たいへん魅力的な人物でありました。
+ 放っておけない危うさね。
ただ、遠巻きに観察的に見て聞いている分には良いが
近しい者となった時は…と想像すると…。
彼が壊したかったものは、アメリカに作られた虚構の貴族たち
トルーマン・カポーティを「ティファニーで朝食を」の作者というぐらいしか認識していなかった。
そして、「ティファニーで朝食を」もオードリー・ヘップバーンのファッショナブルなスタイルにしか目に入っておらず、
「ローマの休日」の延長線上くらいにしか考えていなかったように思う。
トルーマン・カポーティを語るには、「ティファニーで朝食を」「冷血」プラザ・ホテルでのBlack and White Ball そして、3章までしか発表されていない「叶えられた祈り」なんだろう。
一貫して彼が暴きたいものは、後からは変えられない人の生まれという化けの皮を剥がして、そこから見えてくる人間の生の姿とのギャップを世の中に晒したかったんじゃないか。
「ティファニーで朝食」をでは、ほぼ娼婦のような主人公のホリーに自分の母親を重ね、
「冷血」では、犯人がなぜ、殺人を犯すような心理になったかを街中の人たちまで取材し、犯人と心を交わすことにより、どこか自分を重ね、
Black and White Ball では、かたやベトナム戦争が行われる中で、大々的にマスメディアを使って、500人近いトップセレブの仮面の下の偽善に満ちた顔を見せながら、
ゴシップを漁り、「叶えられた祈り」で彼らの裏の裏にある破廉恥な事実を世間に晒すことを楽しんでいる。
アメリカの金権主義、資本主義というシステムを使いながら、一部のセレブリティにとって都合のいい世の中。
カポーティは彼らと付き合いながら、自分を重宝しながらも決して心の奥底では自分たちの仲間とは思っていない彼らの特権意識を嘲笑っていたのかもしれない。
リアル「グレートギャッツビー」を思わせるような世界。
アメリカの富の集中が引き起こしている、人間の本性を垣間見れるドキュメンタリーだと思う。
過度な期待をせずに
トルーマン・カポーティといえば、個人的には作家というよりも『名探偵登場』での怪演技俳優というイメージが強い。
当の本人もかなり個性的だったんだろうなというのは、伝記映画『カポーティ』からも伺い知れるが、本作では家族や友人、関係者の証言をベースに、彼のパーソナルな部分をひも解いている。
「カポーティを“演じて”いた」という友人の証言が示すように、セレブリティで派手な生活を送る一方で、愛する人との離別や作品づくりの苦悩が浮き彫りになっていく。
ただ、その要となるはずの証言エピソードや秘蔵映像が見聞きしたことのあるものばかりで、目新しさに欠ける。カポーティにあまり詳しくない自分でもそう思ったぐらいなのだから、筋金入りの彼のファンなら「何を今さら…」と思うかも。
そもそも、なぜ死後36年という半端な時期にカポーティのドキュメンタリーを作ろうと思ったのか。未完の絶筆『叶えられた祈り』に関する最新情報が出たのを踏まえてのドキュメンタリー製作かと思っていたこともあり、何事も過度な期待はしない方が無難だとあらためて実感。
【曖昧な境界】
トルーマン・カポーティは、小説と現実のはざま、現実と虚構のはざまを生きたのだと思う。
これらの間を行ったり来たりしながら生きたのだ。
作中に取り上げられる、「遠い声 遠い部屋」は自伝的な小説とされるが、アメリカ的伝統文化の色濃く残る南部で生まれ、しかし、父親の不在、小柄、女の子の様な声、ゲイといった要素は、自分が周囲とは異なる存在であることを意識させ、孤独を助長し、そして、退廃的なものに惹かれる傾向をを強めたのではないのか。
そして、これらが合わさって、自分の育った背景とは全く異なるニューヨークのハイソサイエティを目指すモチベーションとなったのではないのか。
日本では、多くの人が、「ティファニーで朝食を」で、トルーマン・カポーティの名前を知ることになったのではないか思うが、田舎から出てきたホリーが、ニューヨークの社交界を目指すストーリーだ。
そして「冷血」。
複数のアカデミー賞候補に上った「カポーティ」では、殺人犯に友情を覚えるよになるストーリーだったが、この「トルーマン・カポーティ 真実のテープ」を観ると、改めて友情ではなく、ゲイとしての好意だったことを意識させられる。
小説「ティファニーで朝食を」には語り手がいて一定の距離感がある。
「冷血」はノンフィクションだが、客観的とは言い切れず、この事件との、そして犯人との距離感は近い。
更に、実際にゲイとしての好意を抱きながらも、小説との整合性を図るかのように、トルーマン・カポーティが犯人の早期の死刑執行を望んできたことが、この作品では語られる。
この微妙な距離感と、バランスともつかない立ち位置がトルーマン・カポーティの特徴ではないのか。
小説と現実、現実と虚構のはざまに存在する曖昧な場所。
父親の不在。
孤独。
南部出身なのにマッチョではなく小柄なうえ、女性の様な声・話し方。
ゲイ。
自分はどこにも属さない、不完全なもののように常に感じていたのではないか。
それは、社交界で脚光を浴びようと変わるものではない。
なぜなら社交界自体が、実は、現実だからだ。
そして、それはより退廃的なものへと彼を向かわせ、半ば憧れを抱いていたハイソサイエティの内幕を明らかにする小説の創作へと向かわせ、更に自分自身の内面をアルコールやドラッグで曖昧なものにしていったのではないのか。
トルーマン・カポーティは多作ではない。
だが、記憶にも記録にも残り続ける小説家のように思う。
それに、僕達も、曖昧な距離感にいることはないのかと改めて考えてみる。
よく考えたら、あるだろう。
ある、きっとある。
カポーティのような考えが、少し頭をもたげるようなことが。
『カポーティ』を見ていたので、見たくなる。カポーティのヤバさは知っ...
『カポーティ』を見ていたので、見たくなる。カポーティのヤバさは知ってたわけだけど、この映画は、また別の意味での危機的な状態を示していた。テレビショーでアル中の真っ赤な顔やろれつの回らないのを見るのは辛い。でも、『叶えられた祈り』は、セレブ界への爆弾で、彼の立ち位置は貧しい人の側にあった、真実を追求しようとしていた、という、あたたかい視線があった。とはいえ、冷血で、死刑の早い執行を望んだ彼の行動と心理は消えないけど。
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