パピチャ 未来へのランウェイのレビュー・感想・評価
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人類に平和は訪れない
日本にも戦前には特高(特別高等警察)という組織があって、天皇制政治に反対する人々を取り締まっていた。「蟹工船」で有名な小林多喜二は特高に捕えられ、拷問を受けて獄死した。太平洋戦争が行き詰まるにつれて国粋主義が国中に蔓延して、派手な格好をした女性を愛国婦人会が注意するような場面もあったようだ。酷い時代だった。
しかし本作品のアルジェリアの状況は、悲惨さの点で日本の戦前の状況を遥かに上回る。それは日常に武器を携えたイスラム原理主義のゲリラがいるということだ。イスラム原理主義者は男女の別なく存在し、暴力的、攻撃的である。時として重装備だ。安全な場所などどこにもない。
主人公ネジュマの服飾デザインに対する情熱は並ではない。服飾と言えばパリコレクションに代表されるようにフランスのパリが究極の発信源である。アルジェリアは帝国主義時代のフランスのアフリカ横断政策によって19世紀のはじめ頃からフランスの植民地になっていて、フランス語が広く行き渡った。現代では公用語はアラビア語だが、一般で使われるのはフランス語だ。本作品のネジュマもフランス語を話す。服飾デザインをやりたくてフランス語が話せるなら、パリに出て勝負してみると考えるのが当然のような気がするが、ネジュマはそうしない。そして武装ゲリラがあふれるアルジェリアで無謀な行動に出る。
イスラム原理主義の恐ろしいところは、その不寛容さにある。一般に人間が腹をたてるのは、主に被害意識である。物理的、金銭的に損をしたとき、自分や家族を身体的に傷つけられたとき、人格を蔑ろにされて自尊心を傷つけられたときなどだ。しかしイスラム原理主義者の怒りは自分の被害にとどまらない。他人が反イスラム的であったりハラムであったりすることが我慢ならない。そして彼らは武器を持っている。ネジュマのように、愚かな人たちが信仰をたてに暴走しているだけと割り切るにはあまりにも危険である。
弱い人は自分の価値観を信じきれない。だから自由を恐れる。生きる拠り所がないからだ。だから自由を投げ出して宗教に価値観を委ねてしまう。教えられたとおりに生きるならそれほど楽なことはない。しかし自由への未練は残る。だから自分が捨ててしまった自由を謳歌する人が許せない。街でヘイトスピーチをする人々と同じ不寛容な精神性である。
イスラム原理主義者に限らず本作品のような精神性が世界に蔓延していて、更に増え続けているとすれば、人類から戦争は永久になくならない気がしてくる。現実主義者はだから武器が必要なのだとせっせと兵器開発に勤しむかもしれないが、武器があるから原理主義者が過激になるという見方もできる。日本で武器の売買が自由だったら、重大犯罪の発生数は現在の比ではないだろう。武器を取り締まることが犯罪を重大化させないことでもある。ナイフや包丁で人を殺すのは大変だが、大型の拳銃なら非力な人間でも人を殺せる。
人間が臆病なのは臆病であることが生き延びるのに必要だからだ。武器は人間から臆病さをなくし、変な勇気を与えてしまう。寛容と言葉による話し合いを放棄して暴力で他人の自由を封じ込めるのが武器だ。ヘミングウェイが「武器よさらば」を発表したのが100年近く前の1929年。何年経っても人間は弱くて武器に頼る。人類に平和は訪れない。
自由とは
90年代のアルジェリアで起きた内戦を背景に女子大生たちがイスラム原理主義者からの暴力に屈することなく新しい女性像を切り開こうと奮闘する姿を描いたヒューマンドラマ。授業中に黒いヒジャブを来たイスラム原理主義者の女性たちが教室に乱入し外国語教育の廃止を求めるシーンが登場したが、逆らう者には暴力で服従させようとする姿勢は恐怖でしかない。
にしても主人公は、この様な状況に置いて自由奔放過ぎやしないかと疑問に思った。命が懸かってる社会状況と言うのにファッションショーを開いたりとか。
体制に対する反抗なのだろうが、それにしてもだ。一度やなく何度ともなく危険な事であると助言を受けているのに。
ただラストは微かな希望を抱かせるものとなってるところに救いがあった。
ちなみにパピチャとは「常識にとらわれない自由な女性」という意味らしい。
女性のエネルギーを感じた
イスラムの社会で女性はかくあるべしとの規範にがんじがらめになっていることが分かる。その一方で主人公たちが日々それと闘い、傷つきながらも、国に留まって進んでいこうとする姿に、女性の強さを感じる。画面の作り方などには、時々?と感じた。
普通の青春物語もままならない
90年代の内戦中のアルジェリアで、イスラム原理主義と戦いながらファッションショーを開催しようとする女子大生達の物語。
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イスラム教の女性はビジャブっていうベールを被って髪の毛を隠さないといけなくて、厳しいと目以外全部隠してたり、未婚既婚でかぶり方が違ったりするらしい。
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そもそもこのビジャブを被る理由は男性は女性の魅力に弱いから女性は美しい部分を隠せってコーランに書いてあるらしい。この理屈が完全に性被害にあった女性に服装が悪いとか色目使ったんだろっていうクズと同じなんだよな〜こんなこと宗教に書いてあるのがびっくり。今は時代が違うから緩くなってるところもあるのかもしれないけど。
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普通の国なら、色々あったけどファッションショーを成功させたっていう青春物語になるけど、そんな普通の物語すらアルジェリアでは叶わない。
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女性の権利が低い国ほど女vs女になる気がして、ハリウッドだと男vs女だけど、この映画、ビジャブを被った女性と主人公達の対立がある。まずは女性の意識を変化させること、男性に理解してもらうのはまだまだ先。
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私は日本だって、まだ女vs女だと思ってる。日本はアルジェリアと違って目に見えないところでそういうのがあるから余計タチが悪い。
自分らしさを押し殺す生き方が信仰なのか
宗教やそれに基づく文化を否定する気はない。
でも、かつてロンドンにいた頃、日本より圧倒的な多さで、よく見かけた本作にも出てくるヒジャブとニカブは、私に好奇心と疑問を抱かせた。
この生き方に疑問を持つことはないのだろうか、と。
その頃から持ち続けている気持ちが、この映画にひかれた理由でもあって。
暗黒の90年代と呼ばれるアルジェリアを舞台に、自分らしさを求めた大学生のネジュマと周囲の人々の話。
自らも内乱の時代に家族と共にフランスに移住した監督の半自伝的な話だという。
ネジュマ役の子の美しさ。
目鼻立ちの整った愛らしさもある顔立ちと、その豊かな長い髪と、どの服もよく似合う体型。
ファッションに興味があり、自らも服を作る。
でも、当時のアルジェリアで求められ始めていた女性の生き方は、そのほぼ全てを隠すように生きることを強いてくる。
それが女性の生き方だ、と。
ネジュマは、逃げずにそれと真っ向からぶつかり続ける。
けれど、数々の過酷な運命が、彼女に襲いかかる。
ただ、自分らしく生きたいと、生きようとしているだけなのに。
「女は家から出ずに信心深く暮らせ」
「外国語を学ぶ必要はない、ヒジャブをかぶれ」
「死にたくなければヒジャブをつけろ」
「女が正しい服装をすれば、何の問題もない」
予告編に出てくるこれらの言葉たち
正直、理解できなかった
本編を見ながら、おそらくこの生き方が出来ない私は、思わずにはいられなかった
この信仰や、それに基づくこの文化は、それを望まない人の命を奪うほどのものなのか、と。
女性が女性である前に、ひとりの人間として、自分らしく生きようとする、その自由と選択を奪うほどのものなのか、と。
本国では上映禁止になったこの作品、ネジュマや彼女の周囲の人のような人々が、少しでも自分らしく生きられることを、願ってやまない。
幻想的な雰囲気を断ち切る現実
自分目線でいうと、エスニックで幻想的な雰囲気・・・が、それが突如の如く信じがたい現実でぶったぎられる・・・それの繰り返しだったという印象。
「PAPICHA」とは… アルジェリアのスラング。「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」という意味を持つ。─と、グーグル様が申しておりました。この意味を知っているだけでも、観賞の手助けとなると思います。
ちなみに、世界経済フォーラムなるところが男女格差を測るジェンダーギャップ指数なるもので格差の国別・地域別ランキングを発表していて、2020年は日本が121位、アルジェリアが132位、これが観賞に役立つかどうかは分からないが、極論、日本の現状はアルジェリアとそう遠いものではないと世界は見ているということを意識しながら観賞するだけでも、没入できるかもしれません。
肝心の映画の内容はというと、幻想的な音楽や映像は素晴らしいけれど・・・とにかく酷い!あまりに偏った描かれ方だとは感じるけれど、酷いことをした輩にどんな理由があったにせよ、決して肯定できない出来事が突如の如くバッサバッサと─。最後に訪れるのは、果たして希望か絶望か─、個々人で確かめてください。
アルジェリアのパワフルな女の子たち
アルジェリアが舞台の映画は初めて。
どんな風にパワフルな女の子たちなんだろう。
チラシを手にした時から楽しみにしていました。
ただ「女の子」であるだけでどれだけ行動を制限されているか。
日本も無縁の話じゃありません。
私自身は70年代生まれの40代ですが、10代の頃いつも窮屈さを感じていました。
「女の子」というだけで、有形無形の制限がたくさんあるのです。
スカートの丈は短すぎないように、奔放な振る舞いをしないように、一人で遠出しないように、言葉遣いに気をつけるように・・・などなど。
女の子だから大学じゃなくて短大で充分、という考えの女友達もいました。
ところがアルジェリアの場合、そうした圧力に抵抗しようとすると命がけとなってしまいます。
劇中、宗教を理由にヒジャブを強要する人たちに対し、「あの人たちは無知でそう信じているんだ」というようなセリフがあり、ヒヤリとしました。
そんなにハッキリ言っては、アルジェリアで上映禁止になるのもさもありなんですね。
女性への暴力や抑圧に対し、力強く抵抗し立ち上がり、折れかけ、そしてまた雑草のように立ち上がる。少なくとも、この女の子たちは10代だった私よりもずっとずっと勇敢です。彼女たちのその後が見たい。
そして、自分の出自を生かして母国の現実をあぶり出し、世界へ提示してくれた監督にエールを送りたいという気持ちを込めて星4つ。
日本の女の子たち、男の子たちにも見てほしいです。
【エンディング……】
このエンディングをどのように感じるか……。
アルジェリアは、1962年のフランスからの独立後も長い間、政情が安定したことはないように思う。
昔、バックパッカーをしてた時に、モロッコからアルジェリアに入ろうとして、ルートによっては危険だからやめた方がいいとアドバイスされて、素直に考え直したことを思い出す。
この作品は、暗黒の10年と呼ばれる90年代のアルジェリア内戦の時代が舞台だ。
だが、自分が入国を諦めたのを考えると、出てくる女性の現代的な出立ちや、煌びやかなビーズ、フランス語の会話、アメリカの音楽など、当時は想像もしなかったことばかりだ。
植民地時代からフランスの文化が大きく影響していたのだろう。
一度自由の息吹を感じたら、後戻りするのが困難なのは、世界のどの国でも一緒だろう。
話しは変わるが、モロッコのカサブランカも近代的な都市で、女性も現代的なファッションをしていた。
ただ、イスラム世界には、イスラム原理主義とか、イスラム復興主義と呼ばれるイスラム法に従って生きるのが最重要という考え方が根強くあり、これは常に自由主義や民主主義と対立している。
よく知られたのがアルカイダやタリバンだ。
そして、特に女性には戒律が厳しく、一夫多妻も特徴だ。
最近、サウジアラビアでは女性が車の運転が解禁されて話題なったが、ヒジャブはきっと必須のままだ。
宗教のことをあれこれ言うのは難しい。
アイデンティティにも関わる問題になりかねないからだ。
しかし、原理に従って、正当な裁判もなく、めたらやったら人を殺しても良いような思想原理などあり得ないだろう。
異なる宗教に対しての攻撃や他国へのテロも同様だ。
ただ、僕はこうした原理主義の背景には、資源ナショナリズムが強くあるように思う。
資源が潤沢にあって、有能な人材や他の産業を育成する必要もなく、特定の階層だけが、豊かで努力や忍耐などなく潤っていれば、それで良いと思う人は少なからずいると、下世話だが思う。
車での移動の中の会話を聞いていても、女性は従属的で、何も言わず、家にじっとしていてくれれば良いというように思う男性が伺える。
バカバカしいが、きっと真面目にそう思っているに違いないのだ。
そして、政府と対立するアルジェリアの原理主義派は、資源の利権を内戦に乗じた暴力で奪取して、これに反目する考え方の人間には銃をぶっ放して、殺したり、黙らせれば良いと、実は、イスラム法典に具体的に書いてないのに、原理主義の指導者が勝手にイスラム法を解釈して、それを流布して、自分たちは許され、救われると信じて疑わないのだ。
だが、時代は変わりつつある。
原油が枯渇しつつあると言われていたアメリカが、シェール原油やガスの産出量が復活して、中東諸侯やロシアを抜いて、世界一となり、だが、一方で、国際エネルギー機関(IEA)や石油輸出国機構(OPEC)は、世界の化石燃料の需要見通しは、再生可能エネルギーの効率化や、地球温暖化を食い止める世界的なムーヴメントで減少の一途だと予想している。
主要なエネルギー供給国には散々な見通しだ。
世界一の産油国サウジアラビアでさえ、ほかの産業育成が急務だとしているのだ。
アルジェリアも天然ガスを中心に化石エネルギーの豊富な国だ。
この利権は、政府、反政府派の戦いの中心だ。
リビアも似た状況だ。
でも、世界は変わりつつある。
だから、この映画のアルジェリア国内での上映を拒んだり、アメリカのアカデミー賞に圧力をかけて出品を妨害したりしないで、もっと国際交流を図ったり、女性の社会進出を図ったほうが、今後の国としての生き残りのためには重要だろう。
最後の場面、当時、こうした光景が実際にあったのだそうだ。
やるせなさを感じてため息をつくのか、
怒りの感情を呼び起こすのか、
パピチャがアルジェリア出身の女性によって作られたことを考えて少しでも事態が改善していると思うのか、
時間がかかりすぎと感じるのか、
世界的にこの映画が上映されて出来るだけ多くの人の目に留まり、問題意識を共有出来れば良いと願うのか、
人それぞれだと思う。
救われない光景で、当時のアルジェリアの惨状が明らかになり、憂鬱にもなったが、それでも、女性達の強い意志には変わりがなく、こうした映画が作られたのだと僕は思う。
だから、少しは明るい気持ちを保ちつつ、世界の人々がこの状況を共有して、問題意識として心に留められたら良いと心から願う。
紛争や戦争の芽
1990年代のアルジェリアで、ファッションデザイナーを夢見る女子大生が文化と時代と国に抗い生きる話。
イスラム原理主義者が力を増して行く中で、ヒジャブをつけずハイクを着ず寮で暮らす主人公。若い頃のジェシカ・アルバにちょっと似てる。
主人公以外にもヒジャブをつけていない人がかなり多かったのが個人的には意外。
検問所を偽った原理主義者による宗教感の異なる人物の殺害事件が頻発していき、学校内でも外国語の抗議にすら異議を唱える一団が現れたりとまともじゃない。
でも、これが当時のアルジェリアのリアル。
信仰もその深さも自由だけど、自己完結でと切に願うよホントに。
そんな中、主人公の近くにも影響があり、寮内でハイクを使ったファッションショーを開くことを思いついて行く。
主人公もイスラム教徒だし、生まれた国に対する思いもあるしという葛藤や、身の危険をおぼえる葛藤の中で、仲間たちと共に「生きる」決断が、恐ろしく力強くとても響いた。
アルジェリアに生きる女性の物語は母と姉から受け継がれ、そして友の娘へと引き継がれていく
女性の生きづらさや閉塞感という点では、日本や韓国と驚くほど似ている(ちなみに2019年のジェンダーギャップ指数は韓国が108位、日本121位、アルジェリア132位)。韓国でのジェンダーギャップを描き、日本でも話題になった、「 82年生まれ、キム・ジヨン」での女性の息苦しい社会を想起させる(日本はジェンダーギャップの社会課題にきちんと向き合った映画すら制作されていない)。
しかし、日韓との決定的な違いは、アルジェリアでは女性が声をあげることは生命の危険に直結することだ。
アルジェリアの90年代は「暗黒の10年(La décennie noire)」と呼ばれ、独裁政権と反政府組織(イスラム原理主義者)が衝突し、一般市民含めた10万人以上の犠牲者を出している。この作品でも原理主義者や彼らを支持する市民が登場し、ヒジャブの着用を強制する同調圧力が伝わってくる。所々で描かれるテロの現場は凄惨かつとても痛々しい。
「大変だよね。でも、あれはイスラム教の国だから私たちには関係ないし…」と他所ごとですまされる話だろうか。ヒジャブ着用が議論になっているので宗教的な背景に目がいきがちだが、問題の背景は男尊女卑の世間の根深い意識の問題だ。そういう意味では日韓も根っこは同じ。また、日本においても社会の分断が深刻化し、ヘイトや不寛容からの暴力性は深刻化する一方だ。
Mounia Meddour監督がこの作品で提示される社会課題はどこの国でも起こりうるものとして描きつつ、決して希望は捨ててはいけないと最後のシーンはポジティブに表現している点に共感を覚える。
アルジェリア独立戦争を経験してきた母親の姿は強く美しい。姉は最後までジャーナリズムの正義の精神に生き、Nedjmaはファッションで女性の生きる自由を表現しようとする。自由を求めて海外に行くのではなく、あくまで国内にとどまって闘って生きていく姿勢を捨てず、友人の生まれてくる「娘」にもその想いを伝えていこうとする。
彼女たちの希望を捨てずに生きる姿勢から私たちが学ぶべきことはたくさんあるはず。
自分の娘にもぜひ観てほしいと思う。
タイトルなし
デザイナーを目指すネジュマ
夢・自由を求め大学で学び夜遊びもするが
行動は監視・制限
死にたくなければヒジャブをつけろと
着用を強要もされるが
自由を求め
ハイクを使ったファッションショーを行い
抵抗する
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試写会後のAfter talkに監督登壇
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1990年代のアルジェ
15万人ものの人々が亡くなったとされる
アルジェリア内戦(暗黒の10年)
1990年代に青春時代を過ごした若者たち
ムニア・メドゥール監督もその一人。
アルジェリアを離れたことにより
客観的に見られるようになったという。
自身の記憶を辿り
イスラム原理主義による女性弾圧
国内テロとの闘いを内側から
女性の姿・その立場から描いた
実話から生まれた物語。
当時の若者の心にはトラウマが残るという
この映画はアルジェリアでは上映中止に。
女性たちの心の叫びに耳を傾ける
声をあげるきっかけにと
監督は語っていました
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