「救われたような気がした」コリーニ事件 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
救われたような気がした
展開が非常に面白くて、様々な問題提起もある意欲的な作品である。台詞よりも表情で語らせる説明的でない演出もいいし、それに応える役者陣の演技も優れている。特にファブリツィオ・コリーニを演じたフランコ・ネロの存在感は凄い。新米弁護士が主役でともすれば法律談義の映画になってしまいそうなところを、この人の存在感で人間ドラマの範疇にとどまらせている。
ドイツではナチスを生んでしまったことに対する賛否両論がいまでも続いている。未鑑賞だが最近公開された映画「お名前はアドルフ?」は、生れてくる赤ん坊の名前のことで家族や友人が大論争を始める内容らしい。実際のドイツでも、他のどんな名前でもいいから赤ん坊にアドルフと名付けるのだけはよせと言う人は多いと思う。つまりそれだけナチスに対する反省が続いているということだ。対して日本では、松岡洋右や東条英機の名前さえ知らない人が当方の周囲でも結構いる。主に若者だが、本人の問題というよりも教育の問題だろう。
日本の高等学校までの歴史教育では近代史をほとんど教えない。だから戦争時の大本営発表に国民が沸き立ったことも、マスコミが軍と一緒になって嘘の勝利を報道し続けたことも知らない人が多い。南京大虐殺や従軍慰安婦問題などはまったく教えない。関東軍が中国で何をしたのか、大人になって映画を観るまで知らなかった。
文科省は日本の近代の戦争を教えることに消極的だが、日本の映画界の人々は積極的に戦争の本質を追求する。当方が観ただけでも、鑑賞が新しい順で紹介すると「この世界のさらにいくつもの片隅に」「日本鬼子(リーベンクイズ)」「アルキメデスの大戦」「東京裁判」「沖縄スパイ戦史」などがある。少し前だが「日本のいちばん長い日」「小さいおうち」「少年H」「一枚のハガキ」なども観た。
それぞれに視点も見方も異なるが、戦争を美化することなく正面から受け止める姿勢は共通している。映画人の戦争にかかわる世界観は、文科省のそれとは一線を画しているのだ。邦画の戦争映画の多くは戦争がどのようにして起き、人々がどのように苦しんだのかを目の当たりにさせてくれる。歴史の教科書を開く前に、中学生、高校生には戦争映画を観てもらいたい。
本作品の主人公カスパー・ライネン弁護士を取り巻く人間関係は、ストーリーの展開とともに少しずつ明らかになる。小声の台詞で明らかにされる過去もあり、注意深く鑑賞しなければならない。
物語の主眼はライネン弁護士が被告の過去を探り、その人生の真実に迫るところにある。被告が殺したことは明らかだが、動機がわからない。真相に迫るにつれて、もはや罪の軽重を争うことよりも、過去の真実を追及することがライネン弁護士の仕事となる。罪の軽重ではなく被告の人間としての尊厳を守るためだ。
ドイツに限らず、法定では当事者の素行が容赦なく暴露され、人格が攻撃される。それは被告や原告の利益のためである。しかし本当に大事なのは、当事者の尊厳が守られることである。名誉や虚栄ではなく人間としての尊厳。そこがこれまでの法廷映画とはまったく異なる、本作品独自の世界観である。
三つ子の魂百までというが、人は幼い頃の心の傷を一生背負って生きていく。その忍耐と意志には敬意を表したい。そして誰もが心の傷を負っているのだとしたら、人は他人の人生に敬意を持たねばならない。金持ちでもホームレスでも、その人生に貴賤はない。等しく他人の人生を敬すること、そこに人間の尊厳がある。
法定を通じて無名の人間のささやかな人生にも敬意を表し、人間としての尊厳を重んじる本作品の世界観に、なにかしら救われたような気がした。