劇場公開日 2020年12月25日

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「かんどーぽるの」映画 えんとつ町のプペル 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

0.5かんどーぽるの

2021年5月31日
PCから投稿

アニメ解説をするオタキングこと岡田氏のユーチューブ動画を見たことがあります。多くの動画をやっていて、見たのは数本ですが、火垂るの墓についての精密な論説がみごとでした。
すぐれたアニメ作品には、すさまじいディティール(細部)があります。

火垂るの墓を見ても、気づくことができませんでしたが、(主人公の)清太は死んでいて幽霊となっている彼が、回顧するかたちで語られる話のようです。

『幽霊となった清太が自分が死ぬまでの数カ月間を現代まで繰り返し見ていることやこれが心中物であるのが冒頭だけでわかるように緻密に計算されて描かれている。』
(アニメ映画「火垂るの墓」wikiより)

(火垂るの墓は)冒頭、(神戸の)三宮駅で、事切れる清太の描写からはじまります。
そのため、現代の三宮駅から過去の三宮駅に切り替わる描写がある、と解説していました。
しかし、それは、ほんの一瞬ですし、三宮駅の構内の様子を見知っているわけでもない観衆には、シーンが何を意味するか、ほとんど伝わらないと思います。じっさい、岡田氏はそれ(わかりにくさ)を踏まえて、火垂るの墓の解説をしていた──わけです。

アニメの細かさに対して、思うのは、そのディティールは、適当なカットでも大丈夫なのではないか──ということです。
わざわざ三宮駅をロケして描かなくても、それらしき情景、だいたいな感じで、事足りるのではないか──ということです。

しかし、高畑勲も宮崎駿も、あるいは新海誠、細田守、押井守・・・すぐれたアニメーションの作家はディティールを、おろそかにしません。
わたしはサマーウォーズの舞台に設定されている長野県の上田市へ行ったことがありますが、アニメーションで、その場所が完全にロケハンされていることがわかりました。行って、見て、一枚一枚スケッチしたはずです。

観衆が映像作品に優れたクオリティを感じるとき、意識下と無意識下があると思います。
意識下のクオリティとは、ぱっと見てわかるものや、流麗な音楽や、あらすじです。だれもが同等にとらえることができる皮相部分です。

サマーウォーズが、適当な想像の情景で描かれていたとしても、大丈夫だった、とは思います。
でも、それだと、無意識下のクオリティは下がったのではないか、と思うのです。
だけど、無意識下のクオリティとは、なんでしょう?

クルマでも、日用品でも、道具でも、使っていると、細かいところまで考慮されていて、使い勝手がいい──と感じるモノと、なんかテキトーに安くつくられていて、やはり値段なりだ──と感じるモノがあります。日常使いしているなら、なおさら、それが解るはずです。

映画を見慣れているなら、しっかり作られている映画と、テキトーに作られている映画は、たとえそれが説明できないとしても、なんとなく解るはずです。「なんとなく」とは文字通りの「なんとなく」ですが、自分にとっては確たるものです。それが無意識下のクオリティ──だと思います。リテラシーに相当するモノです。

この映画えんとつ町のプペルの舞台はどこでしょう?モデルは九份とかコンビナートなどと言われていますが、なぜですか?プペル、ルビッチ、ブルーノ、ローラ。外国の名前ですよね。なぜですか?ハロウィン及びハロウィンに仮装する習慣があるようです。国籍はどこですか?えんとつだらけで煙に覆われているのは、なんで?ルビッチは山高帽をかぶって、蝶ネクタイしているけれど、なぜですか?

わたしは、これらの「なぜ」の答を知っています。その答は「だいたいそんな感じだから」です。
パクリではない──としても、プペルはわたしたちが見てきた過去の名作の端々を拝借しています。
オリジナルですがオリジナリティはありません。
「だいたいそんな感じ」の画やキャラクタライズやストーリーで固められたアニメ作品です。
映画えんとつ町のプペルは完成度の高い意識下のクオリティを持っています。一方で、無意識下の素地がない「模倣だらけのオリジナル」アニメ映画だと思います。

これでいいなら、世のなかに作家なんて要らない。という話です。ぎゃくに、なぜ作家が要りますか?たとえば、ディストピアはマッドマックス2風で、未来都市はブレードランナー風で、クリーチャーはエイリアン風で、わちゃわちゃした繁華な街並みは千と千尋風で、文明の痕跡はラピュタ風あるいは(未来少年)コナン風で・・・。

既出イメージを「だいたいな感じ」に切り貼りすれば、どこかで見たような気がする──とはいえ一応のオリジナルアニメができます。どこに作家がたずさわる余地がありますか?プペルでいいなら、作家も想像力も要りません、という話です。

ただし。これはビジネスモデルの新手です。アニメ作品をつくってお金儲けをする。少しも悪いことだとは思いません。オンラインサロンを運営しクラウドファンディングを管掌してさらに大きな活動への基盤を固めつつ「だいたいな感じ」でつくったアニメをヒットさせる。現実に成功をおさめています。

だけど、ディティールをおろそかにしないアニメクリエイターや、巨匠のつくったアニメを愛してきた観衆は、まちがいなくプペルを拒絶するリテラシーを持っているはずです。持っていないはずがありません。
宮崎氏や新海氏など世界じゅうのひとびとに愛されているアニメーターのアニメと同例なはずがありません。ロートルな映画ファンが、その違いがわからないほど節穴だとは思いません。
ハロウィンで意味もなく仮装する習俗は地球上には渋谷にしかありません。そんなご都合主義で成り立っている世界が『すさまじいディティール(細部)』や由縁を持っていると思いますか。

岡田氏は、本作のアニメはSTUDIO 4℃がつくっているからクオリティが高いだろうと述べたうえで、感動ポルノだから見ないと言っています。(岡田氏と西田氏は)お互いオンラインサロンを運営している旧知でしょうから、辛辣な評価を避けたくての見ない宣言かもしれませんが、事実上プペルの問題は、観衆を、たんに泣かそうとしていること──にあると思います。

もっとも訝しいのは、物語の中核となっている「煙の向こうには星がある」というルビッチ君の信心です。
よろしければ「煙の向こうには星がある」──との信条・主張について、考えてみて下さい。

この映画では、煙の向こうに星があるが「希望」や「夢」に置き換えられていますが、話の構造が、煙の向こうに星があるか、ないかだけです。
彦一とんち話の彦一が、怖くておかしくて悲しい話をしてくれとせがまれて「あるところに鬼が出ておならをして死んでしまいました」と話しました。相手は不平を言いますが、彦一は「鬼が出れば怖いだろ。おならをすれば可笑しいだろ。死んでしまえば悲しいじゃないか」と反証します。
プペルも同様です。映画は「煙の向こうには星があるって主張したら「希望」とか「夢」っぽくない?」と言っているのです。

わたしなら、煙の向こうには星があってもいいし、なくてもいいし、どちらであろうと、かまいません──とルビッチ君に回答します。
ところが、物語性=感動ポルノをムリムリに抽出しなければならなかったので、煙の向こうには星がある──を天動説下の「それでも地球は丸い」にしたのです。
なぜかは知りません。でもなぜかプペルの世界では「煙の向こうには星がある」が世間から反撥をくらっているのです。
それゆえルビッチ君はあたかもガリレイが地球は丸いと主張するように、人々から蔑まれながらも「煙の向こうには星がある」を主張するのですが、かれは研究者ではありません。なんの根拠もなく、ただたんに煙の向こうには星があると思っているだけの子供です。それを強引に「希望」や「夢」に仕立ててしまっている──わけです。
例えるならば、ルビッチ君はグレタです。「だったらまだわかんないじゃんか!」とは「How dare you !」です。
幼くして、不特定多数の大衆に敵意をもっているコドモはビョウキです。もちろん、そう仕向けたのは親ですが、ものごとの構造に疑問を持って下さい。

この作品にたいする根本的な疑問は、煙の向こうには星があるという信心に、どんな意味があるのか──ということに尽きます。

好適な例えではありませんが、先日、近所のスーパーの店頭にある容器包装廃棄物の回収について、職場の人と問答をしました。
議題にのぼっていたのは卵のトレイ(プラ容器)です。わたしは可と主張しましたが相手は「あれはだめだろ」と言います。(店舗によって回収できる容器、できない容器があります)
そこでわたしは「見たわけじゃないんだろ、だったらまだわかんないじゃないか」──と涙ぐみながら大声で主張しました。・・・。

たとえ無根拠でも、狂信は、相手をひるませることができます。「見たわけじゃないんだろ、だったらまだわかんないじゃないか」と叫んだ人間は、相手をひるませることができる、その恫喝的発言の旨味を覚えてしまうかもしれません。

星がある──という主張に欠けているのは、動機です。星があればいいのか、無ければダメなのか。根拠が欠落していることに加え、その主張によってもたらされることが呈示されていません。
星があると主張するのが善ならば、星がないと思うのは悪ですか?でもなぜですか?異端審問?てことは、星があるかないかが統制しなけりゃならないほどの危険思想なわけですか?でもなぜですか?そもそも星があると信じることが、なぜ正義になっているのですか?信じて上を見続けろとは、泣くところなのですか?でもなぜですか?星があると信じ続けることが、なぜ尊いことになってしまっているのですか?

この映画が、星があるかないかを「希望」や「夢」にしようとしているのは、わかります。でもわたしにとって星があるかないかは、卵容器は回収可か不可か、ていどの問題でしかありません。だから、映画内のすったもんだは、夏に24時間やってる募金のテレビ番組のマラソンです。強引で無意味なお仕着せの感動ポルノです。

となればルビッチ君は、まったく意味不明の「星がある」という主張を依怙地になって、主張しているあたまのおかしな少年です。
おそらくこの映画が好きなひとはグレタや不登校ユーチューバーやマスク拒否男を応援しているんじゃないでしょうか。

言いたいのは、いやいやルビッチ君、われわれはね君の意見にさらさら拮抗していないのですよ。さいしょから言ってるよね。煙の向こうに星があってもいいし、なくてもいいし、あるとも言ってないし、ないとも言ってないし。たのむから、ひとりで、そんなにドラマチックに盛り上がらないでくれませんか?ということです。

そもそも親父を失って星があると思っているだけの少年にどんな大義がありますか?かれは月並みな風潮に反撥する──というマーケティングをおこなっているだけの、少女環境活動家や少年革命家と同じわがままなガキです。笑わせないでくださいよ。

first of allですが、父は行方不明、母は病弱、プペルもルビッチも孤独なのは、シンパシー寄せる目的です。外的様相(可哀想や美麗や清貧)にだまされないで下さい。そんなことじゃ、人にも国にもマスコミにも、すぐにだまされちゃいますよ。たとえ今すぐ有用でなくても、大衆操作や誘導にたいして、抗力をもった大人になってください。湯を沸かすほどの熱い愛も、一杯のかけそばも、フランダースの犬の最終回も、この映画もコメディですよ。ネタですよ。モンティパイソンの4人のヨークシャー男と同じネタですよ。

プペル周辺で、個人的にもっとも驚いたのは、サロン商法のことでも何でもなく、これが受け容れられ、絶賛している人が多数いることです。
前述したとおり、プペルの問題は、観衆を、たんに泣かそうとしていること──にあります。もっと問題なのは、泣かそうとした感動ポルノに泣いちゃったひとが多いってことです。
ネタには問題はなく観る人の問題です。日本人やべえと思いました。

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津次郎