「大衆の「泣ける」「家族愛」の薄っぺらさに驚愕」劇場版ポケットモンスター ココ Shikiさんの映画レビュー(感想・評価)
大衆の「泣ける」「家族愛」の薄っぺらさに驚愕
正直自分には全く刺さりませんでした。
星0.5ではなく1なのは、OPのダイジェストだけは悪くなかったからです。
あとは全然ダメですね。
ポケモンの父と人間の子という発想自体は良かったと思います。
ただ自分が期待していたのは、前半ではザルードが親として人間の赤ん坊を悩みながら育てぬき、
後半では、
ポケモン社会で育てられた人間が人間社会に戻された時にどういう問題が生じるか、
その時ポケモンとして育てられたココはどちらの社会を選ぶのか、
父であるザルードは愛ゆえにココを連れ戻すのか、それとも子が人間として生きる幸せを掴むことを望むのか、
そういう視点から「家族愛」が探究されることだったんですね。
というより、誰もが「泣ける」と太鼓判を押すからには、それほどの「深い」作品なんだろうという先入観があったので、何とかの泉とかいう後で絶対問題が起こるような「いつもの要素」が出てきた開始5分の時点で、あっこれダメだわ、と思わされました。
自分が前半で描かれることを望んでいた部分はOPの2,3分のダイジェストであっけなく終わりましたし、こう言ってはなんですが、一般大衆にとっての「泣ける」作品、「家族愛」という概念は相当レベルが低く薄っぺらいんだな、とガッカリしましたね。
極めつけはココがザルードの技を使ったところですね。
もうなんか、ふつふつと負の感情が湧き上がってきました。
私は何を見せられているんだろうかと。
努力したら何でも叶えられる?
いやいや、人間が素の力で空を飛べるようになるわけがないだろうと。
口から火や水や草を出せるわけがないだろうと。
ポケットモンスターはあくまでポケモンがファンタジーなのであって、人間はリアルな人間のはずでしたよね(スーパーマサラ人は別として)
ミュウツーの逆襲から積み上げてきたものが一気に瓦解した瞬間でした。
完全に興醒めです。
そもそもポケモンが(実際にはポケモン語を話しているとしても)人間語を話すこと自体受け入れられないんですよね。
古い考えに縛られているのは重々承知の上ですが、ポケモンに人間語で会話させるっていう表現自体が安直だと思うんですよ。
ポケモンにはポケモンなりの意思伝達方法があるはずで、それを無視して「わかりやすさ」を優先するっていうのは表現として稚拙に過ぎる。
昔のポケモンはこうじゃなかったんですけどね(老害)
人間語を使わなくても表現の手段なんていくらでも思いつくはずですよ。
だって腐っても長年ポケモン映画作りに携わってきた表現のプロの集団なわけじゃないですか。
近年制作陣に加わった人たちばかりという話はありますが、それでもこれまで積み重ねてきた経験や技術は確実に受け継がれているはずですよね。
かつてのポケモン映画は大衆に迎合するようなものじゃなかった。
ポケモンを通して制作側の「哲学」が伝わってくるような力強い作品でした。
今や見る影もないですね。
「わかりやすい」作品じゃないと受け入れられないなんていうのは体のいい言い訳だと思います。
私個人としては、新しい作風を追究しながらも、作者が伝えたいものがダイレクトに表現されているような映画に出会いたいんですよ。
完全に「消費」されるだけのコンテンツと成り下がったポケモン映画シリーズには、コ〇ン同様用はないっていうのが正直なところ。
まあいいんですけどね。
結局のところ売上が正義なわけで、実際興行収入は年々上昇してる(?)らしいですから、需要と供給が合致するなら私のような素人が口出ししようとそよ風にもならんって話。
好きに作って好きに見ればいいですよ。
私はもうポケモン映画は観ません。
それで万事解決ですね。