劇場公開日 2020年2月29日

  • 予告編を見る

「100分が永遠に感じられる。」娘は戦場で生まれた きりんさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0100分が永遠に感じられる。

2021年6月6日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

僕の弟は中東へ、
爆撃をやめさせるための「人間の盾」になるために、戦地に行っていた事があるのです。
医薬品を届けに。

「人間の盾」の積もりだったのに日本人がいても攻撃はお構い無しだったそうですが(笑)
機関銃をよけるために猛スピードで走らせるトラックが道路真ん中の爆撃の穴に落ちて大破。薬瓶も全損。

そうしたら、しばらくの静寂のあと、無人としか思えなかった瓦礫の街から、一体どこに隠れていたのか、人が出てきて土にまみれた錠剤を
「よく来てくれた」「悪かったね、ありがとう」と言いながら、彼らは泣きながら一粒一粒、薬を拾ってくれたのだと。

あまり多くは語らなかったけど、弟は かの地の人々を忘れないために髭を伸ばしています。
弟のためにも僕もこの映画を観ることが出来て、良かったと思います。

・・・・・・・・・・・・

【女子大生の自撮りからスタート】
家族の記録として撮られた個人的なビデオが、
あとから振り返ってみれば爆撃に追い詰められていく市民の「戦火のドキュメンタリー」(という位置付け)になったのですね。

【報道に中立性はあるか?】
現場が現場だけに、シリア内戦の原因や、進攻の顛末への客観的な分析、そして報道の中立性などというものは、あそこで20代の娘ワアドに期待するほうが土台無理な話です。

「私の街アレッポ・・」の呟きは開始間もなく飛び出します。
この一言で、撮影の前提・コンセプトが最初に宣言されているものと言えます。
(外から取材に入った外国人のジャーナリストなのではなく、ワアドはあくまでもその街の住民・若妻・母として、“一人称”でこれを撮って
いる)。

【「敵」は誰か】
だから今まさにワアド一家の上に爆弾を落としている戦闘機が「敵」。背後の政権と、武器供与のスポンサー国が「敵」。即ちワアド一家にとっての現実のそれらが今の「敵」なのであり、かつ倒すべき「悪」なのであると、
・・彼女は守るべき「娘」を抱えながらその母性本能でそう判断し、ナレーションをなす。そのことは間違っていることではないと思います。
あくまでもふるさとを撮った私的な家族の記録なのですから。

仮にもしも、
逆にロシアの戦闘機がワアドたちを救い、アサドの兵が夫ハムザの病院を他の勢力から守った結果になっていたのなら、ロシアとアサドはワアド一家の「味方=正義=justice」 になるでしょう。

・・と、解釈はしてみましたが、
でも
鑑賞中ずっと僕は
畜生 畜生 畜生 畜生 畜生 畜生 畜生 畜生 畜生チクショーぉー!
と声が出て呻くばかりでした。
特にコンクリートの粉塵で顔から頭から真っ白になった兄弟が、小さな弟のむくろを病院に運びこんだところ。
わなわな体が震えて、嗚咽がどうにも抑えられませんでした。僕にも弟たちがいるもんで。耐えられなかった。

・・・・・・・・・・・・

医師である夫ハムザは、職務への責任から命を冒して戦場に戻ったのでしょう。その夫について行った妻は、ほぼすでに救命病院のスタッフです。
脱出先のトルコから戦地アレッポへのまさかの帰還、あれは使命感と極限状況の異常心理で、アドレナリンが出てハイになっていたとも。

【標的にされた者が着弾地で撮る意味】
とにかく、特異な記録映画です。

狙撃され、爆弾の標的とされ、だんだんと近づいてくる着弾の爆発音をひとつ、ふたつと計って数えながらの撮影。
と、裏の建物に被弾。もうもうたる煙が吹き込んで壁一枚で たまたま辛うじて生き延びる。
その日その日の爆死を免れていた「殺られる側からの」撮影映像ですから。

僕の父が言っていたんですよ、沖縄戦の記録映画を見ながら、彼はこう言いました
(そのフイルムはアメリカの国立公文書館に保管されていた膨大な記録映像を沖縄県がコピーして買い取ったものです)

・・曰く
「本当の戦争の映像ってもんは、余裕ある勝者側からの、=従軍カメラマンによる撮影=ではなく、あの火炎放射機の炎を浴びせかけられている人間がその瞬間最期に見た光景だ」。

その意味ではアレッポの病院での映像は、「それ」なのだと思いました。

ワアドの撮影は、本当なら、親バカのママが撮る、子供の誕生日やらハイハイやら、我が子のありふれた微笑ましい、そして見せられる側からすればまったく迷惑なホームビデオになるはずのものだったのです。

・・・・・・・・・・・・

原油が出ないから二束三文の土地だけど、“死の陣取り合戦”はきょうも続く。
人の罪の記録。

コメントする
きりん