「芦田愛菜という女優」星の子 kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
芦田愛菜という女優
WOWOWの放送で観賞
最近はテレビCMとバラエティ番組で見かけるほかは、声優活動の方が目立っていた芦田愛菜の久しぶりの本格的な芝居の披露である。
撮影時の実年齢は役と同じ、だったらしい。
彼女ありきの企画という訳ではなかったようだが、彼女以外にこの役を演じられる役者はいないのではないかと思えるような、演者と役の一体感を感じた。
我々は芦田愛菜を幼い頃から見ているので、彼女の生い立ちを知っているような錯覚に陥り、それを役と重ねてしまっているのかもしれない。
幼少期を演じた粟野咲莉が、芦田愛菜と違和感なくつながることが更にそれを後押ししている。朝ドラで広瀬すずの幼いころを演じた、あの子役だ。
主人公の姉を演じた蒔田彩珠の繊細さがまた良い。時間軸が異なるので芦田愛菜との絡みはないが、蒔田彩珠と粟野咲莉の二人のシーンが姉妹に愛情の絆がありながらも危うさと切なさを感じさせ、印象に残る。
特殊な宗教を信仰する両親。その信仰のきっかけが自分の病だったことを知っている主人公。
物心ついた時にはすでに両親はその宗教に心酔していたのだから、主人公にとってはそれが「普通」のはずである。しかし、7〜8歳は年が離れていると思われる姉にとっては、赤ん坊であった妹がそれによって回復する姿を目の当たりにしつつも、両親の行動が世間と違うことを知っていて、一定の距離を置いている。妹に対して「あんたの所為よ」とはっきり言ったりするから、主人公も「普通」ではないことを知らされたようだ。
信じるとはどういうことか…がテーマのようでいて、この映画はそのこと自体にメスを入れていない。
ましてや、信仰の是非など問うてはいない。
特殊な家庭環境に育った主人公の少女が、多感な15歳となり、男性教諭に恋心を抱き、ませた幼馴染とそのボーイフレンドとの友情に触れ、世間が自分を自分たちをどう見ているのかに向き合うことで自我を確立しようとする姿を描いている。
映画のクライマックスは、宗教施設での泊りがけの会合で、行きのバスも宿泊の部屋も両親と別れた主人公がなかなか母親に会えず戸惑う場面から、やっと会えた両親が「星を見に行こう」と外に連れて行く場面までの、ジワジワと不安を駆り立てるサスペンスだ。
黒木華の意味深な表情と語り口調、人気が引いた施設の不気味さが、主人公と我々を不安にさせたうえで両親の行動に不信感を抱かせるのだ。
そして、三人肩を寄せ合って星を眺めるラストシーンへと進む。
「流れ星は三人一緒に見つけないと」と父親が言う。カメラはこの三人を正面から捉える。父親永瀬正敏と母親原田知世の視線はそれぞれ一定方向を見つめて動かない。二人に挟まれた芦田愛菜の視線は、流れ星を見つけようと右に左に動いている。既に信じるものを一つに決めて揺るがない両親と、自分の道を模索しようとしている娘の心境を象徴した丁寧な演出。
多くの人は新興宗教を嫌う。そこに「洗脳」や「貢ぎ」の臭いを感じてしまうからだ。
大友康平演じる主人公の叔父や、とうとう本音をぶちまけてしまった二枚目教師の岡田将生の考えの方が理解しやすい。しかし、この映画では主人公の周囲に理解者(というか、主人公を尊重してくれる人)の存在がある。幼馴染をはじめとする同級生たちや養護教諭は、主人公の信仰を否定も肯定もしない。映画を観ている私たちは、同じ状況で後者のようになれるだろうか。
主人公と姉にはこの周囲の環境の違いがあったのかもしれない。恐らくだが、両親の信仰を隠すべきものと捉えた姉と、普通ではないかもしれないが実態として屈託なく捉えた主人公との違いが、身近な友人たちの接し方を左右したのだろうと想像する。
この周囲の人たちに支えられて、主人公は自分と信仰とを冷静に見つめることができた。
叔父夫婦が両親から距離を置くことを真剣に勧める。それを拒否する主人公に「解っていない」と叔父は言うが、この少女は解りかけているし、本人が言うように大丈夫なのだと思う。
そう思わせるのは、我々の芦田愛菜に対する信頼感かもしれない。