「「信じる」ことの葛藤~天才女優の演技」星の子 森のエテコウさんの映画レビュー(感想・評価)
「信じる」ことの葛藤~天才女優の演技
少し前、主演の芦田愛菜さんの「信じる」ことについての考察が、日本や中国で話題になった。
この映画は、未熟児で生まれ体の弱い娘を奇跡の水で救ってもらったと「信じた」夫婦が、その後その奇跡の水をプロデュースする宗教団体に入信し、恐らく奇跡の水などの商品購入や布施の為に家計が苦しくなる中、すくすくと育った娘が、姉や両親の屈折した行動に翻弄され、自分を見つめ、成長していく物語である。
そんな娘を演じる中で、「信じる」ことへの考察を深めた芦田愛菜さんのそれは、幼少から文学に親しみ感性を磨いてきた彼女ならではの深みに満ちたものであることは想像に難くない。
それは、彼女の演技から容易に想像できるのである。
この映画の良し悪しは、『良くもなく悪くもない』というのが正直なところであるが、演技陣の印象は心に残るものがあった。
特に、芦田愛菜さんのそれは、本当に存在し悩み葛藤する少女そのものであり、映画を観終わって時間が経っても、その少女のその後に想いが馳せられるのである。
人にとって「信じる」とはどういうことか。物語の夫婦は、自分の命よりも大事な我が子の命を助けられたことで、一つの「教え」に生活の全てを捧げていく。
これは誰にでも起こることで、人は自分が救われたと感じるものを「信じる」
宗教に限らず、音楽、文学、哲学、映画、絵画、人物、企業、そして国家まで。あらゆる他事を対象に「信じる」行為がなされる。
それは、自分の心のバランスを取る大きな要素であり、それゆえ「信じた」ものが他者から否定されることは心の大きなストレスになる。
人が「信じる」ものは人それぞれであり、人に迷惑を掛けない限り自由であるはずだが、人は自分の理解を越えるものに対して案外許容しない生き物であり、それも自分の心を守る一つの傾向なのだろう。
集団からの抗力。
個と集団の関係によって、個が「信じる」ことには、安定と不安定の両面があり葛藤が内在する。
少女は、無条件に自分を愛してくれる両親を慕いながら、両親に注がれる世間の眼差しに戸惑い、悩み、葛藤する。自分が両親の側に立つか、世間の側に立つか。かつて幼い頃は、両親を信じて疑わなかった少女も、客観的な価値観が備わり、心が揺らぐ。
主観と客観の狭間で思い悩む姿は、思春期の只中で自己のアイデンティティーの確立に思い悩む姿と重なり、二重の苦しみに掛ける言葉もない。
そんな息が詰まるような思いの揺らぎを、本来の天真爛漫な性格を微塵も感じさせず観客に静かに伝えてくる彼女は、天才子役から天才女優への階段を確実に登っている印象だ。