「共同体の歪んだパラダイム」子どもたちをよろしく 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
共同体の歪んだパラダイム
大変に重い映画である。救いようのない現実を突きつけられる。覚悟して観たほうがいい。
ふたつの家庭が描かれる。それぞれに問題を抱えた家庭だ。問題の本質を簡単に言ってしまえば、育児能力の欠如である。欠如のありようは人それぞれであり、子を育てる経済力のない親、愛情が薄く子供に無関心な親、自己中心的で依存心が強い親など、本来は子供を持つべきではない人が子供を生む。そして苦しむ。
ときとしてそういう親たちは「お前さえいなければ」や「お前なんか生まなければよかった」などの暴言を吐く。言われた子供は存在そのものを否定され、深く傷ついてしまう。傷ついた子供はどうすればいいのか。心根が優しく生まれついた子供は他人を傷つけられないから、自分自身を傷つけることになる。自傷行為を繰り返し、やがて自殺に至る。
それ以外の子供たちは他人や動物を傷つけてウサを晴らす。自分を否定している人間は自分のための努力をしないから、世の中を生きていくためのスキルを身に着けられない。頼るものは暴力だけという原始的な生き方になる。暴力と威嚇で世の中を生きていく人間になったりする。そして自分の子供時代を顧みることなく、子供を作る。繰り返しである。
子供たちを救えと言うのは簡単だ。一体誰から救うのか? 育児能力の欠如した親からか? しかしその親たちも、かつては子供だった。親たち自身が救われないから子供たちも救われない。救われない子供たちが救われない親となり、救われない子供たちを生産する。負の連鎖はどこまでも続くのだ。それが人類の歴史であった。
ノーベル賞を受賞したマララさんは教育を訴えたが、教育程度が高い筈の先進国でも子供たちはいじめられ、虐待されている。マララさんが理想とする教育と現在の世界の教育は別物なのかもしれないが、マララさんの理想とする教育が行なわれれば子供たちが救われるのかというと、それは多分違うだろう。
人類は共同体の価値観に弱い。そして生き延びるためなら信念も信条も投げ出してしまう。パンのためなら自由も権利も放り出す。共同体の価値観を決めるのはパンを施す人々であり、パンをもらう人々はその価値観に無条件に従わざるを得ない。そもそもそういった共同体の構造自体が、人間の存在を救いようのないものにしているのだ。
「子どもたちをよろしく」というタイトルは、共同体の我々ひとりひとりに向けられたものだ。個人の価値観が共同体のパラダイムに屈して、職業に貴賎の差をつけ、貧しい人を軽んずる社会になっていることに、根本的な原因がある。貧しい人が貧しいままに死んでいくことを「可哀想」と思うことが、既に共同体のパラダイムに精神を侵されている証左である。襤褸を纏った乞食も錦を着た富豪も、本来的に同じ人間として対等であり、等しく尊重されなければならない筈だ。
ところが我々は乞食を足蹴にし、富豪に阿る。そして子供たちもそれに倣い、他人に優劣をつけていじめる。子供たちのいじめの精神は共同体の差別的なパラダイムに担保されているのだ。大人と同じことをしているだけなのである。本作品に登場しているような不幸な子供たちを量産しているのは、共同体の歪んだパラダイムに蹂躙され、結果としてそれを支えている我々自身にほかならない。