「映画リテラシー」こおろぎ いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
映画リテラシー
【愛における自由と束縛の二律背反が引き起こす奇妙な生態の、昆虫観察的思索とそのレポート。日本を代表する実力派、鈴木京香と山崎努が紡ぐもうひとつの「美女と野獣」。
裕福だが若さを失いつつある女・薫は、夢破れた都会から逃れ、隠者のように暮しながら、盲目で口のきけない一人の男を「飼って」いる。自分では何もできない男に食事を与え手を引いて散歩をする、優越感に満ちた生活。それは、社会の常識からの自由と自己犠牲の高貴さからなる理想的なものである、と薫は信じていたが、この一見美しい絆を裏で支えるのは、社会からの逃避と強い相互依存関係の甘美さであった。
子供のように無垢な男が薫を必要とする以上に、薫は男との絆に強く依存していた。だが男は気まぐれであり、浮浪者のように家から彷徨い出る。まるで薫を必要としないかのように。男の真の自由さに畏れと不安を感じた薫は、やがて…。】ネットより抜粋
何とも寓話的な不思議ドラマである。唯々、鈴木京香の妖しさと、山崎努の怪しさのみの牽引で動かしている作品である。
そもそものアバンタイトルで伊豆へ辿り付いた宣教師の逸話が語られ、そういう宗教色の強い作品かなぁと印象を持たされたが、始まってみると、とにかく両俳優の不思議な関係性とウェット&メッシーに通ずる食事の汚さとそれが性的イメージにがっちり関連づけられるアート忖度シーンの連続である。その男に魅了されつつ、しかし江戸川乱歩『芋虫』を想起させる、体の不自由な男をサディスティックに扱う演出は、この二人の佇まいからしてピッタリのイメージで良い。さて、そこからどんな展開へと移るのか、欠伸をかみ殺しながら観ていたが一向にストーリーが進まない。漁業組合運営のバーのような場所での、シンクロするバーテンダーのシェイカー捌き等、何となくデヴィッド・リンチ的演出が頭を出すが、しかしそれといって主題には関係無く、やっと後半、町の洞窟での奇怪な出来事で、理解不明な逸話でアバンの宣教師殺害の話に繋がる。しかしだからといって、その逸話と現在起きている男が行方不明な事と、どういう繋がりをもたらす“メタファー”の読解がついぞ出来なかった。そこからが、もう妄想と現実の壁が取っ払われたように、キジを狩る、海から昔の船の船首像の発見、それが翼の形状で、この町の名称に由来している、結局戻ってきた男の寝ている横でぬるい自慰行為をして果てる鈴木京香、次の日唐突におとこが死に、女も交通事故にあって病院から戻ると男は生きていて又戻る。でも、ラストは何故か女はいなくなり、となリの別荘に若い金持ち夫婦が下見に現れ、不動産屋が隣の家は目がみえないし口も利けない老人だと教える。妻が俄然興味を持った顔つきでみつめるという、全くもって読解不全に陥る難解な迷宮へと誘われる。自分なりの解釈としては、この老人自体が昔の宣教師であり、町人達の裏切による殺人に対する復讐で、付近の女達を浚うような事をやっている、都市伝説的寓話なのであろうか。一体、作品名がどういうメタファ-なのかも分らないし、とにかく映画のリテラシーがこれ程迄に必要な作品はそれ程無い。とはいえ、今作品の本質は、ストーリーの理屈よりもその空気感を愛でるということであることは間違いない筈だ。ストーリーが破綻していたとしても、それも含めて“アート”なのだろうから・・・。山崎が神様との会話とおぼしき、光と話すシーン等、中々面白い演出もあって、シーン毎の“妙”を愉しむという観方なのが正しいのかも知れない。
ちなみに、作品のプロローグ的説明を読んでいないと、劇中全然描いてなく、別にそれさえも後からとってつけたものかもしれない。