劇場公開日 2020年1月17日

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「個人が自分の信念や信条を貫くのは難しい。単純な実動的難しさも然る事...」リチャード・ジュエル りょうたさんの映画レビュー(感想・評価)

個人が自分の信念や信条を貫くのは難しい。単純な実動的難しさも然る事...

2020年1月12日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

個人が自分の信念や信条を貫くのは難しい。単純な実動的難しさも然る事ながら、それがいわゆる”普通”と違うとなるとさらに困難さは増す。周りの目=一般論に晒されることに、人は耐えられない。SNSが普及し誰もが匿名という盾をかざして他人のあらゆる物事にケチをつけることが許された現代、真っ直ぐな内面の決意は偏見のフィルターを通って歪められ曲げられやすくなっている。実際に起こった事件やその当事者が追及されない一方で、不確定な印象操作によって実像が歪められる事象や人物。メディアが世界中を覆ったこの時代においては、全てがイメージによって(それらが間違っているか否かに関わらず)定義されてしまう。そのイメージを正しく世に伝えるのが、他でもない報道、ジャーナリズムのはずだ。
ここ数年、報道について描かれる作品が多く見られるようになった。特に昨年の『ペンタゴンペーパーズ/最高機密文書』と、今年の『新聞記者』については、作品の着地する温度こそ違えども、報道の在り方、そして報道には終わりがなく常に始まりしかないことを改めて観客に思い出させる意義深く素晴らしい作品だった。ニュースの源流の信頼性なくして、それを鵜呑みにする事など出来ない。情報源の確認・立証が描かれるのも同2作の偉いところだった。ではもし、情報源が不確かな個人的主観によるもので、それに基づく記事が信頼されるべき新聞という媒体から発信されたらどうなるか。それがさらにテレビに波及し、罪もない人間を巻き込んで行ったらどうなるだろうか。その実例を今作『リチャード・ジュエル』は改めて提示し、今の観客に問いかける。我々はあの事件から、また類似する様々な事件から、何かを学んだのかと。

今作は、主人公・リチャード(ポール・ウォルター・ハウザー)が消費者庁の事務用品係として勤務しているところから始まる。ここで彼は、後に彼を助ける弁護士のワトソンと出会い、強くはなくとも確実なつながりを持つことになる。因みに、お菓子研究家の福田里香さんの「フード理論」的な面で言ってもここの場面は周到に演出がされている。リチャードがワトソンにあるものを渡すのだが…そこにも注目してほしい。やがてその職務を離れ、リチャードは大学での警備職に就くこととなり、紆余曲折あって最終的には1996年のアトランタオリンピック会場のすぐ近く、センテニアル公園の警備員として働き始める。リチャードの事件に至るまでの顛末、またその他の登場人物が事件の前にどこにいたかを描くここまでの流れが、まず非常に巧妙で上手い。特にリチャードの遍歴の見せ方だが、ここを失敗すると後半で(世間に向けて)明かされる事実に対しての観客の反応が変わってくる。リチャードが自分の憧れである“法執行官”として、無自覚にどれだけの行為をしたのか、またそれに対して周りがどんな対応をしたかを、ほぼありのまま見せていく。正直かなり危ういバランスだ。一歩間違えれば、今作の事件では無実でも、違う場所違う時間では何かやらかしかねない人物に見えてしまう。だがここが流石イーストウッドといったところ。実際に事件が起こってみるまで敢えてそうしたグレーな描き方でリチャードを見せることにより、観客も彼に対する疑いや偏見を持ちやすい構造を作っているのだ。それによって、まずはジョン・ハムとオリビア・ワイルドらの、犯人を特定したい=標的を定めたい連中と視点を同化させ、ある決定的タイミング(ここの、“足しか見せない”という演出も見事)でリチャードの関与を否定した瞬間に、彼の善意からくる行動を示して観客の信用を勝ち取る。ただ単純に、リチャード・ジュエルという人物を100%善人として仕立て上げず、実際に本人が持っていたグレーさ・非常識的な側面も描きながら、しかし確実に感情移入できる善き人としてのお膳立てを整える。事実を脚色するうえで、これ以上の演出はないだろう。見事である。是非、疑いと善意の織り交ざった上手さを見て確かめてほしい。
そして、センテニアル公園での悲劇が起きる。不吉な劇伴の背後にステージの音楽が流れ、リチャードやその他警備員たち以外事の重大さが理解されていない不安と、いつ爆発するかもしれない緊張感が充満する。爆発の瞬間もショッキングで、事前に犯人が「爆発まで30分」と警察に電話しているものの、具体的な時間が示されない為に観客は身構えようがない。他の大作と比べて、爆発描写が特別派手というわけではないが、かなり意表を突いてくる。また爆発の被害表現もバランスが取られ、人々の怪我は流血のみなものの、爆弾から飛散した無数の釘がモニュメントに突き刺さるカットを挿入することで、画面上には映らない痛みを観客側に共有させている(『シン・ゴジラ』の冒頭、濁流の向こうに…の場面と似た間接描写が直接痛みを与える考えられた編集だ)。実際死者が2名出ている事件の悲惨さを臨場感をもって描いた、今作の大見せ場だ。この場面以降、今作には派手な見せ場はないが、重要なのはここからである。
事件から一夜明け、FBIの捜査が開始されるなか、会場の主催会社AT&Tの役員がリチャードをメディアに出演させたことから流れが変わっていく。法執行官としての行動が、遂に世間に認められ喜ぶものの、善意による過去の摘発が彼を追い詰め始める。あくまでも一個人が見た意見・懸念を、プロファイルという定型に押し込めて考えようとするFBI(情報源)と、人々にそれを”事実”として流布する発信者(新聞/テレビ)、そして当事者(リチャード)。この一方的な情報と攻撃の流れの中で、抵抗する術のない一般人がどのような被害を受けるのか。あらゆるところで語られるようになった”ペンによる被害”の構造に、今作はもう少し踏み込んで挑んで見せた。具体的には、加害者側の視点が入ってくるのだ。
現在を舞台にしてメディアの被害を描く場合、そこには匿名性=書き手の不明さというものが上手く利用される。戦う相手の不確かさが全方位からの攻撃を想起させ、登場人物を追い込んでいくわけで、今作にもその点は描かれている。ただ同時に、1996年という時代設定上、今作にはSNSが存在しない。少なくとも、戦う相手、自分を叩く相手が見えている。遠くからスマホで不特定多数が撮るのではなく、ある特定の多数がテレビカメラで追いすがってくる依然残る悪癖と同時に、匿名性の確立していない時代を活かした描写として発信者の優越の様を見せているのだ。そこでその軽薄な発信者を演じるオリビア・ワイルドが素晴らしい仕事をしてみせる。一報道記者とは思えない女性的な粗野さ(同じオフィスの女性記者と明らかな対比が見られる)、大惨事を目の前にして発せられる耳を疑う言動、そして手柄を立てた時の反応。特に最後は、今作の白眉の1つかつ最強の胸糞描写であり、ワイルドのキャリア史上でもトップクラスの怪演だ。是非劇場で見て頂きたいが、注目して欲しいのはこの場面の場所と賞賛を送る人が誰なのかだ。彼女にとっての世界の狭さ、少なくともリチャードという一般人には害でしかない報道に歓喜し継続を望む周囲。Twitterやその他SNSでの過激な投稿が注目を集め、そこに外野が油を注ぐ現状と、一体何が違うのか。もう20年以上も前の出来事であるにも関わらず、そこで描かれる記者の姿は、今の自分たちが省みるべき何かを提示して見せている。
ただ今作はそうした記者にも気付きの瞬間を与えている。これが、ワトソンがリチャードの無罪を確信する描写(つまり観客も確信する瞬間だ。事前にその”場所”を映しているのも周到なところ)と同じ、ある決定的な事実を知るという展開になっている。自分の報道がFBIの完全な固定観念による根拠のない推論だったことを知った彼女に、一体何が出来るのか。何も出来ないのだ。手柄しか見ない狭い視野が導いた、罪のない人間への冷たい視線。そのある意味最大の被害者を前にして、元凶たる彼女が出来るのはただその姿を見て涙を流すことのみ。人によっては、ワイルドの演じるキャラクターに同情の余地を与える描写として違和感が残るかもしれないが、実際彼女はその場面以降姿を消す。結局のところ、最初に間違いを犯した人間に、改心こそすれそれを訂正する機会は与えられないのだという、非常に現実的で突き放すような退場になっている(彼女のラストシーンの立ち位置にも注目して欲しい)。針に糸を通す、やはり見事な結末のように見えるはずだ。
また、こうしたメディア(現代のSNS)に対する批評性と並行して、最後には追い越す要素が、FBI=連邦政府の行き過ぎた職務遂行だ。爆発現場にいながらも食い止められなかったことへの鬱屈を抱えた捜査官を、ジョン・ハムが見事に演じているが、彼と彼の仲間によるリチャードに対する尋問場面はどれも素晴らしく不穏な圧力を持ち、法的手続きというものが彼らにとってどのようなものかを端的に見せつける。計3度ある”全面対決(特に最初と2度目はかなり酷い、つまり面白い)”は法廷劇の緊張感を孕み、同時にそこでリチャードの信条や経験が危機の回避にも罠への陥落にも繋がるあたりが、彼自身を揺さぶっていく重要な描写として機能している。FBIを単純に悪役にしているきらいもあるが、これが導く快感はひとしおである。
人には疎まれる信念、法執行官としての誇り、それら全てをねじ曲げ自分を型に押し込めようとする相手に、最後リチャードは圧倒的正論を叩きつける。『ハドソン川の奇跡』の終盤同様、しかし確実にミニマムになった舞台において同等かそれ以上のカタルシスを与えてくれる場面だ。充分なほどスッキリする場面なのだが、重要なのはその顛末を他の一般人=情報の受け手が知る場面がないことだ(実は今作、マスコミの追及が描かれる一方で、リチャードのことを見る冷たい一般の視線が描かれる場面は驚くほど少ない)。最終的な判断を下した裁判所の決定も、大々的な発表でなく手渡しで済まされ、その後の世間の反応は描かれない。個人にとって重要なプロセスでも、世間はそこに既に関心がないことのさりげない表現だろう。リチャードが戦った信念についての闘争は、また彼のような冤罪を防ぎ、劇中の台詞にもあるように善意の行動の抑制を回避するためのものだったはず。しかし我々は、その戦いがあったことも忘れてしまう。その寄るべなさが、勝利であるはずのラストに悲しい余韻を与えている。
ラストシーンの細やかな幸福と不穏さが同居する幕切れは、多くの人に『アメリカンスナイパー』を想起させるはずだ。硬派な社会的メッセージのこもった作品として、同作の血は確実に今作にも流れている。信念をもって行動した真の法執行官。抑圧と型への押し込みと戦った善意の人。どこにでもいる、“行動する”という当たり前で一番難しいことができる人間が、人知れず消えていくという事実は重くのしかかってくる。

ただ付け加えておくと、決して硬すぎる映画では無い。驚くほど多くのユーモアや不謹慎だが思わず笑ってしまう描写がたくさん盛り込まれているので、退屈せず楽しめるだろう。それらが、リチャードの個人性から来る疑いと表裏一体になっているのも抜け目がない。ここは『運び屋』の温度差コメディの側面が活かされている部分で、重要なツッコミポジションかつドラマ的推進力になり得る相方としてのサム・ロックウェルが素晴らしい演技を見せる。特に、事後やギリギリでの報告に対する反応が抜群に面白い。

『アメリカスナイパー』の社会的メッセージ性、『ハドソン川の奇跡』のカタルシス、『15時17分、パリ行き』の臨場感、『運び屋』のユーモア。ここ4作のDNAが組み合わさった、イーストウッドの実話映画化の集大成。これを年明け一発目に見れるとは、幸先がいい。心からオススメである。

りょうた
_barneysさんのコメント
2020年1月18日

長いだけでいったい何が言いたいのかしら?

『新聞記者』を評価するくらいだから期待できないかな。

_barneys