「「消費」をただの消費で終わらせないために」サイレント・トーキョー つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「消費」をただの消費で終わらせないために
「サイレント・トーキョー」は短い。原作にあった細かな背景(未読なので詳細はわからないけど)を描写する時間をバッサリ切って、石田ゆり子や佐藤浩市のシーンもバッサリ削って、とにかく12月24日の事件だけを狂乱と共に観せる「クリスマス狂想曲」の映画だ。
戦争批判や体制批判、原作が持っていた登場人物の背景や人生の悲哀を排して、最後に残ったこの映画のテーマは「消費社会の虚無」だ。
映像的にもストーリーの山場としても、この映画の主題は「渋谷ハチ公前の爆破事件」だろう。
12月24日18時、渋谷駅ハチ公口。時間と場所が指定され、渋谷駅はお祭り騒ぎだ。それは正にイベント。
怖いもの見たさなのか、歴史の目撃者になりたいのか、日本史に残る事件を共有したいのか、わざわざ渋谷駅に集まる人々の様子は、非日常を味わうための「時間の消費」に他ならない。
その代償として起こる悲劇の映像は圧巻。デジタル撮影の長所を活かして、パノラマで魅せるスローモーションは素晴らしい出来だった。
あと、派手で大音量のシーンと沈黙のシーンの音のコントラストも良い。
耳鳴りの音も「あれ、私の鼓膜かな?」と思うくらい良い出来だったしね。
仮に、渋谷駅で何も起こらなかったとしても、この「一生に一度あるかないかのイベント」に参加することに意義がある、と思う人がいるのは不思議じゃない。
そして、その「消費行動」は一週間後に「初詣」にとってかわられることも。
荒れる成人式を小バカにしたり、恵方巻を食べたり、花見に繰り出しているうちに、渋谷駅のことなんて忘れてしまう。私たちは、高速で出来事を消費する様式に慣れ過ぎている。
この「高速消費」の娯楽性を最も再現できるのが、99分の短尺なのだ。あっという間に終わってしまう映画。
まあまあ面白かった、なんて思ってる間に、ご飯のメニューや明日の仕事が迫ってきて、そして「サイレント・トーキョー」の輪郭がぼやけていく。
まるで自分が「サイレント・トーキョー」の登場人物かのような、ちょっと倒錯した話だ。
ぶっちゃけ、何を言ってるかわからないと思う。私のこの感覚は、とても曖昧で表現しがたいが、「まあまあ面白い」映画であるがゆえに「まあまあ面白い」で済まし難い、アンビバレンツな映画、とまとめておこうか。
キリストがこの世に降誕したことを祝うクリスマスが、年々商業イベントの様相を加速していることに、先代教皇ベネディクト16世も憂慮されていたらしい。
そういう意味で、映画「サイレント・トーキョー」は最も正統なクリスマス映画と言っていいのかもしれない。
過度に商業的で、あらゆる感情や悲劇や喜びを消費財と見なす社会の流れを深く自省し、消費以外の喜びを見出だすべきだ、的なね。
映画の中では、12月24日の出来事を「過ぎ去ったもの」にせず、自分の本当に望むものへの糧とした人物もいた。
悲惨なことも、ささやかな出来事も、明日へのチャンスに変えることが出来る。
チャンスの数だけ、自分の望みを叶えられる機会が増える。
そして、自分が本当に望まない限り、望みは叶えられないのだ。「War is over」は「If you want it」と常に一対なのである。