「「死と再生」の物語 (ネタバレあり)」ミッドナイトスワン いかすみパスタさんの映画レビュー(感想・評価)
「死と再生」の物語 (ネタバレあり)
この作品のテーマは、草薙演じる凪沙に芽生える母性愛である、と巷では言われていますし、実際に公式サイトでもそのように語られています。
「社会の隅に追いやられた者同士の、奇妙な共同生活のなかから、互いへの愛情が芽生える。そして凪沙には母性が芽生え、実の母に奪われた一果を取り戻すために、凪沙は・・・」(公式サイトより)性転換手術を受ける決断をする。女性化した身体になって、一果を「母」のように受け入れる
準備を整え、彼女を広島に迎えに行った。しかし、手術によって身体が女性化してきた凪沙を、実家の母親をはじめとする親戚一同が化け物のように扱い、あらん限りの罵詈雑言を浴びせて、実家から追い払ってしまう。この、性転換手術の動機は、一果の母になるためとされている。
しかし、私は「母性愛」などという、言い尽くされ手垢にまみれたものではない、もっと別のテーマがあると思う。凪沙は、一果の母になりたかったのではない。一果その人になりたかったのだ、と私は観た。
この作品の重要なモチーフは、反復と繰り返し、である。ニューハーフショークラブ「スイートビー」の楽屋で、「白鳥の湖」の「四羽の白鳥の踊り」に出るためにメイクをして準備に余念のない凪沙たちの様子から、この映画は始まる。四人のニューハーフの踊り子たちが舞台の控室でメークをするのと、ほぼ同じ画面がラスト近くで反復される。その画像は、DVD発売前の現在、入手できなかったが、一果が海外のバレエコンクール(ローザンヌ?)出場の折、「白鳥の湖」のオデットを踊るために楽屋でメークをしている場面だ。反復と繰り返し。これがこの作品に通底する、母性愛よりももっと重要なモチーフなのである。これについては再び触れる。
凪沙と一果の感情を大きく変えるきっかけとなったのは、中盤の、一果がやばいバイトをしている最中に客に問題行動を起こし、警察沙汰になった後のシーンだ。この風俗まがいのバイトは、そもそもバレエ教室に通うお金を稼ぐためにバレエ教室で唯一親切にしてくれる友人、りんが紹介したものだ。ところが警察沙汰になり、保護者として凪沙が呼び出される。凪沙を化け物を見るような目で見たりんの母親は急に態度を変え、すべてを彼らの責任に転嫁しようとする。ショックを受け、自分の腕にかみつく自傷の発作をまた起こす一果を抱き抱え、凪沙はこう言う。「うちらみたいなんはずっと一人で生きていかんといけんのじゃ。強うならんといかんで」。初めて二人の心が通じ合った瞬間である。
精神が不安定な一果を一人にしておけないと言って、凪沙はその夜、「スイートピー」に一果を連れてゆく。ところが、凪沙たちニューハーフの「四羽の白鳥の踊り」を見ていた酔客が彼女らの踊りを罵倒し、それに抗議した凪沙たちと乱闘騒ぎになる。その騒ぎを尻目に、一人、一果が踊り出すと、その酔漢さえもがあっと驚き目を奪われるのだった。
一果のレッスンのことはつゆ知らず、その成果を初めて目の当たりにした凪沙は一果を見直す。店の外で待っていた一果に白鳥の羽の髪飾りを渡す。「これ、上げる」
この時のスチル写真は、小説の表紙に使われていることからわかるように、作品全体を象徴している。この直前、凪沙は、一果を社会から忌み嫌われのけ者にされている自分の同類として、抱きしめて「強く生きろ」とエールを送ったのだった。だが、一果は自分の同類なんかではなかった。踊っているところを気持ち悪いと罵倒される自分とは全く違う、異次元にいる人間なのだった。自分を罵る酔客さえも、一果の踊りの美しさに舌を巻いた。つまり、一果は凪沙の対極にいる人間であり、凪沙にとって、もしなり代わることができるものなら代わりたい、理想の存在であることを、突如見せつけられたのである。白鳥の髪飾りを一果に上げる、というのは、まさにありうべき自分の理想を、自分の夢を、一果に託したことの象徴である。
その後、二人の感情は急速に解きほぐれて親密になってゆく。凪沙は一果からバレエの手ほどきを受けたりする。また一果の健康を気遣った料理を作ったりもして、この間お互いに対して愛情が育っていった。
そしてその愛情が「母性愛」なのか、という話なのだが、なにしろDVDがなく、すべての動画から画像を持ってくることができないため、画像で論証することができないのが残念である。結論を出すために、最後の海辺のシーンを考察したい。
海外のバレエスクールで学ぶ奨学金を得た(?)一果が広島の親元から上京し、久しぶりに凪沙の部屋に行くと、彼女は術後の手当てが不十分であったため感染症をおこしたのか、意識も混濁して瀕死の状態であった。それでも、どうしても海に連れて行ってほしいというので、一果はバスに乗って、砂浜の海辺に連れて行った。そこで凪沙は、スクール水着を着ている少女姿の自分の幻影を見る。それは幼き日の彼(女)が、なりたくてもなれなかったものだ。なぜ自分は女子の水着ではなく、男子の水着を着ているのか、と愕然としたという、本来のあるべき自分。それが凪沙にとって、女の子用の水着を着た少女なのだ。そして、一果に白鳥の踊りを踊ってくれと懇願する。海を背景に白鳥の踊りを踊る一果の姿は、まさに一羽の白鳥であった。スクール水着姿の少女が、白鳥を踊る一果へとなり代わったのである。それこそが、凪沙がなりたいと願い続けてきた姿、しかしどうあってもこの世では叶わない夢の姿、つまり、理想の分身なのである。その姿を見ながら凪沙は息を引き取った。
じつは、この画面はルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』のラストシーンのオマージュである。疫病が蔓延してきて、観光客がほとんど去り閑散としたベニスの砂浜。ずっと向こうの砂洲に立っているのは、主人公の老芸術家、アッシェンバッハが恋焦がれた美少年タジオである。仲間と喧嘩して機嫌を損ねたタジオは、一人でどんどん海に分け入り、そして浅瀬の砂洲に辿り着いたら、ふと、彼方を指さして、どこかへ誘うような仕草をしたのである。折り畳み椅子に座りこの一部始終を目にしていたアッシェンバッハは、タジオの誘いに応じて立ち上がろうとするも、そのまま事切れた。
『ミッドナイトスワン』でも、タジオ少年のように、一果もどんどん海に分け入る。まるでこのまま入水自殺でもするのではないかと思わせる勢いで。そうだ、彼女はこの時死んだのだ。凪沙が死んだのと同時に。それまでの一果は凪沙と共に死に、そして生き返った。新しい一果として。沖に向かって海を進みゆく一果の姿は、死と再生を表している。ただし、蘇った一果はそれまでの一果ではない。凪沙を自らのなかに取り込み、凪沙と共に蘇ったのである。凪沙の夢を実現し、凪沙の生をも生きる一果。凪沙もまた、一果のなかで生まれ変わったのだ。それを表すのが、先に触れた「反復」と「繰り返し」のモチーフである。
最後、コンクール会場に向かって闊歩する一果は、かつての凪沙と同じ服装をしている。凪沙のコートと赤い靴、そして革のパンツを、一果は譲り受けた。凪沙の夢は、一果が、その足取りのようにしっかりと力強く継承した。凪沙は、一果の中に生きている。一果になりたいという凪沙の夢は、一果によって受け止められ、そして美しく成就した。「反復」と「繰り返し」のテーマが何を意図していたか、ここで明らかになろう。ラストでそれは、見事に「死」と「再生」のメッセージと協奏するのである。