「イメージ、ビジョンを意味で固定したり、矮小化しないで狂気の過程を描こうとするも不発か」ライトハウス 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
イメージ、ビジョンを意味で固定したり、矮小化しないで狂気の過程を描こうとするも不発か
1)鑑賞後の感想
ロバート・エガース監督の『ウイッチ』に続く作品で、狂気に至る過程を丹念に描いている点では同趣旨の映画である。前作と同様、はっきりしたストーリーらしいものがないので、鑑賞後の感想は「何を描いたのかよく分からない」というのが率直なところだ。
2)映画の元ネタの事件
本作の元ネタは「スモールズ灯台の悲劇」という実話だという。この事件は1801年、ウェールズの孤島にあるスモールズ灯台に同じトーマスという名前の灯台守2人が赴任したが、年配の方のトーマスが事故死して若い方のトーマスが自分のせいにされることを恐れて狂ってしまったという事件。
3)作品の大まかなあらすじ
映画では年配のトーマスが若いトーマスを徹底的に酷使し、暴言を投げつけては彼をいたぶる。その中で若いトーマスは人魚を夢に見たり、年配のトーマスが変身する姿を目撃したりして、徐々に精神を病んでいく。
一定期間が経過すると、視察官を乗せた船が彼らを迎えに来て、仕事は終了する予定だったのだが、嵐のために船はいっこうに現れない。苛立ちを酒で紛らすうちに、2人はすっかり酒に溺れ、内密な身の上話などをする一方、互いに徹底的に嫌悪し合い、最後には互いに殺し合いにまで発展していくのである。
4)現実と狂気、超自然的存在の境界が溶け合う
2人が狂気に至る過程では幻想的なシーンが随所に挿入され、何が現実なのかしばしば分からなくなる。現に、最後まで年配のトーマスは光源のある部屋に若いトーマスを入れようとせず、会話の中で海神の話などが頻出することもあり、観客は何か超自然的な存在が隠されているのではと思わざるを得ない。
そして年配者を殺した若いトーマスが最後に光源の部屋に踏み入り、その装置を開いてみると、彼は驚愕の表情を浮かべるのだが、何に驚いたのかは決して示されないのである。
ここで例えばセイレーンが登場したとするならば、総ては海の魔女が招いた狂気に還元されるだろうし、比較的分かりやすいだろう。前作『ウイッチ』では、ヒロインが実際に魔女と化すため、「1枚の反宗教画」という理解が成り立った。
本作では最後まで狂気という人間心理のドラマかセイレーン等による超自然的なドラマなのか、明かそうとしない点で、前作より一歩前に進んだ感じか。
5)監督の意図とその成否
恐らく監督の狙いは、「イメージ、ビジョンをストーリー(意味)で固定、矮小化させないで、狂気の過程そのものを鑑賞して欲しい」というものだろう。ただその場合は、その狙いに相応しいだけの観客を惹きつけるイメージやビジョンが必要なはずである。
確かに白黒フィルムに旧式の画面サイズ、前作同様細部にこだわった大道具、小道具などで、それを作り上げようとしているのは分かる。
ただ、前作にはアニャ・テイラー=ジョイという飛び道具wがあったが、いかんせん今回はむさ苦しい男2人だけ。狙いが成功したとは言い難いのではないか。
まったくご指摘の通りで、イメージに説得力を持たせるためには、主役2人ではやや足りなかったと感じました(もちろん演技は及第点を超えていますが)。セイレーンの初登場シーンは迫力がありましたが、妄想を延々と出すわけにもいかなかったのかなと。