「古風な怪談×プロメテウス神話×ハロルド・ピンター風味。シネフィル垂涎の密室劇。」ライトハウス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
古風な怪談×プロメテウス神話×ハロルド・ピンター風味。シネフィル垂涎の密室劇。
とある密室状況下で、男と男が究極の精神的闘争を繰り広げる。
この手の「アンチ・バディもの」の対決映画は、原初のマッシヴな獣性の激突と、闘争のなかで生まれる奇妙な連帯に、いかに同性愛的なスメルを漂わせるかが、シェフの腕の見せ所となる。
『太平洋の地獄』の三船敏郎とリー・マーヴィン(孤島の密室)。
『北国の帝王』のアーネスト・ボーグナインとリー・マーヴィン(走行列車の密室)。
『さらば友よ』のアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソン(金庫室の密室)。
『あしたのジョー』の矢吹ジョーと力石徹(リングの密室)。
でも、この映画の予告編を観て、最初にぱっと僕の脳裏をよぎったのは、実は『探偵スルース』(72)だった。
同じく閉鎖空間を舞台に、年長者の作家ローレンス・オリヴィエが若い美容師のマイケル・ケインをいびり倒していくうちに、驚くべき展開が待ち受けるという、僕の大好きな映画だ。
そうして、いざ『ライトハウス』を劇場で観て思ったのは、むしろこちらはリメイク版の『スルース』(07)――ジュード・ロウがハロルド・ピンターに脚本を書かせ、ケネス・ブラナーに撮らせたバージョンのほうと、「男と男」の絡ませ方が実によく似ているということだ。ピンターは、異性愛者どうし(老作家と間男は同じ女をめぐって争っている)が、「男×男」の闘争を繰り広げる延長上で、いつしかインティメットな「ぬめり」を生じていく過程を生々しく強調することで、旧作を別物へと変容させた(『探偵スルース』を愛する僕にとっては、まあまあ許せないリメイクだった)。
で、家で今回買ったパンフを開けて読んでみたら、なんと監督のロバート・エガース本人が「二人のセリフのやりとりはピンターからインスパイアされています」と述べ、『ミッドサマー』の監督アリ・アスターも対談の出だしで、「『ライトハウス』は僕が大好きなハロルド・ピンターの作品を想起させたんだ」とか言っているではないか(笑)。やっぱり!
本作がハーマン・メルヴィルの長編『白鯨』から、ごった煮的な語り口から、エイハブ船長を模したデフォーの外見に至るまで、多大な影響を受けているのは、監督自身も言及している通りだが、「同性愛的な仄めかし」という意味では、同じメルヴィルの中編『ビリー・バッド』も霊感源のひとつに挙げられるだろう。
『ビリー・バッド』は、誰からも愛される天使のような水夫ビリーが、老水夫の計略で人を殺め、ついには処刑されるまでを描いた作品で、背後には密室状況下で募る同性愛的欲求と、それを認めようとしないがゆえの反動的憎悪の存在が秘められている(とくに同性愛者であったブリテンによるオペラ版ではその仄めかしが色濃い)。
本作でも、アレの形をした灯台という、自ら慰めるしか性的に達する手段のない鬱屈した閉鎖空間で、彼らはただふたりきり存在する人間どうしとして、愛着と憎しみの両極を激しく行き来する(デフォーはパティンソンについて「きれいな顔」とはっきり述べる)。やがて起きる悲劇もまた、『ビリー・バッド』をなぞるかのようだ。
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物語としての『ライトハウス』が、どういうジャンルの作品かと問われれば、やはり僕は古式ゆかしい「海洋怪談」の系譜に属する「怪奇映画」だ、と答えるだろう。
本作の構造は、監督と弟が少年時代に心をふるわせた古典的怪奇小説を「ベース」に、メルヴィル調に幾層にも表象的な階層を上塗りして、宗教的隠喩(黙示録)、神話的隠喩(プロメテウス)をこめたうえで、モダン・ホラー的な要素や、ニューロティックな要素(エディプス・コンプレックスを含むフロイト的解釈)を加味し、最後に「腐レイバー」をひとふりしたものである。
影響源としての恐怖小説も、ひとつではなさそうだ。
まずは遺作として未完の「灯台」を遺したエドガー・アラン・ポー。「目」への執着や生き埋めテーマ、何よりアルコールや薬物による意識の混濁や混乱が物語と深く結びついている点は、ポーを想起させる。
それから、海洋奇譚を得意としたウィリアム・ホープ・ホジスン。目撃したこと以上に、闇のなかで五感がとらえる「臭い」や「音」、「肌ざわり」が登場人物の恐怖を増幅させていく描写は、実にホジスンっぽい。
人魚やクラーケンといった深海から来る怪異を、深層心理と結び付けて登場させている点では、ラヴクラフトからの影響も顕著だ。実際、監督はデフォーに「セイレム」の地名を口にさせていて、クトゥルフとの連関を容易に想像させる。
今起こっている怪異の背後に、黒々とした神話的恐怖が眠っているという意味では、アーサー・マッケンの作品群(『パンの大神』)なども念頭に置いているだろう。
しかし、実際に観て一番強く感じたのは、アルジャーノン・ブラックウッドとの親和性だ。ブラックウッドの怪異譚の真骨頂は、「旅先で見知らぬ宿に泊まることになった男が、ちょっとした予兆や闇のなかで鳴る音、側聞した噂などから、しだいに妄想を逞しくし、疑心暗鬼のなかで怪異の存在を確信するに至り、“その結果として実際に”怪異が立ち現れる」というメカニズムだ。個人のなかで生まれた疑念や恐怖が凝り固まって、現実世界にはみ出て侵食し、ひいては現実自体を歪めてしまう恐ろしさ。『ライトハウス』で描かれる恐怖もまた、まさに同質のものではないか。
こういった、古典怪奇小説の枠組みのなかに、海鳥への恐怖(デュ・モーリアの「鳥」およびヒッチコックの同題作)や「だんだんくるっていく描写」&「管理人と斧」の恐怖(『シャイニング』)、死んだはずの人間の復活(『悪魔のような女』『危険な情事』)といった諸々の要素が継ぎ足されて、怖さにニューロティックなモダンさが加わっている。
さらに、徹底してバーナード・ハーマン調の不安な音響とノイズの効果的利用によって、本作が「音のホラー」として企図されている点も強調しておきたい。
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一方、映画としての『ライトハウス』の中核にあるのは、シネフィル的なレファレンスの集積としてのマニア性だ。
(アスペクト比の選択も含めて)監督本人が強く主張している1920年代無声映画からの影響(ムルナウ、エプシュタインetc.)や、彼が私淑するベルイマンからの影響のみならず、全編にわたって作り手のシネフィルぶりは炸裂している。
たとえばオープニングのだんだん船が浮かび上がってくる描写はヴィスコンティの『ベニスに死す』を想起させるし、そのあとに続く崖下から二人を仰ぎ見るカットや、灯台から若者がぶら下がるシーンは、まるでオーソン・ウェルズの『オセロ』のようだ。突然挿入される目のアップや螺旋階段のカットは、ロバート・シオドマク『らせん階段』(45)からのいただきだろう。それから、もちろんヒッチコックの『鳥』。ロバート・パティンソンが観る性的イメージの集積は、おそらくデレク・ジャーマンに由来する。他にも、僕の知らない古典的名画からの引用・レファレンスは山ほど隠れているにちがいない。
あえてモノクロームを採用したうえで、徹底したオッサン&身体欠損&汚物&哄笑&飲酒&暴力&グロテスク描写を示すという意味では、アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』(2013)の存在も、きっと監督の頭の片隅にあったことだろう。考えてみると、本作『ライトハウス』と似たような時期に、同じく『神々のたそがれ』と近接した中世趣味と露悪性をもつ『異端の鳥』(2019、バーツラフ・マルホウル)がモノクロ&35㎜フィルムで作られ、ほぼ似たり寄ったりの汚物まみれの貯水槽(穴倉)を作中に登場させ、生き埋め、鳥、目つぶしといった要素をお互い被らせているのは、大変興味深いシンクロニシティだ。
絵画作品からの引用・影響も枚挙にいとまがない。
パンフレットでは、ゴッホやデューラー、ジョン・マーティン、サシャ・スナイダーなどの名前があがっているが、そもそも室内のシーンでは、レンブラントやカラヴァッジョ、リベーラ、ラトゥールなどのバロック絵画の明暗法(キアロスクーロ)がそのまま援用されている。とくに、ウィレム・デフォーの描写には、リベーラの聖人画を強く想起させるところがある。
一方、うねり狂う海の描写は、ジェリコーの描く荒波のようにロマン主義的であり、人魚の出し方などは実に象徴主義的である。飲み食いのシーンの汚さはヤン・ステーンあたりのフランドル絵画を思わせる。
ここで重要なのは実のところ、ロバート・エガース監督が「何を引用したか」ではない。
何を引用するにしても、シネフィルとして恬として恥じるところのない、衒いのない、その「姿勢」である。
これはエガースに限らず、A24のプロデュースのもと世に出る若手監督たちの多くに共通することだが、彼らは、自身がシネフィルであることや、既存の敬愛する作品から受けた影響を作品に反映させることについて、あまり含羞やうしろめたさを感じていないように見える。
これは、同様に生粋のシネフィルであっても、常に斜に構えて、露悪的&偽悪的にふるまっていた(ふるまわざるをえなかった)クエンティン・タランティーノやロバート・ロドリゲス、ピーター・ジャクスンあたりの世代から見れば、明らかに隔世の感がある。
彼らにとって、シネフィルであることは誇りであり、映画史的知識と影響の集積体として映画製作を行なうことに、一切のためらいはないのだ。
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そうして出来上がった『ライトハウス』は、「閉じ込められた空間内で起きる男と男の闘争」という大枠のなかで表現可能な、様々な物語の「諸層」を同時に担っている。
海洋怪談としてみれば、これは、水夫の魂である海鳥を叩き殺した若者にふりかかる呪いの物語である。だからこそ、ラストシーンで彼の死骸は鳥たちについばまれ、食われるという形で復讐される(まさに「かもめは死せる水夫の魂」というのは、ダミアがうたうシャンソンそのままですね)。
人間の普遍的ドラマとしてみれば、これは、暴君でありながら冷静に若者を観察し、「秘密はもらすな。興味がない」と言い放つ「強い」老人と、抱えている秘密を吐露することで安心を得ようとする「弱い」若者の、避け得なかった軋轢の物語である。老人は食事をけなされて激昂し、若者は老人が自分を無能であるかのように日誌につけていたことを知って激昂する。信頼と裏切りの交錯と連鎖が、やがては取り返しのつかない狂気の暴走へとつながってゆく。
フロイト的な側面を強調すれば、これはエディプス・コンプレックスにまつわる「父親殺し」の物語だ。
ブロマンス面を深掘りすれば、ご神体形の塔にとらわれた二人が、人魚の幻想でしごいたり、光の福音のなかで果てたりしながら、お互いむらむらを抑えきれず、若者は老人の寝姿を「窃視」し、老人は若者にむりやり食器や器具や塔をこすこす磨かせ、代替行為にふけったあげく、白ペンキを顔に勢いよくぶっかけるような話である。
宗教的隠喩からたどれば、神に至る「鍵」(聖ペテロ!)を奪い取って、神の御正躰をその目で観てしまった人間が、めしいたうえに命まで落としてしまう話でもあるし、神話のまねびだとすれば、旧き海神に仕える老いた神を倒して「火」を手に入れたプロメテウスが、神話にあるとおり、罰として鳥に食われてしまう話だともいえる。
監督のちりばめた引用や影響関係をあれやこれやと考え、物語の重層性を考察したうえで監督の意図にそって読み解くことを好むタイプの人間にとっては、正直こんなに面白い映画はない。
一方で、スタイルよりも骨太のナラティヴを映画に求める人にとっては、若干退屈な映画でさえあるのかもしれない。
個人的には、パティンソンが次第にくるってゆく過程のあたりが、少し通り一遍というか、陳腐に思えてしまうのが、映画としては最大の弱点ではないかとも思っているが、それを補って余りあるデフォーとパティンソンの大熱演が、中盤に若干漂う安易さを忘れさせてくれる。
少なくとも、僕にとっては、大変楽しく観られる作品でした。
会場は市松でほぼ満員。若い世代が大半を占めている、素晴らしいことだ。