「やっぱ台本」花束みたいな恋をした 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
やっぱ台本
有能なクリエイターがつくっていることが解るできだった。やっぱり映画ってまぐれや気合いでいいものができたりしない。技術習得や台詞推敲の積み重なりだと思った。
現場で研鑽をつむのでテレビからきた人のほうが映画も巧い。近年いいと思える映画はテレビ系の人がつくっている。が、テレビ出身の映画監督はもちあげられない──という現象が日本映画界にはある。
すなわち本作の土井裕泰や福澤克雄や鈴木雅之や西谷弘や君塚良一(などのテレビ出身監督)のほうが、マスコミによって頻繁にもちあげられるあの人やあの人やあの人よりもずっと映画づくりが巧いのに、なんで下手なほうがもちあげられるのかが謎。──と個人的には毎度ながら思っている。
それでも最近になって新たな潮流を感じることがある。
カンヌ映画祭脚本賞で坂元裕二が国際的に裏付けられたのは痛快なできごとだった。まぐれや気合いで映画をつくってきた日本映画界の恐竜たちが行き場を失うような事態がつぎつぎに起こればいいと思う。
(坂元裕二が脚本で国際的な賞をとるのは合理だと思う。よって感じ入るのは脚本賞をとったことよりもカンヌがちゃんと映画を見てくれていることについてだった。けっきょく坂元裕二の受賞やドライブマイカーやベイビーブローカーのように海外での確かな実績が顕現することによって、たとえば今まで日本映画のセールスでさんざん使われてきた「海外で大絶賛」という存在しない海外をだしにした謳いが形骸化し、その手の謳いに頼っていた偽物が衰退するだろう。そうした事態が重なることで、それまでは勢いで生きてこれていた昭和勢や肉食獣が滅んでいけば日本映画界も多少は健全になれるのではなかろうかと思う。)
手堅い土井裕泰と坂元裕二が組んでいるから花束みたいな恋をしたができたわけで、やっぱり映画ってまぐれや気合いでいいものができたりしない。──ということが率直に解る映画だった。
見始めの段階では甘甘でさくっとつくってある感じのふつうな恋愛映画だった。が、台詞ごとに刺さり、いちいち唸るほどユニークだった。
急峻に盛り上がって冷めていく男女の話。
意気投合するひとに会い、朝まで街を低回し、趣味や理想を語り合い、つきあったら寝食忘れてヤって、そういう初動のいちばん楽しいところをだァーっと駆け登るかんじで描いて、そこからお互いの現実に向き合って崩壊していく。
どこにでもある話で大なり小なりじぶんと重ねられることに加え同時代性がちりばめられ麦と絹の趣味に寄り添って楽しむこともできる。
いうなればポップカルチャーなモテキあたりを見ているつもりでいたら泥沼の愁嘆迷宮へ潜っていきけっこうズーンとした感銘へ落とされ、そこからスルっと挽回してなんか爽やかな後味にして終わる。さすが坂元裕二、土井裕泰だった。
同時に菅田将暉と有村架純の空気感もよかった。ウィキペディアの「製作の経緯」が興味深く、そこに『恋人同士の5年間を演じた菅田と有村は撮影中、遠慮せずに距離を縮めた。』と書いてあり、ふたりで協力しながら雰囲気をもっていったことが書かれていた。また──
『作中に登場するカルチャーについて坂元は、友達の友達に関する又聞きの具体的な2名を対象にした趣味嗜好や発言を軸に、あまりよく知らない人のインスタと、その同世代である何人かの人たちに共通していた価値観を組み合わせて人物像とストーリーを構築しており、そのため主人公二人の麦と絹は「友達の友達ぐらいにいそうな人たち」という距離感で描かれている。』(ウィキペディア、花束みたいな恋をしたより)
──と書いてありリアリティの敷衍になっていた。あるある値を上手に共感へつなげているわけで、居そうだし有りそうだし、なんならじぶんにも似たような体験がある。そのさじ加減を『あまりよく知らない人のインスタ』から持ってくるという──やっぱり天才な坂元裕二だった。発想が鮮やかで引き出しが膨大で、なんかすごい事件を描いているわけじゃなく、ぜんぶスクリプトでもっていくのがすごかった。
ちなみに映画内で麦や絹がほめていたピクニックを読んだ。どうなんかな。じぶんはわかるタイプじゃないかな。読んだ感想は、いったん話が枝へ逸れて、枝へ逸れたまま進む話という印象だった。というか最初から逸れている話が、さらに逸れていくという短編小説だった。ドブさらいはヘドロと向かい合わせなので不快で臭く大変であり、なんでそんなことが軽やかに描かれているのかわからない話だった。が、才気にあふれる小説だった。
ふたりとも趣味がよく麦のイラストはそれで生きていけそうなほどおしゃれだった。実在の著名人がでてくる同時代性によってシンパシーが深まることと、ぜんたいに都市であることが顕著だった。
ちょっと離れた視点だが田舎者ではなぜいけないのか──ということが都市生活をするとわかるし、この映画でもわかる。そういう映画になっていたと思う。
またこれも少し離れた視点だがこの映画を見て「なんか日本人の人生って気の毒だよな」と思った。いい映画だが身につまされて疲れる──それは仕事も恋愛も人間関係もせっつかれる感じでやってきたからなんだろう。好きになって同棲して生活費に腐心してだんだんやだくなって・・・社会システムががっちがちで誰がやっても似たような人生になるからこの映画にも共感できるわけであって、なんならこの映画のハイライトにしたって麦と絹が別れ話をしている隣席に、初対面時の麦と絹とまったく同値のふたりが座りまったく同値の会話を繰り広げる場面なのであって、われわれが夢のように感じていた恋愛の初動なんてじっさいには日本じゅうの誰もが経験したあるあるの中央値なのかもしれない。──という諦観を提供していて、なんか日本人てむしょうに気の毒だわ、と思ったのだった。