劇場公開日 2021年1月29日

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「好きは嫌いの始まり」花束みたいな恋をした かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0好きは嫌いの始まり

2022年7月3日
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坂元裕二がシナリオを書いたドラマは、日本のみならずヨーロッパやアジア各国でもリメイクされご当地のヒット作になっているという。一見すると通俗的なドラマの中に忍ばせた普遍的なテーマを運命論的に描く作風が、万人(特に保守的な層に)受けしているせいではないだろうか。思えば、私が若い頃に夢中になって見ていた『東京ラブストーリー』も、”なぜ愛し合う2人は結ばれないのか”という男女の間に横たわる普遍的問題を扱ったドラマのようにも感じられる。菅田将暉と有村架純をW主役に迎えた、坂元裕二のオリジナル脚本による本作も、(ラブロマンスの姿を借りた)”なぜカウンターカルチャーはすべからく通俗化しその魅力を失うのか“という文化論に基づいた、見かけ以上に奥深い作品のように思えるのである。

正直、大学生の麦と絹が揃って”神“と崇める押井守の作品以外、本作に登場する小説家や漫画家、ゲームに読んだことも触れたこともない門外漢である私だが、「この作品の良さをわかっているの多分私たちだけ?それってすごくない」という主人公たちの気持ちはとてもわかる気がする。そんな気持ちを分かち合いシェアできる友人や恋人がいたらどんなに素敵なことだろう、なーんて甘いロマンを抱いていた時期も確かにあった気がするのだ。しかし、その“シェアする=大衆化する”ことが、対象となるカルチャーにとって決していいことばかりではないことを坂元裕二は鋭く見抜いているのである。一部の芸能人と自分だけが着ていると思っていたアバクロのポロシャツを、普段ユニクロしか着ていない田舎臭い兄ちゃんたちが着出した途端に着るのが嫌になる。それと同じ心境なのだ。

スマホに入っている音楽を一つのイヤホンを分け合って聴くカップルが、麦と絹を含め3回登場する。つまり“シェアされる=大衆化される“ことによって、オリジナルのコンテンツが変容してしまうことのメタファーとなっているのである。ジャンケンのグー=石=魅力的なポップカルチャーの原石=イラストレーターの卵麦がパー=紙=札に負ける(まるめこまれる)わけがないと信じている麦と絹なのであるが、世の中というものなぜか無常にできている。調布駅から徒歩30分(メチャ遠くね)の多摩川沿いに2人だけの世界にひたれるオタクの聖地を築いたつもりでいた麦と絹だが、生活するためになくてはならない“金”を稼ぐために、2人は就職という正規雇用の道を選ばざるをえなくなるのだ。それすなわち、(マス化増幅装置である)広告代理店に勤める絹の両親がレトリックを用い、麦の父親が「長岡の花火のこと以外考えなくてもええ」と説得した、大衆の一員として社会に取り込まれることを意味するのである。

「負けるなよ。協調性とか社会性は才能の敵だから」バイト先のアーティストに助言をもらった麦ではあったが、物流会社に就職が決まった途端仕事に忙殺され、いつしかゴールデンカムイにもゼルダの伝説にも全く興味が湧かなくなり、あろうことか自己啓発本なんて偽書物にまで手を出し始めるのである。絹を取り囲む環境にも次第に変化が現れはじめる。数年前からフォローしていた人気ブロガーや世話になった先輩アーティストの死、そして大好きだった女流小説家の芥川賞受賞というショッキングな出来事が連続して起きるのである。カウンターカルチャーを武器に社会と対峙していたはずの二人が、金に翻弄・懐柔されているうちに弱体化、しかも同志と思っていた人々も自ら命を絶ったり敵方に寝返ったりで、すっかり精神的にまいってしまうのである。

オタクカルチャーの応援歌を歌ってい
たSMAPが解散した頃、修復不可能なところまで冷え切っていた2人の関係にまるでとどめを刺すように、麦の口から半ばヤケクソ気味に「結婚しよう」とプロポーズされる絹。それは、子供じみた遊び半分の戦いごっこなんてもうやめて、結婚して大衆の一員として社会に2人してとり込まれようよ、その方が楽だし幸せになれるよ、という事実上の敗北宣言でもあったのだ。そんな2人が、ポップカルチャーの魅力を深夜まで語り合ったファミレスで、かつての自分たちと同じような話をして盛り上がっている若いカップルを見つけ涙するシーンがある。自分たちの凡庸さに気づいたというよりも、あの若いカップルの姿の中に、今の二人の間にはもはや存在しない“かけがえのない絆“を発見し涙したのではないだろうか。「世界でたった一つの花」だと思って売り物にしようと束(カルチャー)にしてみたら、すっかりどこにでもある陳腐な花束が出来上がってしまっていた。なんとも悲痛で救いのないラブストーリーなのです。

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かなり悪いオヤジ