「ただし製作過程は面白い」おちをつけなんせ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ただし製作過程は面白い
昔、テレビで、つんくがモーニング娘。の本舞台までの、練習風景、葛藤、競争心などをドキュメントして、それが共感や親近感を呼び、アイドル演出の定番の方法論となったように、この映画=本舞台も、製作の過程映像EP1~EP10がなく、のんのファンでもなければ、そうとう見劣りがするものになっている。と思う。
まして、もし、映画にのんが出演しておらず、純粋に監督側にまわっていたら、つたなさしか残らなかった。
のんには絵の才能があり、すてきな女優なのは、間違いないけれど、この映画が一種の「企画もの」なのも、間違いない。
EP1に是枝裕和監督が出てくる。
のんが監督からアドバイスをもらうという場面である。
『わたしはその土地に行って、何が出てくるかっていうのを、そこで感じたものを、そのまま出すっていうのを、この企画でやろうとしています。』
──そう無邪気に話すのんに、監督は、いらだちを見せずに、いらだちながら(と感じた)、次のように言った。
『単純に自分の心情を吐露しただけのものを、垂れ流しって言っちゃうとあれだけどさ、それは別に、垂れ流せば済むことだから、人に見てもらわなくても、垂れ流すとすっきりするっていうことが自己表出なんだよね・・・。
表現って、たぶん表出とは違うから、表現って見る人間がいて成立するものだと思っているので、ちょっと言葉が違うんだけど、自己表現が悪いわけではないし、映画も自己表現だと思うのは、そういう部分だと思うけど、自己表出になってしまうと、たぶん観客を必要としなくなる。
でも映画は他者がいないと、成り立たないメディアなんで、自己表出を、どう自己表現に転換していくかっていうためには、あの、自分が気持ちいいだけではいけないので・・・。
もちろん僕らがやっている映画は、表現、アートかもしれないけど、その一方で商品だから、お金もらって見せるものだから、もちろんそこは考えないわけにはいかないんだけど・・・。
でもやっぱり監督なら監督が、どうしてもこれを作りたいって思った切実さっていうのは、うまい下手超えて届くから、あの、下手だと見てて腹立つから怒るけど、でも切実であれば、そんなに否定しない。』
──話も対話もそこで終わるが、それに応じて、のんは以下の意見を述べる。
『是枝監督は考えて考えて考え抜いて、作り上げていくっていう方法だと思ったんですけど、のんは、女の子のエネルギッシュを放出するときの感覚をすごく大事にしていて、人に面白がってもらえるものになるように、作っていくっていうことが楽しい。その違いはすごく感じました。』
是枝裕和監督が言いたかったのは──その場で感じたものをそのまま出す──では、映画にはならないんだよ、ってことだ。
明確に『自分が気持ちいいだけではいけないので』と言っている通り、簡単に言えばのんに対して「おめえさん自慰してんじゃねえよ」とアドバイスしたわけである。
ただ、相手が有名人かつ人気者なので、後ろのほうで少し変節させ、かつトーンを落とし『でも切実であれば、そんなに否定しない』と、まとめたわけである。
しかし要点は「感覚的では商用作品として成り立ちませんよ」ということだった。
ところが、のんは、それを、まったく理解しなかった。
是枝裕和監督が言ったのは、是枝監督の独自の意見ではなく、商業監督がどういうものか、であったのに、のんは『その違いはすごく感じました。』と言ったのだ。
それでは、人に面白がってもらえないよ、と言ったのに『人に面白がってもらえるものになるように、作っていくっていうことが楽しい。』と言ったのである。
そんな蒙昧なアーティストタイプの言説に個人的には幻滅した。
ポーズかもしれないが、26歳としてはかなり幼稚な人だ。
「女の子のエネルギッシュを放出するときの感覚」って、可愛げや素性で、容赦・寛恕されることが解っているアイドルの言い草だと思う。
この「企画もの」の白眉はやはり、是枝裕和監督の、その発言だった。
とても基本的な話だが、そんな基本的な話を是枝裕和監督が言ったことに、感銘をうけた。
それを話している時の、監督は、相手をおもんぱかって、言葉を選び、言いよどみながら、話した。
あたかも映画同好会の高校生に話すような感じだった。そこに、思いやりを感じた一方でのんの表現者としてのレベルもあらわれていた。
ただ、そんな監督の発言を引き出したのんにも、一定の功績はあったと思う。