すばらしき世界のレビュー・感想・評価
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晴れやかな空のすばらしき世界は全然よくない
笑いとシリアスな部分の緩急が絶妙でした。
社会福祉的な支援は存在しているはずなのに、そこからこぼれ落ちてしまう様子が見事に描かれていてすごい。また誰しもが、自分のできる範囲でやっているにも関わらず摩擦が生じたりするのがとても悲しいが、現実なのである。みんな社会システムに組み込まれて、疎外されてしまうのである。
あと思ったのが、ちゃんと三上を映画的に殺すこと。元妻と“デート”の約束を交わすシーンで終わってもいいと思った。だが、嵐が吹いて洗濯物を急いでしまうがために持病が重症化して亡くなるまで描く、つまり三上の社会復帰を絶やすことと支援の届かなさをちゃんとみせるのは映画として素晴らしいと思った。
嵐が起こるからコスモスなどの花を気遣う人がいる。誰の責任でもない嵐の中、些細な出来事で死ぬ人がいる。そんな人々を蔑み、笑い、いなかったことにする人また気づいても支援が届かなかった人は生きる。映像として消費する人は快適に生活する。そんな晴れやかな空のすばらしき世界に私たちがいることを暗示しているように思えてならない。
太賀の存在が光る!
映画化を知って、原作を読みながら公開を待っていた本作。なかなかの長編、かつ、携帯電話等々とは縁遠い昭和の時代に書かれたもので、これがどのように映画になるのか、期待と不安があった。蓋を開けてみれば、まさに「今、ここ」の物語。単純な原作ものとは一線を画す、のびやかな映画になっていた。
長い刑期を終え、13年ぶりに社会に出た三上。身寄りのない彼のつてはごく僅かだが、弱者に甘んじることを嫌い、手を差し伸べる者とも衝突してしまう。生活に行き詰まり、ルーツをたどるように東京から地方に流れていくが、そこにも彼の居場所はない。とぼけた笑いも織り交ぜられているが、それ以上に息苦しく、救いのなさがひしひしと迫ってきた。
一昔前より、今はよっぽど生きにくい。日頃ぼんやり感じていたことを、本作はくっきりと描く。社会とかみ合わない、かみ合おうとしない三上を演じる役所広司のうまさは、言うまでもない。ここで声を大にして言いたいのは、三上に接近していく駆出しのテレビマン、津乃田を演じる仲野太賀の存在感だ。様々な作品で若きバイプレーヤーぶりを発揮しながらも、振れ幅(当たり外れ)が大きい彼。今回はどちらなのか…なんていう野暮な思いは、中盤から吹き飛んだ。太賀あっての本作、まさしく彼の代表作になる!と、観るほどにわくわく、ぞくぞくした。
津乃田は、原作には登場しない。(片鱗を感じさせる若者は登場するが、すぐに三上から逃げ出してしまう。)津乃田が他の人々と決定的に異なるのは、戸惑い迷いながらも、最後まで三上に伴走していく点だ。三上を引き受ける弁護士夫婦、福祉課の職員、スーパーの店長たちは、それぞれに彼を温かく受け入れ励ますが、それは彼の立ち直り、つまり、自分たちの場所に無害に加わることを求めているからだ。一方津乃田には、そういった欲はない。長澤まさみ演じるやり手のキレイな上司に言われるままに取材を始め、自分を曲げない三上の扱いに右往左往する。仲違いしたはずの二人が再び出会い、三上の辛い過去との訣別に津乃田が寄り添うくだりには、思いのほか心揺さぶられた。こんな世の中を生きていくには、導きよりも、分かち合いの方がよっぽど大切なのかもしれない。
後半、映画は原作の枠を超え、再出発も束の間、息を呑むラストシーンになだれ込む。放心しながらチラシやポスターが頭をよぎり、既にそこに物語が示されていたのかと、衝撃を受けた。
映画を観終えた今は、メインビジュアルを直視するのは少し辛い。けれども、見開きチラシ(コメント集)の、子どもたちとサッカーに興じる二人は、ひときわ輝いて見える。自分も、背伸びせず、欲張らず、大切な存在に伴走していきたいと思う。
小さな悪意と小さなやさしさの混在する社会の中で
13年ぶりに出所した元ヤクザの三上が、堅気としての地道な自立を手に入れようと精神的にもがく様が、淡々と描かれる。
三上は私生児として産まれ、母親は施設に彼を置いて失踪したため、親の愛を知らず育った。劇的な展開のある物語ではないが、直情的な彼が感情の制御に苦しみながら一進一退で歩んで行こうとする様をつぶさに見せられているうちに、その不器用さにはらはらしながらもいつの間にか応援していた。
今公開中の「ヤクザと家族」は視点がヤクザの世界の中にあるが、この作品の視点はあくまで巷間にあり、元ヤクザという出自はあくまで背景のひとつだ。描こうとするテーマも違う。比較されることもあるようだが、それぞれに違う味わいの佳作だ。(両方に出ている北村有起哉の豹変ぶりにはびっくりした。さすが!)
原案となる小説を書いた佐木隆三は、この物語の実在のモデル田村明義と、創作の対象以上の関わりを持っていた。田村のアパート入居の保証人になったり、時に彼のために厳しい言葉を投げたり、とある件では関係者として警察の事情聴取を受けたりもしている。
映画の中で三上と関わる人々には、そんな佐木のまなざしがにじんでいるようにも思えた。TVディレクター津乃田の変化が印象的だ。三上を取材する立場という点は佐木にも通じている。当初は仕事だからとプロデューサーにどやされながら主体性のない関わり方をしていた彼の心の変遷に胸が熱くなった。
一見冷たく見えたり、立場上厳しいことを言うような人でも、一歩進んで関わってみれば実はやさしい、時にはそんなこともある。そんなやさしさはとても得難く眩しいものに見える。
逆に、関わってみると相手の心の汚さが見えてしまうこともある。そんな汚さをひとつひとつ正そうとしていたら、清濁渾然としたこの世界で生きることは一層難しくなってしまう。
三上の無邪気とも言える心根は間違っていないのに、その生い立ちのくびきから逃れる機会を見失ったために、彼は何かを拒否したり他者の間違いを否定するにあたり暴力しか手段を知らない。また、私たちが日頃ちょっと引っ掛かりつつも目を反らし流してゆくような些末な悪意を流すことが出来ない。だから、社会で大人しく生活してゆくには己の価値観を根っこから抑えつけるしかなかった。それが何だか切なかった。
彼の手段は間違っているが、自分の心の弱さに向き合ったことがある人ならば、突き放して見ることは出来ないだろう。
垣間見える人々のやさしさに言葉通りの「すばらしき世界」が見え、堅気に生きようとする三上の心を倫理的におかしな堅気の人間たちが波立たせてゆく様に、皮肉としての「すばらしき世界」が見えた。
役者の使い方が的確かつ贅沢で、出番の少ない役柄も皆リアルな存在感が際立っている。役所広司はもう言わずもがな。安心して実力派俳優たちを堪能出来る。
西川監督は、三上をあたたかい視線で描きつつ、贖罪と更正の美談に仕立てることもしない。静かなラストシーンにまでその姿勢が感じられて、不思議な清々しさが余韻として残った。
元ヤクザの目をとおして描かれる、今の時代の生きづらさと微かにある希望
長い刑務所生活を終えた元ヤクザの三上(役所広司)が、浦島太郎状態になって戸惑いながらも何とか社会に適応しようともがく姿を描くことで、今の時代の生きづらさと微かにある希望を描いているように感じました。窓にはじまり窓に終わるところも気が利いていて、後半のあるポイントで三上が嘘をつなかければならない一連のシーンは役所氏の演技も相まって大変な凄みがありました。
西川美和監督はエッセイも面白くて、本作のメイキングがつづられた書籍「スクリーンが待っている」を読むと、さらに本作が楽しめます。特に、役所氏のリクエストで西川監督が書いたセリフの細かい言い回しなどを変えていくやりとりは、ユーモアもありつつ、西川監督から見た役所氏の役者としての凄さが書かれていて、とても興味深かったです。
役所広司がチャーミングだ。ヤクザをこんなにチャーミングに描いた作品...
役所広司がチャーミングだ。ヤクザをこんなにチャーミングに描いた作品は今までにどれくらいあったんだろうか。
長い刑期を終えて、出所した男を待っていたのは厳しい社会の現実だった。すっかり世相は変わり、暴力団に対して厳しい世の中になっている。短気な性格の主人公もなんとか自分を抑えながら生きているが、時に暴発する。路上で絡んできたヤンキー連中をボコボコにした時に役所広司の無邪気さがすごい。衝動的に(ある意味でそれは自分らしく振舞っているということでもある)暴力をふるう主人公がどこか子どもっぽく、かわいく見えるように西川監督は撮っている。なかなかすごい発想である。性根は真っすぐで、仁義に厚いとかそういう面もあるにはあるが、それにしても暴力衝動に駆られた時にその無邪気が最大限に発揮されているというのがすごい。
2020年代は、この映画の主人公のような人物が、自分らしく生きられる時代ではなくなった。それでも人は生きていかねばならない。いい奴もいれば悪い役も相変わらずいる。時代に居場所を奪われた人はどうすればいいのか。自分を殺して社会に合わせることが良いことなのか。本作を観た人がそれぞれの人生で考えねばならないことだ。
これは「役所広司を楽しむ映画」
殺人罪で13年の刑期を終え、出所して来たのは、時代の変化に対応できず、何事にもすぐにキレてしまう三上なる男。しかし、見た目は荒くれ者でも、彼は他人の不幸を見逃せない実直で正義感に溢れる人物であった。だから、身元引受人の弁護士夫婦や、TVプロデューサーの指示で三上の出所後の動向を撮影しようとする小説家志望の青年や、三上を万引き犯と勘違いしたことをきっかけに親しくなるスーパーマーケットの店長等、周囲の人々を自然に巻き込み、そして、魅了していく。やがて、気付くのは、なぜ、三上のような人間が犯罪を犯し、人生の時間を奪われ、社会復帰に苦労しなければならないのか?という疑問だ。それは同時に、今の日本社会を構築している我々への問いかけでもある。30年以上前に出版された佐木隆三の原作を現代に置き換えた物語は、細部に変更を加えて、2021年の日本人に向けて痛烈なメッセージになっている。「果たしてここは、すばらしい世界なのか?」という。秀逸な社会派人間ドラマであることは間違いない。でも実のところ、三上を演じる役所広司を見ているだけで、知らないうちに時間が過ぎ去ってしまう、言うなれば、「役所広司を楽しむ映画」でもある。ここ何十年もの間、高い頻度で日本映画に貢献してきた稀代の演技派が、それでもまだ、物凄く面白くて新鮮でさえあるという事実の方が、映画そのものより衝撃的なくらいだ。
タイムスリップしたような主人公の境遇が現代社会の生きづらさを巧く表す。役所広司ありきの作品!
「ゆれる」(2006年)で❝期待できる監督❞となり、「ディア・ドクター」(2009年)でこれは凄い監督が現れたと思った西川美和監督の最新作。
実は、残念ながら私は「ディア・ドクター」以降の2作についてはあまり響かなかったのが本音でした。
オリジナル脚本にも限界はあるので、本作では長編映画で初の原作物の作品となりました。原作の主人公は「実在の元殺人犯」で、本作では舞台を約35年後の「現代」に置き換えるなどしています。
その結果、「今のヤクザ」には、様々な法律で縛られている背景があるため、生きづらさを、より見せやすくすることに成功していました。
生活保護の現実や、住まい、仕事など様々なシーンでの生きづらさを描いています。
とは言え、本作は不思議と❝湿っぽい❞感じの作品ではなく、常に❝面白み❞が存在しています。これは主人公のキャラクターが大きく、役所広司でなければ、ここまでの面白さや凄みなどのある人物像を作り上げることができなかったと思います。
そして、長澤まさみがテレビのプロデューサー役で登場し、そんな13年の刑期を終え「社会に適応しようとあがく主人公」を追った番組を作ろうとします。
最初は、企画を立てた長澤まさみと、フリーディレクター役の仲野太賀が2人で追いかけていきますが、プロデューサーである長澤まさみは比較的早く仲野太賀に押し付けるなど、こんなところでも現実社会を投影しています。
主人公が終盤で行きついた仕事先は介護施設でしたが、ここでもやはり生きづらさは多くあります。ただ、一方で❝あたたかさ❞もあり、最初は意味不明な映画タイトルですが、ラストで意味が分かると思います。
西川美和監督の新たな挑戦となった本作を、私は成功だと感じました。
心がえぐられる「すばらしき世界」
西川美和監督が、実在の男を描いた昭和の原作(身分帳)に惚れ込み、時代を「今」に置き換えた本作の主人公(三上)は、役所広司。西川美和監督が描きたかった「生きづらくて、優しい」社会を生き抜く三上という人となりがストレートに伝わり、彼の「優しさ、時々狂気さ」が見え隠れする言動は見る側の心に突き刺さる。
三上は、困っている人を放っておけず、「これはいけないことだ」と思うと、つい当事者のために罵声や暴力を正当化してしまう元殺人犯。しかし、ベースは「優しさ」から起こっていることが作品を通して感じられるため、厳しい描写よりも人間の温かみを感じるところが本作の見どころの一つとなっている。
三上の行動を軸に、「社会に対する疎外感」を伝える西川美和監督(脚本)の視点がリアルで、ユーモアもあり泣けてくるうえに、改めて「社会」と「人間」を考える架け橋のような映画に仕上がっている。
年配で身体も想定以上に弱っているのに、見る側がドキドキしてしまう三上の二面性を、役所広司が期待を上回るほど見事に演じ切っていた。彼のストーリーに関わる人物も豪華なキャスト。皆それぞれ人間味あふれる役柄で、重要なポジションとなっていて、個性豊かな登場人物全員が「社会の厳しさ」を痛感しているので、誰かしらに共感できるはず。
私は見終わった後、爽やかな風に揺られる秋桜が愛おしくなった。
幸福の定義を問いかける西川美和の傑作
西川美和監督はオリジナル脚本にこだわり続け、これまで活動してきたが、今作は長編映画としては初めて手掛ける原作もの。
佐木隆三が実在の人物をモデルにつづった小説「身分帳」が原案だが、舞台を現代へと移している。人生の大半を裏社会と刑務所で過ごした男にとっては、現代ほど生きにくい世の中はないのではないだろうか。本編でも不寛容な社会が描かれており、正義感が強く直情的な主人公・三上(役所広司)は、いたるところで壁にぶち当たる。劇中であっても珍しい、役所が声を荒げる光景を目の当たりにすることができる。シリアスなだけではなく、くすりと笑える描写も多々ちりばめられている。散々な状態のときにこそ、思わぬ人から温かい言葉をかけられた経験は、誰にだってあるはず。行きにくい世の中にあって、三上は幸福を探し出すことが出来たんだろうか……。とにかく劇場でご覧いただきたい作品。
役所広司の役者魂と人間力を焼き付けた西川美和監督の新たな代表作
3年ほどの間隔で傑作、力作を発表してきた西川美和監督。小説家でもあることからオリジナルの物語を創作して映像化することへの人一倍のこだわりは明らかだが、今作で初めて他の作家の小説を原案に長編映画を撮った(短編では夏目漱石原作のオムニバス映画「ユメ十夜」の第九夜を担当)。
佐木隆三の「身分帳」は、人生の大半を獄中で暮らした男の刑務所内の個人記録を基に、その人物の生き様をたどったノンフィクション小説。1990年の刊行だが、映画では舞台を現代に置き換え、携帯電話などのアイテムをストーリーに活かしている。
元殺人犯の三上は出所後に自立を目指すが、前科者ゆえに働き口が見つからず、さらに体の不調もあってままならない。人懐っこい面と、筋が通らないことには“瞬間湯沸かし器”のようにすぐカッとなる暴力的な面を併せ持つ複雑な人物像を、役所広司が実に人間味豊かに体現している。真摯な役作りの賜物であるのはもちろんだが、さらに演技を超えた“人間力”が映像に焼き付いているように思えた。
共演陣も皆素晴らしいが、特にテレビディレクター役の仲野太賀と役所の風呂場でのシーンが泣ける。あと、アイヌのムックリのような民族楽器のビヨンビヨンという音色とホーミーの不吉な感じが絶妙だった。
現代社会について深く考えさせられる作品です
現代社会に生きる我々が少しでもいいからレールを外れた人達に関心を持って寛容な心とちょっとした優しさを見せれば全てが変わる事はなくても救われる人が増えるのではないかと深く考えさせられました。
世間はレールから外れた人達をとことんまで排除し時には「正義」という名の下に自身のストレスを発散する道具にしていますが、そういう事をし続ければ結果的には社会の敵を増やすだけだといい加減に気付くべきなのではないかと思いました。(中にはどこまでも社会に適合できない人達もいるにはいますが、大多数は環境次第で変わっていける部分があるでしょうしね)
役所広司は素晴らしい演技でしたし映画自体もとても良かったですが、星半分減らした理由はラストの内容です。
主人公は刑務所に入り罪を償い出所してから一度は暴力で物事を解決しようとしてしまったものの、その後に少しずつ成長し周囲の人々の事を考え自身の衝動で全てをぶち壊すのではなく社会の不寛容さやしょうもなさをぐっと耐えて生きていこうとしていたのにあのラストは微妙だったように思います。
タイトルとは裏腹の「重々しい世界」
罪を犯してしまった人の立ち直りについては、政府(法務省)も、マスコットキャラクターを作るなど、力を入れています。
「更生ペンギンのホゴちゃんとサラちゃん」がそれで、「立ち直ろうとしている人をいつも温かく見守り、犯罪や非行のない幸せな社会を願う心優しいペンギンです。チャームポイントは胸の「生きるマーク」。更生保護のマスコットキャラクターとして、法務省保護局の公式ツイッターやパンフレットなどの資料に登場したり、各地の“社会を明るくする運動”の行事にも参加するなど、様々な場面で活躍しています。」(法務省ウェブページから引用)
彼・彼女らの更正には、別作品『手紙』(2006年・生野滋朗監督)にも鮮やかな描かれているように、周囲の人々との繋がりと見守りが必要だとは思われるのですけれども。
(そのことは、三上の生活保護の相談に乗っていた市役所の職員・井口からも、図らずも語られたところでした)
しかし、現実は、どうだったのか-。
本作の場合、テレビディレクターの津乃田はともかく、プロデューサーの吉澤は三上の人別帳(の手書きの写し)をネタとして、結局は三上を「取材対象」としてしか見ていなかったようですし、三上の兄弟分の「あきちゃん」こと下稲葉も、渡世人の見栄でしか三上を見ない。
豪勢な料理で三上をもてなすかのように見えても、他に「本業」での用事ができると、何の躊躇もなく三上をさておいて、さっさと出かけてしまう。
(三上には声をかけなかったのは、ようやく出所したばかりの彼をを巻き込みたくないからと弁解したのは、下稲葉の妻が、夫の立場を取り繕っただけだったのだろうという印象が、評論子には捨てきれません。)
むろん、服役のために更新できなかった運転免許証の取り扱いについても、警察は、お世辞にも親身とはいうことができない。
最初は、誤って万引きの嫌疑をかけてしまったスーパーの店長と客という、三上にとっては誠に不本意な間柄ではあったものの、同郷であることが分かり、結果としてはやや親(ちかし)い関係性を築けたといえば、件(くだん)の店長・松本と、最初は取材対象としてしか三上を見ていなかった津乃田が、少しずつながら三上との関係性を築いていったことが、救いといえば救いだったでしょうか。
そう考えると、本作の題名は、かなりの皮肉に満ちみちているというべきだと、評論子は思います。
本作は、評論子が入っている映画サークルが、2017年の年間ベスト作品に選んだ作品でもありました。
犯罪者の社会での更正-その重苦しい現実の一端を見事に浮き彫りにした一本として、その選定に狂いはなく、佳作の評価が相応しい一本だったとも、評論子は思いました。
(追記)
出所にあたって三上は、刑務所の医務官の診察を受けていたはずでしたけれども。
しかし、三上の疾患は、結論から言えば、すっかり見落とされていました。
結局のところ、三上の疾患は、市役所のロビー(?)で倒れたことをきっかけに、救急搬送された病院の検査で判明したようで、そうだとすれば、出所に際しての健康診査で、刑務所の医務官は、何を診ていたのでしょうか。
(問診して血圧を測定する程度の簡単な健康診査だけでは、それも宜(むべ)なるかなとも思いますけれども)
医療体制の面では、その貧弱さが敬遠されてか、医務官(もちろん医師免許が必要)へのなり手が少ないとも聞き及びますけれども。
本作の西川監督は、作品の本筋ではないのではありますが、そんな刑務所の実態にもクギを刺したかったのかも知れないと思いました。
(追記)
お役所の対応は、いわゆる「お役所仕事」として、けんもほろろに描かれがちですけれども。
それでも、本作の市役所職員・井口の対応には、評論子は、感心します。
三上との対応中に、井口に電話がかかってくる。
面倒な対応に困惑する職員は、往々にして、それを口実に接客の場を離れるということが多々ありますけれども。
しかし、本作の井口の対応はどうだったでしょうか。
本当に電話がかかってきたからなのか、同僚職員から声をかけられた井口は振り返るなり「(電話を)折り返します」と端的に切り返して、また三上と正面から向き合っての相談を続ける-。
役所の中では、そこまで一人の対象者に入れ込んでいることを知られるのが憚(はばか)られたのか、わざわざ三上の自宅まで出向いて、介護施設への就職をあっせん。
お役所に、こういう対応のできる職員は、そうは多くはないだろうとも思いました。
(追記)
作中でも、満期釈放になる受刑者の再犯率の高さが津乃田のナレーションて語られていましたけれども。
このままでは、三上も同じ運命を辿るのかと、正直なところ暗澹(あんたん)たる気分で観ていました。
しかし、本作の結末は、また別のところに。
案外、この結末は、結果的には三上にとっては必ずしも不幸な転帰とは言い切れなかったのではないか-評論子は、そんな思いも、どうしても払拭できません。
「暴力では何も解決しない」と言葉では教えられはするものの、その生い立ちから、暴力で問題を解決することしか理解できなかった三上にしてみれば。
(出所者の更生には人と人とのつながりが大切と前記したところではありますが。しかし、人と人との関係か「必要条件」であることは論を俟(ま)たないまでも、ただそれだけで、暴力(犯罪)でしか問題を解決することを知らない本人を果たして(本当に)矯正できるのか―本人の性格や更生に向けた意識・意欲のいかんなど、この問題を解決するための「充分条件」が必ずしも分からないこと。そして、それが出所者の個々人によって区々(まちまち)に異なること―が、この問題の最も難しいところではないでしょうか。)
(追記)
身元引受人の庄司が出所祝い(?)として振る舞ったのは、すき焼きでしたけれども。
ちゃんと牛肉を焼くという料理法でした。
実は、評論子の住む北海道でのすき焼きは、最初からすき焼きダレで牛肉(や野菜)を煮て食べる料理ということにになります。
北海道(旭川)の刑務所で服役していたという三上でしたけれども。
その身元引受人の庄司は、道外(東京?)に住んでいる人だということが、評論子には、すぐに分かりました。
(追記)
刑務所というと、とかく「迷惑施設」と言われがちですけれども。
異常気象の故か、最近は都市防災簿の観点から、その役割が見直されているとも言われます。
建物自体が、無駄に(?)頑丈にできているので被災しづらい/受刑者の運動のため、別作品『塀の中のプレイボール』で「野球ができるほど」という訳でもありませんが、十分に広いグラウンドを備えているので、救援ヘリの発着ポイントとして利用できる/人を閉じ込めておく施設だけあって、災害などで交通が途絶した場合に備えて、最低限の食料がストックされていて、被災者への炊き出しに活用できる。しかも、炊き出しに必要な労働力も豊富にある(おまけに、みんな「通い」ではなく「住み込み」で働いてくれる)
レビュアーの皆様の自宅のお隣にも、いざ災害というときのために、誘致しておいて、ご損はないように思います。
ボロボロ泣いた
なんとも言えない
人を変えるのは他人
我慢の割におもしくない、でも空が広い
役所広司と長澤まさみ、仲野太賀の3世代競演、そして音楽
キービジュアルの印象から何となく観ないでいたが、いざ観てみればよい意味でいつも通りの西川美和監督らしい世界観であった。小さなヤマ場を盛り込みつつ、テンポよく物語は進み、飽きさせられることはない。
人間の多面性・善と悪の同居。特にこの作品ではそれらがごく普通の人々のごく普通の日常の中にあることを感じさせられた。「悪」といっても明らかな悪意ではなく、立場が違えば、あるいは結果として、あるいはそうなるのも無理からぬ、というようなものだ。
小さいけれど、そういったものが積み重なって世の中ができている。時としてそれが生きづらさの原因にもなっている。ざっと総括すればそういう映画だと思う。
演者も実力者揃いで危なげなく観ることができた。
それにしても役所広司、この人は本当に凄い役者である。
元ヤクザらしい激しさと危なっかしさ、世間では通用しない元犯罪者としての無力さ情けなさ、暴力によって敵を制そうとしたとき生き生きとした表情、ありとあらゆる側面・表情をみせながらも主人公「三上」であることにブレが生じることはない。説得力のある存在感。特に強く印象に残ったのは終盤のホームでの談話シーン。グッと怒りを飲み込み周囲に同調するような台詞を吐く場面。その笑顔の中にたくさんの複雑な感情と情報が押し込められているのがわかる。なんという演技力であろうか。改めて彼の力の底の知れなさを感じさせられた。
そして次に印象に残ったのが長澤まさみ。
「Mother」以来社会派の作品を選ぶことが多く演技に幅が出てきたが、この作品では彼女の演技力がまだまだ進化中であると思わされた。登場時間でいえばそれほど長くないにもかかわらず、彼女演じる人物がどのような者かしっかり伝わってきた。特に姿の映る出番としてはラストの仲野太賀とのやり取りのシーンは圧巻であった。「Mother」以来の荒いシーンであったが、明らかに「Mother」を上回る凄味があった。
クレジットでいえば2番手である仲野太賀は彼らしい真摯な演技であったが、
先の二人に比べればまだまだであるということを感じさせられたのは否めない。
長澤まさみと仲野太賀はそこまで年齢もキャリアもそこまで差はないが、長澤はデビューから第一線で揉まれてきて勝ち残ってきただけあり、仲野よりも一段上のステージにいる。
仲野はそれを追う立ち位置である。が、いまはそれでいい。
正直役柄的にもなくても作りようによっては話は回りそうで、仲野太賀を配したいがために作ったのかな、という気がしないでもないのだが、彼が先々西川組に参加していく足がかりのようなものと思えば、今後に期待しかない。
最後に、音楽が林正樹であったことは驚きであった。
ずっと劇伴が良いと思いながら観ていて、
「この感じ物凄く好きだな」「聴いたことある雰囲気だから、他の映画でもよく名前を観るような人に違いない」と考えていたら、まさかの私が今一番気に入っているジャズピアニストの彼であった。
劇伴はジャズ調ではなかったので、とても意外であったとともに、やはり好きなものはわかるものなんだなと自分のアンテナの自信を持ち(自己満ですが)、また、私が好きな西川監督もまた彼の音楽を好きなのだろうと思うとなんとなく嬉しいのである。
処世術とは
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