「「普通」という世界の歪さ」すばらしき世界 マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
「普通」という世界の歪さ
視聴前は出所したやくざの更生物語かと思い、鑑賞した。しかし見ていく中でこれは「反社の人間から見た社会の不寛容さ」に焦点があてられたと気づいた。
役所広司演じる三上は13年の刑期を終え、ようやく娑婆に出た元やくざだ。そんな彼は俗にいう「浦島太郎」状態であり捕まる前の価値観でいきなり現代に放り込まれる。しかし彼自身の人間性はとてもまっすぐで純粋だ。ルールにのっとり、規則正しく、それでいて困っている人を見過ごさない。例えば劇中で不良に絡まれているおじさんがいる。手には子供にプレゼントする贈り物を持って。
その光景を見たら普通の人は見て見ぬふりをするだろう。しかしこの三上はそのおじさんを助け、代わりにそのチンピラにお灸をすえる。
また、ゴミ出しを守らない若者に怒鳴り込んだり、自身が生活保護を受けている状況を何とか切り抜けようと必死に努力する。資格を取るために教習所に通ったり家ではコツコツ勉学に励む。決して現状に甘えることなく自立しようとする彼の姿は愚直なまでに真っすぐであり、眩しい。
困っている人がいたら助ける、人には礼儀正しく接する。子供のころには当たり前に教えられてきたことが現代においてどこか他人に対して冷めた対応をすることが「正しい行動」になる。それは一種の機能不全であり正しいことが正しくないこととして求められ、他人と必要以上に接しない空気が社会を覆う。現代社会において三上の真っすぐさがもはやタブーになってしまってるのがなんとも見ていて苦い。
また、この作品は親に見捨てられた被害者としての子供の悲しみの後遺症としても同時に描いている。三上は幼少期母親に見捨てられ親がいないまま育った。そんな彼はぶっきらぼうに周りとぶつかり言葉よりも行動が目立つ。それが親に見捨てられた子供がまるで母親を求めるがごとくもがいているようにも見えるのだ。きっと彼にはそれが他人と接するときの唯一のコミュニケーションの方法なのだと思う。
そんな不器用ながらも必死にもがいていく姿を見た周りの人々は徐々に集まり、支えようと懸命になる。他人を認めて言葉を通い合わせる。面と向かい言葉をかける。それこそがどこか冷めた現代には必要なことであり、それは人と人の間にいつまでも求められるものではないか。
原作のタイトルと映画のタイトルはまるで違う。がそれは最後まで見るとその意味がようやく分かる。どこにも居場所はなかったが、徐々に周りの理解者を得た彼が最後に見た風景は何だろうか。
持病をこらえながら周りに合わせて感情をなくしていく彼を見ていくときにやはりこの最後は彼にとっては救いだったのではないだろうかと思わずにはいられない。