「自然が織りなす調和と人が作り出す不調和」春江水暖 しゅんこうすいだん redirさんの映画レビュー(感想・評価)
自然が織りなす調和と人が作り出す不調和
大変に現代的、現在的なテーマがたくさん織り込まれており、
変わりゆく社会、自然、家族のたくさんの課題が余すことなく描かれているがそれにもまして、美しく横にスライドする長回しの映像の滑らかで優美なこと。なんとも言えない気持ちよさが伴う水平方向の長回し映像。
東アジアの、儒教的な呪いのようでもある家族観、自分の代も親の代もやってきた、通ってきた過ちをまた次の世代が繰り返すのか。若いグーシーの友人は自分の価値観で配偶者を選びとり努力してまもなく出産というところまで漕ぎ着けたが、実は親や親の価値観から自由を獲得しても、会社からの圧力を感じ、妊娠出産の間もその後も他の人に仕事を取られるから気が抜けないという、社畜である自分も認識していて、これでよかったのかと悩むこともあるという。この女性はこの後自由な結婚や出産を勝ち取りながらもそのことで伝統的家族に踏み入れる不自由を感じるかもしれないと予感させる流れ。それでもグーシーやグーシーの友人に多くの人が特に女性、特にアジアの女性が共感するところだろう。
老後の、介護、医療、病気、施設、愛情、世間体、お金の問題。こんなに息子がたくさんいても解決できない。上の息子二人は、中国料理店を営み、漁師として生活ができて兄の店に魚を下ろしている。美しい景観の川は、水面下では魚が前ほど漁れなくなっている。下の息子たちに定職がなく不安定なのは時代によるものだろうか、上の息子た地はなんとか再開発とか苛烈な資本競争に巻き込まれる前に生業をもてたのだろうか。
三男は障がいを持って生まれた子カンカン抱え定職もないひとり親父親、母の面倒と、常に命の危険にある、目が離せないカンカンの面倒を見ようと必死だ。母は、なんの取り柄も仕事もなさそうな末息子と、カンカンを可愛がっている。
山水画の美しいモチーフを通して絆を深める若い男女。
政治や経済の損得で縁談を進めたい親。
中国映画に必ず出てくる<有機的再開発>、ブルドーザーとシャベルカーが古い住居を躊躇なくお構いなしに解体して行く。
漁師をしながら生きてきた次男夫婦と息子が住むアパートも30年暮らしたが3日で解体だと呟く。
何世代もの、家族や社会のゴタゴタ、全てに寄り添う様も静かに見てきた山水画のような、春江。雪、樹木、水面、舟
スクリーンをゆっくり横断する長回しの心地よさ、滑らかさ、美しさ。
認知症の母の世話は、お風呂やトイレのこともあり女手出なければできないという息子、その女手は息子の妻だからたまったものではなく老人ホームへ。
賭博詐欺でお金の算段ができた三男は、賭博の合間にカンカンと母の面倒をみる。妻がいないしカンカンを守らないと行けないから損得なしに孝心により、母をホームから引き取りトイレもお風呂の世話もしている。彼だけが、親が反対しているグーシーの結婚式を遠くから見守りに行く。妻がおらず一人でカンカンを育てる男だからこその、当たり前だが社会通念に凝り固まる他の男とは違う感性、行動だと思う。この辺りの件、男だから女だからというちょっとしたエピソードも多分に現在的だ。
グーシーの結婚に対する母親(嫁)祖母(嫁)の反応、、自分が嫌だと思ったことが次の世代でなされ(加担)自分の人生をふりかえったときに、こんな思いを子や孫にさせてはいけないと思うのだろうか。母が書き記す2回の自分の意思とは関係ない婚姻と、たたずむ春江の情景。
母として二律背反的な子どもへの愛情をコントロールできない長男の妻。
朴訥としているが、自分の人生の分量をわきまえているかのような漁師の妻(立退料と、夫からの誕生日プレゼントのストールはその分量をわずかに超えて彼女を幸福にさせたように見え、先行きの不安と帳消しでほんの僅かストール一枚分のエクストラな幸せ。
母は亡くなり三男は捕まってしまったが、この物語の続きが見たいと思った、日本ではくだらない権力者たちが家族とか親子とか制度の中に人を押し込めようとすること、それをやめないことに躍起だけど、もう、家族とかそういう繋がりじゃなあという予感予兆を感じる。変わっても変わらなくても生きても死んでも、春江はたゆたい、みている。山水画そのもののように、、やがて山水画でしか見られなくなるかもしれないその美しい容姿を湛えて。