ダンサー そして私たちは踊ったのレビュー・感想・評価
全19件を表示
ダンスに酔いしれる人々に憧れる
ジョージアという国の位置も知らなかったし
アメリカのジョージア州かとも思った
人口約400万 平均月収10万
そんな国にもゲイバーが!
そこにたむろすることが危険だ!という認識にもビックリ
ジョージア舞踏なるものの存在さえ知らなかった
男らしさを表現する舞踏?
情熱的で躍動感は凄いけれど、男らしいかどうかは微妙に感じた
同じく情熱的なフラメンコは性別を問わない踊りだしね
ジョージアでは、3日間のプレミア上映の5,000枚のチケットが13分で完売
対してジョージア正教会は、同性同士の恋愛を描いた本作に対して上映中止を求め
右翼部隊は、抗議して映画館前でデモ行為 えっーーー?!
さらに主演のメラブ(レヴァン・ゲルバヒアニ)が
この映画に出演することで
「僕たち火炙りにされるんじゃ」と心配する程の保守的な社会だったとは
その日暮らしを送る大勢のジョージア人
莫大な富を握る1人が、国全体を所有しているような非常に貧しい国
ダンスの振付師の名前は、エンドロールでも伏せられていたとか
名前を明かすことで職を失い、一部のジョージア人から脅されてしまうなんて
どこまで封建的な古い国なのだろう
そんな中でも、庶民はダンスを楽しみ、力強く人生を生き抜いている
インタビューで「ジョージアへのラブレターだ」と監督
そんな現在のジョージアのリアル(貧困とダンス文化と保守)を
世界中に見て欲しかったのかな
世界でも評価されたことで、ラブレターは拡散された
結婚式の様子は、日本のそれと違っていて、
自然で形式張っていなくて「アットフォーム」
思い思いのままに踊る人々を見ていると、ダンスが生活に根付いていることを実感
日本のダンスと言えば、盆踊り、ソーラン節、阿波踊り・・・
恥ずかしがり屋の日本人が1人で踊る文化なんてごくごく一部
彼等が日本の踊りを見てどう思うのだろうか
映画の中で流れる曲が様々で、エキゾチックで素敵でした
アニメを見て日本に恋をしたという監督
メラブの部屋にも『千と千尋の神隠し』のポスターが飾ってあった!!!!
喧嘩っ早く、むこうみずな生き方が、結局更に自分を追い詰める様は痛々しい
迫害を受けてる同性愛者が、あんな場所で××しちゃうのも無防備だし
審査中に「止めろ」と言われても踊り続ける行為もむちゃ
最終的に審査で合格するという落ちかと思ったけれど、終わっちゃった
言葉ではなく、ダンスによるイラクリへの愛情表現なのだとしたら
こっそり彼が見ていて涙するというシーンがあってもよかったが
きっと、旧習に縛られず(俺は俺の道を行くぞ!)という宣伝だったのだろう
自分は自分でありたいという主張
ジョージアの伝統的な男性のダンス(sukhishvili danceスフシヴィリダンス)は masculinity(qualities or attributes regarded as characteristic of men or boys.)を基本としていると主人公のダンスの先生(Kakha Gogidze)がいう。映画の最初に映し出されるアーカイブの伝統的なジョージアの男性の動きが、これを示唆していると思う。そして、先生がいうにはKintouri (キントウリ)と Adjarian Dance はもっと軽やかでソフトな踊りだと。私はジョー
ジアのダンスのスタイルにまず興味を持った。
検索したが、ここにYotubeを載せられない。
Sukhishvili Georgian National Ballet スフシヴィリダンス(公演に行ってみたいけど今年は東欧のみだね。)
キントウリ ダンス
アジャリアン ダンス
主人公のメラブ(レヴァン・ゲルバヒアニLevan Gelbakhiani
Georgian actor and dancer)の踊りには惚れ惚れした。 国のメトロポリタンダンスで欠員ができたためのオーディションに合格したかった。しかし運命は?
最後の踊りは伝統的な踊りとメラブの創作ダンスの融合で、これには振付師でもある先生も表情には出さないが感嘆??したようだった。このダンスの振り付けはイラクリに対する最後の愛情表現か、諦めの表現かは私にわからない。それに、最後のシーンをどう理解するかだが、私の考察ではメラブはこのスフシヴィリダンスの学校には戻らないと思う。自分の部屋にあるダンスのポスターを(宮崎駿のポスターを除いて)取ってしまったし、兄のデビットが助言したように、トビリシを出ると思う。それに、メラブの最後の中性的なダンスは、彼にとってのジョージアの伝統社会(例えば、男と女の世界だけで、ゲイは罪であり仕事も干される・アルメニア人はここでは踊れない?など)や男性を象徴するスフシヴィリダンス(ディレクターのいう国の精神)に対する抵抗であり、自分は自分でありたいという主張でもあるようだ。
私は図書館の配信でこの映画を見たが、Youtubeで無料で観られるようだ。
トビリシに住んで、レストランで働きながら伝統的ダンスをNational Georgian Ensembleで習っているメラブが主人公である。父親も母親もUKロイヤル・アルバート・ホールの舞台でジョージアのダンスを披露したことのある有名なダンサーのようだが、特に父親は自分のように終わりたいかとメラブのダンスにかける情熱を否定している。
私は主人公、メラブのイラクリに対する(Bachi Valishvili)精神・肉体的にも一途な恋が好きだ。これが真に人を好きになった時の行動であり、態度であると思う。それに反して、イラクリのBatumiバトゥミに住んでいる母親思いからくる態度か?そして、ガールフレンドと婚約したと。この引き際はあまりじゃないかと思わせるが、ダンスを諦めたり、女性との結婚は現実のジョージア社会を見据えっていると思う。しかし、映画で二人が別れる時のイラクリの表情がよく読み取れなかった。だから、どんな気持ちで、別れを言い出したのかもわからなかった。
一番好きなシーンは兄デビットの弟メラブに対する兄弟愛だ。彼がゲイであると言われることに対して「弟の名誉」のための喧嘩をした。弟は兄よりできると父親に言われて育ったが弟に対して嫉妬はしていないと。でも、ジョージアには将来がないから、国を出るようにと。メラブは頷いた。
恋に落ちていく
ダンサーとしてのシーンは少ない
LGBTの青年が
新しく入団したダンサーに対して
最初はライバル心だったものが、恋に変わっていく過程がリアル
視線で相手を探したり
抱き合った翌日は上機嫌だったり
若かりし日の恋心ってこんな感じだよなー
まだLGBTへの理解も進んでない国で
結局は悲恋として終わってしまうのだけど
男性同士だからこそ越えられない壁があって
ちょっと哀しい話だった
ジョージア舞踊家としてのアイデンティティが全く描かれず
先ずは、日本人として、南オセチアとアブハジア対ジョージア どちらが善悪かは語るべからず。
ジョージアの舞踊に付いては全く知らない。
従って、舞踊の良し悪しに付いては何一つ分からない。しかし、映画に残すからには、基礎のしっかりした舞踊家の役者を使うべきなんじゃないだろうか?
映画もカットが多すぎる。舞踊の連続した美しさがかき消されている。
主旨は別にあるようなので、僕には最初から分からない。共感しようがない。しかし、自虐的LGBTの映画に見えてしまう。主人公のジョージア舞踊家としてのアイデンティティが全く描かれていない。
何をどうして悩んで、どうして貧困なのかが分からない。携帯電話の金も払えない者がタバコをバカバカ吸って、飲みに行くとは思えない。そう言った若者が伝統芸能って、安っぽくみえるが、それで良いのだろうか?
イエヴァン・ポルッカ見たいな踊り?
因みに、ジョージアってヨシフ・スターリンの故郷。
また、アブハジアや南オセチアはジョージアから独立が出来ず、いつ内戦が再発するか分からない場所である。現在はアブハジアと南オセチアがロシアの援助を受けているので、一方的にジョージアのナショナリズムを新しい価値観(LGBT)で描いたつもりだろうが、リサーチが足らない。
男女の恋愛として、南オセチアの女性とジョージアの男性とかの悲恋であったほうが、良かったと僕は感じた。
二年くらい前に『みかんの丘』と言う映画を見たが、ウクライナの影響できな臭い。
【ジョージア舞踏を知った作品。そして、ジョージア(グルジア)では、男色が許容されていないことも・・。主役を演じたコンテンポラリーダンサーとして活躍する痩身の男性の眼が印象的な作品。】
■ジョージアの国立舞踊団で、幼少期からダンスパートナーのマリとトレーニングを積んできたメラブ(レヴァン・ゲルバヒアニ)。
ハードな練習の後はアルバイトで貧しき家計を支え、休む暇もない。
ある日、メイン団員のザザが、男色行為により、舞踏団を追われる。欠員補充は只一人。
そこに、カリスマ的な魅力のある青年・イラクリが入団し、欠員補充のためのオーディションの開催が告げられ、メラブはライバル心を抱くが…。
◆感想
・作品の流れは、良くあるストーリーではあるのだが、ジョージア舞踏の男っぽい音色が印象的である。東洋風でもあるが、エキゾチックな音色。ジョージアの国の成り立ちを彷彿とさせる。
・今作の魅力は、矢張りメラブを演じた実際にジョージアでコンテンポラリーダンサーとして活躍しているとされる、レヴァン・ゲルバヒアニの痩躯な身体と、色気漂う大きな眼が印象的な風貌で有ろう。
<ダンスと家族に身を捧げるメラブの前に突如現れたライバル、イラクリ。
特訓を経て、恋へと変わっていく2人の関係性と、彼らへの暖色を偏見として観る団員の眼差し。だが、それを知りつつも、厳しきジョージアの国立舞踊団のコーチ、アレフの前で一心不乱に踊るメラブの姿が印象的な作品である。>
■私が、男性(バレエ)ダンサーの映画を見るのは、今作が三本目である。手元には今作のフライヤーがあるが、物理的、コロナの影響で劇場で観る事は出来なかった作品である。
鑑賞したのは、一本目が、セルゲイ・ポルーニンのドキュメンタリー映画である。異彩を放っていた彼が誰にも真似できないと言われた森の中での小屋で踊る際の、高い高い飛翔のシーンは今でも覚えている。
次いで、観賞したのはソ連を脱出しようとしたヌレエフの姿を描いた「ホワイト・クロウ 伝説のダンサー」である。
元々は、学生時代に耽読した、赤江瀑の”ニジンスキーの手”に触発された過去が遠因かもしれない。
人間が躍る姿は、実に美しいと思うのである。
ジョージアの伝統舞踊って調べてみ
恋をするときれいになる
切なくも哀しい秘めた思いに感動
とても緊張感のある物語で、最後までドキドキでした。主役の青年は写真よりも男らしく、彼と愛しあう彼は写真よりも若々しい。ダンサーならでは鍛えられた体躯といい、超絶技巧のダンスといい、激しく愛しあう場面といい、彼らの可愛くも危険な純愛模様に何度も惹き付けられました。
年上に見えるほうの彼の最後の選択に男同士で生きていく現実の厳しさからすると私は安堵感を覚えたのですが、それは決してゲイ否定ではなく、二人の行く末を見守りたいからであり、それぐらい二人の気持ちに共感させられましたし、とても切なかったです。
どうしょうもなく乱暴な兄が弟の告白を聞いて、思わず抱き締める場面は持って帰りたいほどの名場面。お前はこのダンスに向いていないと激しく叱責する舞踏団長のいい分も、華奢な彼にはこのダンスが求める方向に本当に向かないからであり、一見すると彼の周囲は彼には残酷なようで、実は彼は周囲の色々な人から愛されているわけであり、ここがこの映画の深さであり、秀逸なところだと思う。
ゲイでなく、ホモとした字幕も閉鎖的社会を描く本編には誠に適切。久しぶりに再会した彼らが気持ちを抑えて安易にヤらないところも切なくて悲しくて可哀想で現実感があって良かったです。大切な一篇になりました。
偏見の眼差しが跳ね返されて…涙
ダンサーが同性愛に目覚める話、簡単に言い表すといかにも偏見に満ちた表現になってしまうのだが、決して間違ってはいない。主人公の気持ちを理解できないままに見ていると、嫌な内容に見えてしまうし、単にガキが我が儘に好き勝手やってわめいている、としか思えない。
しかし、そうした偏見に満ちた見方でいると、後半それが見事に跳ね返ってきて、涙するに違いない。その涙は何なのかは人それぞれだと思うけれど─
個人的には、結婚式のカッコいい長回しのシーンから、この映画の見方ががらりと変わった。どんなにつらい時間になろうとも、そこまでは頑張って見てほしい。それで理解でいいなければ、この作品との相性は最悪でしょう。
愛と勇気と新しいものへの希望に、非常に感動させられた映画でした。
タイトルなし
西欧のバレエダンサーのお話しかと思っていたら、ジョージア🇬🇪(グルジア)の国立舞踊団の民族舞踊のダンサーさんたちでした。
すっかりダンサーさんたちの競い合いがメインで、競い合いの中で友情が芽生えボーイズラブがちょろっとあるお話しかと思っていたら、がっつりラブでした😆何よりも差別意識の強さにはお話しが進むにつれちょっと辛くなってしまいました。
国立舞踊団とはいえピアスがダメなんていってるし、ゲイという表現がもうデフォルトになってるとばかり思っていたのでホモという字幕にもちょっとビックリ。挙げ句の果てに、女性ダンサーには処女性が大切みたいなことを言ってたからさらに驚き。保守的で閉鎖的な地域はまだまだあるんですね。
メラブのお兄さんがメラブに言った、この国には未来がないって言葉はさすがに哀しかった。
お話しとしては、メラブとイラクリの関係性やゲイコミュニティーの演出は既視感たっぷりでしたし、マリの家でがっつりヤるなよ!なんて思っちゃいましたし、マリもスッゴく辛いはずなのにメラブを応援させるなよ、なんて思っちゃいましたが、メラブがみせたラストのダンスに、保守的な風土も閉鎖的な考えも撃ち破る強さを感じさせてくれたのは良かった。
ジョージアという保守的な国で作られた内容としてはかなりの冒険作品なんだろうな。
ダンスが素晴らしい
旧ソ連だったジョージアの国立舞踏団で踊ることだけを考えて生きてきたメラブ。ペアを組む幼馴染のようなマリとの関係も順調だったが、ある日ライバルが現れ、同時にメイン団の男性ダンサーオーディションも行われることになり。
ライバルであるイラクリとは共に訓練していくうちに、競争心から別の気持ちになっていくのだが、インスタで監督にスカウトされたらしいメラブ役のレバン・ゲルバヒアニは、スクリーンデビューと思えない演技力を見せている。
ジョージア映画は過去を扱うか、過去作品が有名で近代的な町を映像で見たことがなかった。舞台は首都のトビリシなので綺麗な市内電車も見れて、近代的な街並みを見ることができる。でもマリも夢見るように、西の生活水準まで向上したとは思えない。1ラリは今40円くらいなので、20ラリで800円くらいだ。おやつのように食べてたナンのような形のパンは1ラリもしていなかったと思う。
祖母も含めて家族は皆国立舞踏団に関わった過去を持ち、ダンスをすることがごく当たり前の人生なのだが、メラブや彼のご近所さんの生活を見ていると将来が心配になる。
物語は私が気になる3つのポイントを無事クリアし、最後の放たれたダンスは圧巻。
文化はグラデーションの様に美しく微かに重なっている
メラブがサーブする美味しそうな水餃子を見て、ジョージアの場所を思い描く。
ジョージアではヒンカリと呼ばれる水餃子、ロシアのペリメニ、トルコのマントゥにも似ている近隣諸国で見かけるポプュラーな料理。
大陸では文化も料理もグラデーションの様に重なり合っているのだ。
ちなみにアフガニスタンのマントゥは蒸し餃子だか、やはりヨーグルトをかけてパクチーを散らしたり、揚げ玉ねぎを載せたりする。
これが抜群に美味い!
想像しながら、ヒンカリもきっとそうに違いないと確信する。
かつてグルジアと呼ばれていたジョージア、舞踊や文化も同様に、近隣のロシアやトルコの映画で観た雰囲気と文化を匂わせ美しい。
伝統を守る古い考えも同時に存在するが、打ち砕くメラブの斬新な踊りが今を描いていた。
そこで生きる人、そこから旅立つ人。
後者のメラブは広々した大陸のグラデーションも超えて飛躍して行く。
新しくて清々しい気分を味わった。
伝統という息苦しさ
ジョージアダンスは上下の屈伸運動と膝を使った回転などの激しい動きが特徴で、バレエのような優雅さもありながら非常にダイナミックなダンスだ。
ジョージアダンス自体は知っていたけれど、深い知識はなかったので色々と考えさせられる内容だった。
冒頭で舞踊団のコーチが「ジョージアダンスにはセックスの介入する要素はない」とメラブに言うが、とにかく釘のように硬く鋭く男らしさを追及した動きが求められているのだと分かる。
メイン団という上のレベルの団体に所属出来れば、ダンスだけで生きていけるのだろうが、メラブはレストランのバイトをしないと生活することは出来ない。
客の食べ残しを持ち帰って夕食にするなど、あまり裕福な生活ではないのと、彼の家族が色々とトラブルを起こす人達であることが分かる。
ある日突然舞踊団に新人として現れたイラクリは身体能力が高く、あっという間にメラブからダンスのパートナーを奪ってしまう。
メラブが物心ついた時からダンスに明け暮れていたのに対して、イラクリは13歳になってからダンスを始めた。このことからもコーチはメラブに「お前はこの舞踊に向いてない」と何かと冷たく当たる。
そして、メラブの父親もかつてはジョージアダンサーだったが、今では市場で落ちぶれた生活をしており、メラブにダンサーとして生きることがいかに虚しいことかを説く。
メラブにとっては目の敵であるイラクリだが、自主練で顔を合わすうちに徐々に打ち解けていく。
そしてメイン団に欠員が出たために一人だけ審査に合格すれば入団できるという知らせが入る。審査対象に選ばれたメラブとイラクリは一つの席を巡ってライバルでもありながらお互いを励まし合って練習に臨む。
実はメイン団の欠員の原因は、ある一人の団員がゲイ疑惑でリンチを受けたからだという。
女性ダンサー達の「彼、修道院に入れられたんだって」「どうして?」「正常に戻すためじゃない」というやり取りが色々と先の展開を暗示しているのと、ジョージアにおいては同性愛に関してまだまだ偏見があるのだと思わせる。
予感はしていたが、メラブはイラクリに対して友情以上の感情を持つことになる。そして彼らが二人きりになった時にお互いがお互いを求めていたことを知り、彼らは関係を持つ。
そこから徐々に歯車が狂いだす。兄のせいでレストランの仕事を失ってしまった彼はイラクリと連絡を取ろうとするが、何故か繋がらない。
心の隙間を埋めるために彼はバスで見かけたゲイの男と夜の街に繰り出す。
酒のせいで重たい体を上手く使いこなせなかったメラブは、稽古中に足を捻挫してしまう。恋人でもあるマリーが彼の足を冷やして看護するが、イラクリからの電話に飛び付いた彼の姿を見て彼との関係性を察する。
案の定団員にも前夜の一部始終がバレていて、ゲイであることをからかわれたメラブは団員に殴りかかっていく。
「気づいてあげられなくてごめん」とメラブの肩を抱くマリーの姿がとても健気だった。
話はさらに展開して、メラブの兄が団員の女性を妊娠させてしまったことから、責任を取って結婚することになる。
この映画を観る限りジョージアでは家族の結び付きが強いと思われる反面、とても窮屈で世間体というものを日本以上に気にするのだと思った。
兄ダヴィドが結婚するのも半分は世間体を気にしてのことだと思う。色々と家族に振り回されるメラブも、家から出ていって一人で生活すればいいのにと思ってしまうが彼がいないと家族も生活が出来ないから無理なのだろう。
久しぶりに再会したイラクリも、父親が危篤で母親を支えられるのは自分しかいないので、故郷で結婚することにしたとメラブに告げる。
失意のうちに部屋に飾ってあるダンス関連のポスターを剥がすメラブ。(『千と千尋の神隠し』のポスターだけ剥がさなかったのは監督の好みもあるのかも)
ゲイであることを受け入れられないこの国と、繊細な表現を排除するこの国のダンス。初めてダヴィドはメラブに寄り添い、「お前は何と言われようと俺より才能がある。この国を出るんだ。この国に未来はない」と告げる。
ダンス審査の日にメラブはジョージアダンスを否定するような繊細で妖艶な動きを入れて挑発する。最後に彼はジョージアダンスの伝統的な衣装を脱ぎ捨て稽古場を去っていく。
全体的な感想としては、現状のジョージアという国に対する強い批判を感じた。
「ジョージアダンスに弱さはいらない」というコーチの言葉がとても残酷に聞こえたのは、単に動きのダイナミックさのことだけでなく、順風満帆な時はいいが、一度何かに躓いてしまったら、もうその人間は必要ないと言っているようでもあったから。
伝統というのはとても誇らしいものでもあるが、それは何かを縛り付けることでもある。
ジョージアの国の事情はほとんど知らないが、とても保守的な面もあるのかなと感じた。
時代はいつ?
切ない恋の物語の末に得たもの★
メラブの身体の美しさ。無駄な物が一切ない見事な曲線美。
メラブとイラクリが見つめ合うシーン。その時のメラブの上目遣いが何とも、可愛くてたまらない。
イラクリと連絡が取れなくなったときのメラブの切ないシーンが切なくて、女心を見事にメラブが演じてくれました。
メラブが足を怪我しながらも、家でトレーニングして泣いてるシーン。足を怪我したからではなく、イラクリと連絡がつかなくて、それで悲しくて切なくて泣いてる。
行き場のない感情。
イラクリと連絡が取れた後の安堵感。足の痛みも良くなるさま。
人は好きな人の事になると、正に一喜一憂するもの。
恋というものは、人を強くも弱くもするものだ。
結果この作品は前者なのだと思う。
私は女ですが、『ダンサー』を観てる時は、男になっていた。それはメラブが可愛いいからだ。
エスニック舞踏を超えて
ジョージア(旧名グルジア)の舞踏と音楽の魅力が堪能できる。
主役のメラブ=レヴァン・ゲルバヒアニ/Levan Gelbakhiani=が美しく、本物のダンサーだけに踊っているときの表情が素晴らしい。幼馴染・マリ役の女優= Ana Javakhishvili=と、恋人になるライヴァル・イラクリ=Bachi Valishvili=も魅力的なダンサー。
LGBTQの恋とすると今風だが、恋愛劇としてはオーソドックスな展開。
民族主義が復活し、経済が停滞することで内向きになった東ヨーロッパ諸国では、古い価値観がなかなか払拭できないようだが、恋が成就しないのは、必ずしも偏見だけではない。
やはり、貧困が不本意な未来を選択することにつながる。恋人よりもまず親を養うことを選ばざる得ない若者。社会が豊かになれば、マイノリティが生きる道も多様になる。
ネイションとエスニックの相克が、民族舞踏団にも及び、その関係性は興味深い。
若い芸術家にとって悩み多い状況だが、恋することによって獲得した踊りへの喜びはメラブをより強く、美しくした。ここが感動的。
そして、迷いを吹っ切ったラストの官能的なダンスがいい。これだけでこの映画は一見の価値あり。
型破りな踊りにエールを贈るのは幼馴染の美人マリ。恋人にはならなかったものの、やはりメラブの一番の理解者がこの女友達というところにも、大きな意味がある。8歳のときから一緒に踊ってきたんだもの! 性別や階級を越えて大切な友情。
孤立を恐れず巣立っていく若き踊り手には、友人、家族との確かな連帯がある。
監督の祖国への強い思いと若きジョージア人に対する愛が感じられる。
グルジアからジョージア
恋は女だけでなく男も強くする
ジョージア(コーヒーじゃないです)舞踏自体は素晴らしいものであろう。ただ、ここでは男は男らしく(踊る)、女は女らしくという旧態依然とした価値観の象徴としてメラブの前に立ちはだかる。メラブが決して女々しいわけではない。しかし、才能の有り無しではなく、本質的に彼の躍りは繊細さが無くなったここ50年のジョージア舞踏には馴染まないことを、鬼先生や父親は見抜いていたか感じていたのであろう。問題のある家族を抱え、電気代が払えないような経済状況にあり、監督の望むように踊れない日々の中で、メラブはイラクリと出逢い、初めて人を愛する喜びを知る。その喜びを前におのずと微笑んでしまうメラブのかわいいこと。好きになった相手が偶々同性だっただけなのに、ジョージアではそれは未だに由々しきこと。イラリクもメラブの愛に応えてくれるが、母親の面倒を見なければならなくなった彼はジョージアの因習(異性と結婚する)の中に戻っていく。失恋に泣くメラブだが、この失恋が彼に新しい道を選ばせる。その背中を押してくれたのが、ずっと家族の厄介者だった兄だったというのが巧いところ。伝統的なジョージア舞踏に訣別するためメラブは自分の部屋に貼ってある舞踏関係の写真を次々と剥がして行く。「千と千尋の」ポスターを剥がそうとして思い留まるところは、ジョージアでもジブリは人気なんだという発見と併せて日本人としては嬉しい。メラブの好きなものもちょっと解る小道具にもなっている。ラスト、
アップデートするLGBTQ映画の中で
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