「現代の人間社会は、孤独で個人主義な鬼社会」劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 アルバータ商人さんの映画レビュー(感想・評価)
現代の人間社会は、孤独で個人主義な鬼社会
この作品は現代人の冷めきった心を焚きつける炎である。
鬼滅の刃無限列車編はコロナの影響を受けて公開が延期となった多くの作品の一つである。コロナのような歴史的出来事があると、観客はそれを踏まえた見方で映画を鑑賞してしまう。来年以降に制作される映画はそれを前提に制作者側も作品をテーマ付けしなくてはならなくなるだろう。
そのためコロナ前に制作され、コロナで公開延期された映画は、コロナ禍を潜り抜けた観客の目に耐えうるかが試される。
しかし、鬼滅の刃無限列車編はそれに耐えるどころか、むしろ追い風にして日本映画史に残る記録を打ち立てている。
私が追い風にしたといったのは、もしコロナがなければこの映画はここまでヒットしなかったと考えているからだ。
それはなぜか。ここでは、経済や自粛疲れなどの外部要因は置いて、あくまで作品のテーマだけに主軸を置いて語らせていただくことにする。
「強いものは弱いものを守るべきだ」
この映画はそんな当たり前の理屈を語るだけの、言えばありきたりな話である。既視感ある浅いテーマだが、それを真に受けてしまうくらいコロナ禍にいる我々の心は脆弱になっているのだ。
思えば今年2020年は東京オリンピックも予定されて、多くの人にとっていい意味で忘れられない達成の年になるはずだった。東京の街を歩けば分かる。次々と新装開店するお店や、観光客向けの一風変わった企画や新サービス。インフラ面でも数年で首都圏の駅にホームドアが設置され、どこでもwifiがつながり、地下鉄でもスマホが使えるようになり、新駅だって出来た。大企業も巨大再開発に乗り出し次々とオープンするランドマーク。全て、賛否はあれど開催されることになったオリンピックに合わせて、現場が懸命に考えて手を動かした産物ともいえる。しかし、そんな努力をすべてコロナが吹き飛ばした。ゼロに戻すのではなくマイナスにした。
そして、そんな時、政治は無力だったし、多くの会社も従業員に対して無慈悲だった。そんな残酷な世の中であるのに、ネットニュースを開けばコメント欄に飛び交う心のない言葉たち。経済的に、精神的に様々な形で苦しむ弱者も全て自己責任論で乱暴に踏みにじられた。
また、多くの人を魅了してきた複数の著名人が、突然自らの命を絶っていく年でもあった。
そんな世の中にいれば、多くの人が疲弊してしまうのは当たり前である。
よく鬼舞辻を頂点にした鬼社会はブラック企業に例えられる。しかし、群れないといわれる極端に個人主義な鬼たちの生態は、実は現代の人間社会全体にすでに根付いている。強いものだけが生き残り、弱いものは弱音を吐いたり助けを乞うことも許されずに孤独に消えてゆくのみである。
そんなの今までだってそうだったが、コロナ禍でその闇がより顕著に、多くの人にとって身近になったのではないだろうか。
「強いものは弱いものを守るべきだ」
そんな世情を反映してか、子供たちが魅了されるような稚拙な正義モノに、大人たちは一周回って深みを見出してしまうのだ。
我々は時に自らの手で開き直って鬼になる。煉獄杏寿郎のような人間であるよりも、鬼として生きる方が遥かに不幸にあいにくい。勝負に負けても試合には勝て、というのが大人として生きる知恵である。
間違っている上司や会社に逆らうよりは従っておけ。強者に立ち向かって己を高めるより、周りの弱者から搾取したほうが楽だ。正直者として馬鹿を見るくらいなら、サイコパスになって勝ち組になる方がいい。生真面目で普通な人間よりも、ちょっと変で尖っているほうが人として魅力的。そんな言説を聞けば「一理あるよね」と思ってしまうのではなかろうか。
そんな世界に足りないのは、幼稚園で習うような当たり前のことなのではないだろうか。
「強いものは弱いものを守るべきだ」
そして、そんな当たり前のことを全うした煉獄杏寿郎の殉死に我々は言い表せない寂しさを覚えてしまう。
「英雄がいない世界は不幸だ。しかし、英雄を必要とする世界はもっと不幸だ。」という言葉を思い出したが、実は、我々が生を受けた不幸な時代が必要とするのは、英雄気取りの鬼はもちろん、完全無欠の真の英雄でもない。
望んでいるのは英雄ではなく、英雄であれば強くても弱くても鬼よりは尊ばれる世の中である。
鬼になることを断固拒否し、勝負に決して負けなかった煉獄杏寿郎の死を悲しみ慈しむ鬼滅隊に、現代人はその精神が生きる居場所を密かに見つけたのだ。
今日も熱く燃える炎のような本作品に暖をとるべくして、人々は映画館へと足を運んでいる。