「誰かのクラクション」尾崎豊を探して 桜木さんの映画レビュー(感想・評価)
誰かのクラクション
タイトルの通り。
もし『誰かのクラクション』が映像作品化されたらこの映画のようになるのではないか?と思いました。
冒頭の女子高生達の反応は時間が過ぎていく事の虚しさを表現しているような感じがしましたね。
2019年のあらゆる賞を取ったアイリッシュマンという映画があります。
若い頃〜お爺さんになって〜みたいな人生系映画なのですが、その主人公がおじいさんになって最後らへんに若い介護士の女性に『君はジミーホッファを知っているか?(作中でも史実でも1960年代のアメリカでジョンFケネディよりも有名だと言われたり、当時のアメリカで一番影響力があると言われた男)』と尋ねます。
するとその若い介護士の女性は『知らないわ(笑』と答え、主人公は何とも言えない表情を浮かべる。そんなシーンがあります。
きっと。
ファンの方が『尾崎豊を探して』を見たらその時の主人公の気持ちとシンクロしたような、何かやるせない感覚があると思います。
現代の女子高生達の『尾崎豊』とは遠い昔の人で名前ぐらいしか知らない。
これがかつて10代のカリスマと呼ばれた『尾崎豊』との今の時代との剥離を示唆してたのかもしれませんね。
ファンの方は『尾崎を知りもしないで』と嫌な思いされたかと思いますが、きっとそれが彼女達の『尾崎豊』であり、ある意味で一つの答えなのだと思います。
そしてそのシーンの少し後で尾崎豊が『街の中で自分以外のものから全て否定されたように思った』という言葉の映像が流れます。
最初は冒頭のシーンに対する皮肉かと思いましたが、考えてみれば尾崎豊はデビュー前から世の中に閉塞感を感じていて、現代の女子高生の反応よりも酷い反応や扱いをされた事もあったと思います。
そう考えると冒頭のシーンでは世代間にある単なる皮肉ではなく『尾崎豊』は元から否定されてきた人物なのだ。という事なのかもしれません。
では『尾崎豊』とは誰であり何処にいるのか。
その答えを探す時に視点は何重にもなります。
尾崎豊を知らない若い世代からの視点、ファンからの視点、尾崎豊よりも上の世代からの視点、業界関係者からの視点、そして尾崎豊自身からの視点。
こうした沢山の視点が交錯しています。
作中に何度も尾崎豊のシルエットに夜の交差点が流れますが、そのように多角度から見た尾崎豊と流れて行く車の描写は、時代の流れと共に変わっていく視点を表現していたのかもしれません。
では『尾崎豊』とは誰であり何処にいるのか。
その答えは映画の中でも我々観客でも、きっと『尾崎豊』本人すらも分からないのではないでしょうか。
作中でも尾崎豊はずっと自分自身と夢・希望・愛・自由・真実・死といった漠然としたものを探しています。
それは彼の音楽や文章にも散りばめられたテーマでもあり、世代を越えた普遍的なテーマでもあります。
だからこそ世代を越えても彼の生み出した音楽や言葉には胸を打たれるものがあるのだと思います。
映画として観たら尾崎豊を知らない人には何がなんだか分からない作品かもしれません。
しかし私は『誰かのクラクション』を本屋さんで初めて手に取って読んだ時のような気持ちになりました。前衛的なフォトグラフを散りばめ、スタイリッシュで詩的でカッコイイ。私の目にはそのように映りました。
ファンの方のレビューは辛辣ですが、私は尾崎豊のファンとして彼の音楽以外の部分や詩的な部分を映像で見れたのは嬉しかったです。
私はまだまだ尾崎豊から 卒 業 出来そうにありません。楽しく観れました。ありがとうございました。