マイ・フーリッシュ・ハートのレビュー・感想・評価
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愛とときめきは違うもの
映画「マイ・フーリッシュ・ハート」(ロルフ・バン・アイク監督)から。
あれ、この設定、どこかで見覚えが・・と考えていたら、
映画「ブルーに生まれついて」(ロバート・バドロー監督)と同じだった。
1950年代のジャズ界で活躍したトランペット奏者
「チェット・ベイカー」その半生を描いた伝記映画だった記憶が蘇る。
全く違う視点だたら、面白かったけれど、ほぼ同じ流れ。
だからあえて、彼が吹いた最後の晩に演奏した曲、
タイトルにもなっている「マイ・フーリッシュ・ハート」の訳詞を
気になる一言に残しておこうと思う。
「夜は、美しい調べのよう。気をつけて、愚かな私の心。
月の光がどんなに白くても、用心して、愚かな私の心。
愛とときめきは違うもの。でもこんな夜には分からなくなる。
キスの魔法に釘付けになれば、どちらも同じに感じてしまう」
こんな素敵なフレースが突然、作れてしまうのに、
麻薬にために人生を潰してしまうなんて、もったいない。
こういった話の最後は「彼は孤独だったんだ」で締めくくるけど、
「死は人生最大の喪失ではない。最大の喪失は己の心の内で起きる」
「生きている間にしくじりを認めるのは難しい」
「傷つかない男など男ではない」
「音とリズムは魂の奥深くに通じる道を探している」なんかに、
こんな台詞の中に、何かヒントがあるのかもなぁ。
危険の凡庸化への抵抗
『Born to Be Blue』は,クスリに再度手を出すことで,愛する人を失うという悲劇で終わっている.そのような意味では,世界の「道徳的」秩序のなかで,ある意味「安全な」映画になっていた.
しかし,現実の悲劇は単純ではなかった.このあと,チェット・ベイカーは,例えば,ポール・ブレイと『Diane』などという,すごいレコードを出したりしてしまう(映画の中の死を伝えるラジオで流れていたのも,このレコードのバージョンだったと思う・・・).
クスリまみれの生活と音楽という,道徳的危険水域にあえて入り込もうとするとき,どうしても工夫が必要だった.彼の音楽にはクスリが必要だったと言うのも,クスリまみれだったのに音楽はすごかったと言うのも,「危険」の安全な,または凡庸な言い訳にすぎないように思う.
その工夫として,音楽家の闇の部分を「法の番人」の闇の部分に重ね合わせ,それにより,闇の部分と音楽そのものとの距離を作る(闇と音楽の間をつなぐ,いわば順接・逆接いずれの接続項をも排除する)という作戦に出たのが,この作品であるように見える.二つの闇の物語を重ね合わせるやり方は,結構おもしろかった.が,音楽家に思い入れのある人たちには,逆に,作り出される距離が過剰となり,刑事の物語がうるさく感じられるかもしれない.
ともあれ,危険な領域を危険なままに扱うことの困難さを,この映画は,あらためて教えてくれるような気がする.
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