少女は夜明けに夢をみるのレビュー・感想・評価
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社会の辛さから逃れられる場所としての更生施設
イランの少女更生施設、要するに少年院のような場所だと思うが、監督が7年かけて交渉して施設内で撮影したドキュメンタリー映画だ。画面に映る少女たちは屈託ない笑顔をカメラに向けている。しかし、聞けば相当に過酷な経験をしている。ここは罪を犯した少女が入る場所だが、彼女たちには生きるためには犯罪以外の道がなかったのだ。社会では居場所を持てなかった少女たちが、社会から隔離された施設の中で笑顔を見せる。社会の中で虐げられる存在だからこそ、社会から隔離されたこの施設は、皮肉にも少女たちにとって居心地のいい場所なのだ。出所が近づくとむしろ笑顔は消えていく。彼女たちにとって施設よりも社会の方が過酷なのだ。
少女たちが無邪気な笑顔を見せるこの映画には悲壮感はない。だが、彼女たちの取り巻く社会を思うとやるせなくなる。施設の少女たちにフォーカスすることで、イラン社会の不条理も間接的に映し出した見事なドキュメンタリーだ。
イスラム貧困思春期女子の記録
今は亡き岩波ホールで鑑賞。場所は認識していたがこの映画ではじめて行った映画館。1階のチケット受け付けで当日券を買い、映画館は同じビルの10階でスクリーンは1つだけ。客は高齢者が多かったと思う。やや横幅の狭いホールで、スクリーンが横一杯に広がっていないため、巨大スクリーンに慣れている自分には画面がやや小さく感じたが、鑑賞には問題なかった。
イランの少女更正施設を舞台に、強盗殺人薬物売春放浪といった罪を犯した少女たちへのインタビューのみで綴るドキュメンタリー。最初あまりに断片的な構成だったので少し寝てしまった。
あまりにも理不尽な理由で投獄された少女たちの悲哀を描いているのかと思ったら、そんな感じではなく、先進国でも十分にあるような、貧困層の思春期の少女たちを描いた感じ。
映画のチラシになっている物静かで穏やかに笑う少女が印象的だった。彼女は家出し、「放浪」の罪で施設に入所。腕には切り傷のような爛れた痕のような痛々しい傷があり、母親から熱湯をかけられたという。2年前に姉が婚約したが、おじに性的暴行を受け続け、それを理由に婚約破棄。そしておじの性的暴行は自分に及び、それを母親に言うと信じてもらえずに家出したという。とにかく精神的に病んでいて、「夢は?」→死ぬこと、「将来良いことがあるといったら信じるか?」→何でも信じちゃう、「神を信じるか?」→祈るのはやめた(疲れた)、「何がほしいか?」→やすらぎ、「どうすれば叶うか?」→無理という絶望っぷり。子持ちの入所者を見て、自分が子供を持ったら…という話題に及んだシーンでは、「女の子が生まれたら何て名前をつける?」→ヘレナ、「男の子なら?」→(質問に食いぎみで)殺すわ、という闇の深さが超クール。施設から家族に電話したところ、実は家族全員が心配していて、会いたがる家族にたいして、「姉には会ってもよい」と返答。いざ姉に会うと大号泣で、母親に会っても大号泣。結局、家族が理解してくれないと絶望していたのは自分の勝手な思い込みだったの?と思うくらいの変容。「夢は?」と再び問うと、生きることに変わっていた。この少女の憂いを帯びた笑みがとにかく印象的で、絵になる子だった。
ほかにもいろいろな子がいて、自分に売春をさせて、その金でクスリを買う父親を殺した子もいた。母と姉と合意の上で殺した。殺していなければ自分が家を出て、クスリに染まっていたという。クスリが憎いという感じじゃなくて、どうせ自分もいつかクスリに蝕まれるんでしょといった感じ。ちなみに黒いキャンディーといえば阿片を指すらしい。
クスリを買うために窃盗をした子や、あだ名の由来が逮捕されたときに所持していたクスリのグラム数「651」と呼ばれる子がいたり、イランは薬物が容易に手に入るような印象を受けた。子持ちの入所者には夫が面会に来ていたが、いかにも軽薄でバカそうだった。この子が施設に入ったのは、夫が飲酒運転をしてバイクで大ケガをして、その入院費用を得るために強盗したから。
施設職員の対応がひどくて面白かった。このまま退所しても元の苦しい生活に戻るだけだと少女が伝えても、「ここの外の生活には私たちに責任はありません」といかにもお役所的な対応。家族が虐待していると伝えても「そうはいっても、家族はあなたを愛しているはずだ」と、健全な家族で育った人が培った「家族素晴らしい教」を押し付けたり。
宗教家か学者かよくわからない中年男性が施設に来て「今日は人権の話をしよう」と言う。少女らはあまりにも直球の質問をぶつけるが、回答に救いはない。「なぜ同じ犯罪でも男女で罪の重さが違うのか」→無回答、「子が親を殺したら重罪だが、親が子を殺したら何の罪もない」→罪もないどころか、褒められさえする(本当にそう回答している)。「父親が死別し、母親だけの家庭で育ったが、教師から『そういう家庭環境なら、あなたが問題ある人間なのは当たり前だ』と言われた。片親で生まれたのが問題なのか。私が生まれたのが問題なのか?」という少女の質問はあまりに悲痛。この質問への回答は、「そうはいっても、社会の安定・平静を保つ義務がある(つまり我慢しろ)」というもの。このシーンに、イスラム社会の倫理観が、西洋社会のそれと決定的に異なることに気づかされた。
また、親からの虐待・片親などは日本でも見られるものだが、イスラム社会では「親や男性は絶対。子や女性は黙って従うべき」という、女性であり、子供であることの救いのなさが上乗せされる。また、神への祈りが日常化している中、祈っても状況が良くならないという構図が絶望を強化している。ただ、比較的宗教色が薄く、祈りが日常にない日本で、同じ状況で苦しむ少女に救いが用意されているかというとそうでもないと思う。
最後は、施設で年越しするシーン。施設内を飾り付けし、ダンスミュージックをかけてみんなで踊るシーンで終了。イスラム教徒でもダンスパーティーするよ。イスラムでもパリピいるよ。イスラミックパリピ。ムスリムパリピ。
その他記憶しているシーン。雪合戦(イランも雪が降る)。ペルシャ絨毯の洗濯(丸めてみんなで担いで運び、屋外の広いスペースに広げ、洗剤をまぶし、モップやたわしでゴシゴシこすり、水で流す。短く畳みながら、畳むたびに上から踏んで脱水する。)。バレーボール。腕捲りして肌を出していた。金髪の人形で髪を結う遊びもする。イスラム教では女性は髪を隠さないといけないけど。施設にあるテレビが薄型の液晶テレビだったり、流れる音楽がEDMだったり、意外と近代的。
希望なき絶望の中で見る夢
英語タイトルは"Starless Dreaming"。「星なき夜に見る夢」あたりが直訳。少女達の口から語られる、重い、重い、重い話の連続に気は滅入るばかり。
娘に売春をさせた金でクスリを買う父親を持つ少女の言葉。私はゴミの中で育てられた少女。あなたの娘は愛情を注がれて育てられた。
大好きだった父親を殺した少女は言う。痛みが四方の壁から溢れて来る。一人では抱えきれない。この身体には入り切らない。
どんな時代であっても。如何なる境遇にあっても。ほんの少しの希望が有れば、人は生きて行ける。生きようと思う。塀の中で、彼女達は痛みを分け合い、絶望を共有することで孤独から救われ、何とか生きている。むしろ塀は、絶望から彼女達を守る防御壁な訳で。そこに希望は無い。夜空に、星なんか見えないよ。
釈放され外に出て行く少女達は、必ずしも幸せそうな顔をしていない事が悲しい。
夢は死ぬ事だと話していた少女は、家族の理解を得て愛情を取り戻して言う。夢は生きること。
星なき夜に、夢などない。私達は、誰かの星になれる者として生きて行かなくては、って思いました。
物凄く刺さってしまって。
良かった。とっっっっても!
生まれながらにして
私は恐らく幸せだ。自分でお金を稼ぎ、食べるものには困らず、映画鑑賞を趣味にしている。嫌な事はあるけれど、生まれなければ良かったと思った事は一度もない。生きることは素晴らしいと言われれば、そうかなと思う。
しかし、私はスクリーン越しに映された少女達に、生きることは素晴らしいなんてもっともらしい事を言えるのだろうか?私が彼女達だったら、そんなもっともらしい事を言われた時に何を思うだろうか?
生まれながらにして暴力と貧困に晒される彼女達は、生まれる場所も環境も選べない。私が生まれてきて良かったと思うことが、単に運が良いだけなのだ。そして、彼女達を取り巻く悪い環境は、明らかにイランの経済に左右されている。イランの経済は、国際政治に左右されている。国際政治を動かしているのは、アメリカを中心とした先進国である。だから、彼女達の劣悪な環境は、紛れもなく先進国が作り出しているとも言える。
74年前の広島と長崎で丸焦げになって死んでいった子供達も、骨と皮だけになって餓死する虐待児も、売春するしか生きる術のない少女達も、地中海で溺れ死ぬシリアの子供達も、国家権力と金持ちの犠牲者だ。そう、全てが繋がっている。
家族って…
国が違えど、社会背景は変わらず
イランの女子少年院といったところでしょうか。更正施設ならば、社会との繋がりの中間点だから、もう少し福祉的かなと。
日本と大きく違うのは、かなり自由ということ。少女同士が同じ境遇の仲間と距離を取りつつも、ピア的な関わりをしているところ。赤ちゃんも同室というのは、驚きです。
少女たちが自分の言葉で、今の心のうちを明かすほど、インタビューができているのは素晴らしいエスノグラフィーだと思いました。
どの子も「誰からも愛されていない」と感じていて、そして誰かに「必要とされたい」と願っている。
「生まれてきたのは、私の罪ですか?」と訴える叫びが刺さります。
出所するときに、家族が迎えにきてくれたときの、嬉しそうな表情。たとえその先に
闇が待ち受けていたとしても、頼らざるを得ない、信じるしかない束の間の喜びにしか見えないのは、私だけだろうか?
大人は嘘つきだ。対面を保つために、その場しのぎの嘘をつく。悪気なく。
親だからとか、教師だからとか、仕事だからとか、自分の立場を正当化して美しい嘘をつく。
イランの施設の職員は、「ここを出たら、あなたが自殺しようと私たちには関係ない」と言い放ちました。
ある意味、正直なのかもしれない。現実を突きつけることも必要なのかも。
どの家に生まれたかで、自分の人生が決まる。痛い現実を、子どもの力ではどうにもならない現実を、社会はどう受け止めるのか。
どの国も抱える問題なんだろう。
救われない娘たち
彼女の夜明けの夢は、どんな夢?
久しぶりのイラン国の製作作品を拝見させて頂いた。
明らかに、イラン国の政情が不安定になっているのを知らされた。父親からの虐待等や父親殺しの犯罪を犯し、父親は、依存症に苦しんでいる。更生施設に入った少女たちのリアルな日常を描いている。少女たちが「更生施設」に入ったところで、果たして更生が出来るだろうか。あまりにも切実な彼女たちの悩みや日々の不安を描かれていたが、観客側の私は、ネガティブな事柄ばかりで、私にとっては、かなりショッキングな印象を受けた。監督の質問に少女たちが答える形で描いている。そのなかでも、「これからの夢は」の質問に「生きること」と答える少女。私には、到底理解しがたい答えである。彼女たちが自分の考える「幸せであること。」の答えとは遥かに次元の違う所で生きていることに、想像の域を超えていた。そもそも彼女たち自身が虐待に合っているにもい関わら「更生施設」に入られるのも意味が判らない。理解に苦しむ。本題「少女は夜明けにどんな夢と見るのか?」、夜明けに眠りにつけずにいる彼女たちへの質問する場面では、今日施設から出られるのに「彼女には、夢も未来もない。」答え。生きることに諦めきっている現実がそこにある。今現在、中東においては民族による紛争が激しくなるばかりである。先進国に生きる我々も、今の現実を一日々々が意味のある人生を歩んでいることに理解していく「努力」を止めてしまってはいけないかもしれないが、
分刻みにその気持ちは薄らぎ、忘れてしまっている
映像と内容のギャップが際立つ
「泥棒の娘は盗んだものを食べて育つ」
ドキュメンタリー作品に、(a)意図や思想を明確に示すものと、(b)映像を出して観客に自由に考えさせるものの両極があるとすれば、意外なことに、本作品は後者に属すると思う。
よって鑑賞後には、どこか“食い足りない”感じは残った。
ただし、たびたび少女たちへの直接インタビューが入るので、ワイズマンの映画のような、完全な傍観者(第三者)ではない。
顔出し取材なのに、少女たちが臆せずに話してくれるので、どういう犯罪をしたのか、その背景は何か、今どういう気持ちなのかが、具体的に浮かび上がってくる。
家庭に問題がある点で、同じ境遇にある少女たちなので、連帯感があって仲が良いというのが印象的だった。
全部で10人程度の少女のインタビューを取るが、映画が進むにつれて、主に2人の少女にフォーカスする内容となっている。
イランでも、珍しい取材のようだ。
基本的には日本と変わらないのかもしれない。
ただ、日本のような複雑で派手な消費社会ではないので、非行の原因は、薬物か、性的被害か、その両方という、かなり単純な構造に見えた。
また、日本よりも女性への社会的な束縛が強い社会なので、“絶望感”はより深い。出所しても状況は変わらないので、「釈放されたくない」という少女がいるのには、驚きだった。
日本でも、顔出し取材でなくてもいいから、こういう問題がもっと“顕在化”すれば良いと思った。
厚生施設?
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