気狂いピエロのレビュー・感想・評価
全4件を表示
金持ち妻と結婚し、娘をもうけ、有閑階級たちと退屈な日々を送るフェル...
金持ち妻と結婚し、娘をもうけ、有閑階級たちと退屈な日々を送るフェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)。
ある夜の退屈極まりないパーティを切り上げてひとり自邸へ戻ったところ、昔の女マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と再会した。
彼女はベビーシッターとして妻の兄に連れて来られたのだ。
退屈な日々から刺激的な日々へ・・・そう思っていたフェルディナンはマリアンヌと自邸を出てホテルで一夜を共にし、翌朝、彼女が暮らしているという政治結社の部屋へ向かうとそこには死体が転がっていた。
マリアンヌの兄がいるという南仏へ、フェルディナンとマリアンヌの逃避行がはじまる・・・
といったところからはじまる物語で、物語的には『勝手にしやがれ』と大差がない。
ファム・ファタル(運命の女)によって事件に巻き込まれるノワール映画だが、ノワール(黒)といいながらも、明るくカラフルでめちゃくちゃペラい。
ペラいなんて言っちゃいけないのかもしれないけど、このペラさは狙いだろう。
ペラい画面の隙間を埋めるのが、哲学的(にみえるが、単なる言葉遊びにしか見えないこともない)なモノローグと短文。
フェルディナンがしたためるメモの言葉、それに絵画のショット。
フランス語がわからない日本人なのが残念に思えて仕方がないのは「言葉遊び」の方で、「愛」「死」「戦い」など思わせぶりな単語の羅列と組み換え・変化は、落語でいうところの「地口」のようなものなんでしょう。
高尚なようで高尚でない。
そこがミソ。
『気狂いピエロ』なんて思わせぶりな日本語タイトルが実はあまりよろしくなく、マリアンヌが何度も何度もフェルディナンをそう呼ぶのだけれど、ニュアンス的には「おバカなピエロ、馬鹿ピエロ」といった愛嬌を込めての呼び方。
ジャン・ポール・ベルモンド演じるフェルディナンは、『勝手にしやがれ』のミシェルの延長線上にあるように思えるが、決定的に異なるのは、フェルディナンがインテリ志向で軟弱、根性なしのヘタレ、だということ。
タフガイにあこがれるインテリヘタレ。
だから「馬鹿ピエロ」。
「兄が助けてくれる」というマリアンヌの言葉を信じてしまう「お間抜けピエロ」でもある。
(兄ではなく情夫だった)
最後は自暴自棄でダイナマイトを頭に巻き付け自殺を図るが、火のついた導火線から爆発へと瞬時にカットは変わるが、あそこは火を消そうとして焦ったんだよね、実は。
ということで、「まぬけな馬鹿ピエロの最期」というのが相応しい。
30数年前にフィルムで観たときには(ニュープリントだったが)あまり発色が良くなかったが、今回のデジタル2Kレストア版では明るくカラフルで画面の魅力が増大。
特筆はラストシーンで、「海と空が溶け合って・・・」というのが、フィルムではカメラがパンし始めたときから海と空の境界線がはっきりしない感じだったのが、パン当初は境界線がくっきりと浮かび、太陽をとらえた時点で「溶け合って」とひとつになる感じがよく出ていました。
笑うとときどき下品になるアンナ・カリーナは、ファム・ファタルにうってつけですね。
やっぱり、永遠…
39年ぶりに観た。
あの当時の劣化が酷かったフィルムにも今思えば独特の味わいがあったとも言えなくもないが、やはり綺麗に修復されたレストアは嬉しい。特にハイキーな画面で消えかかってていた字幕はデジタル化で格段に読みやすくなったし。
おそらく、これで本来の光、本来の色彩に限りなく近づいたのだろう。
アンナ・カリーナのアノ瞳やアノ唇に、あの肌の色合い、60年代のアルファ・ロメオに、ベルモンドのペンキ顔、南仏の眩しい太陽!あの海や空の青さ!
今さら言うまでもないが本当に凄い映画を作ったものだ。
もちろんゴダールが本当に凄いのだが、彼の無茶振りなディレクションに見事に反応して駆け抜けて行ったベルモンドやアンナ。
そして、なんと言っても撮影のラウル・クタール!
本物のスタッフとキャストが、然るべきタイミングで、然るべく出会って、然るべき作品が出来上がっていくエポックな素晴らしさ。
こんなの観てしまって、すっかり撮る気なくしてしまった当時の映画作家たちも結構いたんでは?
あるいは、逆に中途半端なフォロワーを世界中で生んでしまったか?
しかしゴダールの映画は本当にゴダールにしか撮れない。
あのコラージュと多彩な引用とギャグで独自のフィクションを疾走していく飄々としたカッコ良さ!
映像作品なのに、どこか音楽作品を体感しているような気分。
つまり一貫して詩的で、しかも数学的。
編集のセンスが本当に突出している。
あのラスト、ダイナマイトを括り付けるシーン、記憶の中では、もっと突然アレよアレよとういう間に一気にテンポ良く爆発にまで至った気がしていたが、記憶なんて結構いい加減なものだ。
もちろん顛末を知っている以上、初めて観た時の衝撃は、もはや体感できようもなかったが、やはり多感な10代の頃に観ていて本当に良かったと思う。
でもなあ。やっぱり字幕は昔の山田宏一版が良かったような…
39年前じゃ殆ど覚えてないが…
最後のランボーの翻訳、
やっぱり、あの爆発の後、
アンナの声で囁いて欲しいのは、
「海と溶けあう太陽が…」
じゃない?
P.S.
後日、今回のパンフレットの寺尾次郎氏の解説を読んだら、ラストのアノ詩、実はあの有名な『地獄の季節』からの引用ではなく、その『地獄の季節』の発表の前に試作されていた『永遠』(確か中原中也が訳していた)からの引用だった。
『地獄の季節』だと
C’est la mer mêlée
Au soleil.
になるが、
実際に引用された『永遠』の方だと
C’est la mer allée
avec le soleil.
となるのであった。
よって、なんと、公開50年以上も経過して、やっと本来の正しい翻訳となっていたようだ。
いやあ… これはチョット驚いた。
殆どの日本人は気付いてなかったのでは?
映画の後半では、何度か「地獄の季節」とフレーズがインサートされてたから、これまでの訳者は皆んな小林秀雄が翻訳していたアレだと思い込んでいた訳だ。
たぶん、おそらく(というか他には考えられないが)敢えてゴダールが、試作であった「la mer allée」の方を選んだのは、きっとアンナとの別れに対する万感の思いだったのかもしれない。
今回のリバイバルの宣伝コピーにあった「息苦しいほどのロマンチスム」とは、まさにこのことだったようだ。
しかし、でもなあ…
やっぱり「la mer mêlée」の方が圧倒的にいいと思うんだよなあ。
ランボーだって結局は、そう思って試作からアップデートさせたんだろうし。
詩それ自体もそうだけど、あのラストにも、ありえないくらい奇跡的にピッタリだったと思う。
まあ、こればっかりは、好みの問題か。
Elle est retrouvée !
— Quoi ? — l’Éternité.
C’est la mer allée
avec le soleil.
Elle est retrouvée !
— Quoi ? — l’Éternité.
C’est la mer mêlée
Au soleil.
白人の黄禍論にしか見えない。
やっと見終わった。疲れた。
何が傑作なのか僕の感性では理解できない。
マルセイユの軍港に浮かぶ軍艦が背後に視えるので、多分、ベトナム戦争に抗議しているのだろうと思ったが、ホーチミンをディスったり、ベトナム解放戦線をベトコンと差別したり、黄色い顔の女性に訳の分からない言葉を喋らせたりして、白人の黄禍論にしか見えない。よくよく考えてみたら『勝手にしやがれ』と話の流れが一緒だと思う。映画館に行かないで、1500円のディスクを買って、3時間かけて睡魔と戦いながらやっと見た。もう二度と見ないと思う。
僕の感性が些か異常なのかもしれないが、この作品も手放しで大傑作とは言えないと思う。
確かに気が狂ってる
フランス映画にハマりだしそうなので女は女であるの延長線として鑑賞しました。
こちらの映画もまた、終始喧嘩したり言い合ったり見ていて疲れました。女の方こそ実際気が狂っていて、二人して無鉄砲で無計画な逃避行でした。
文学かぶれの自分としては見ていて面白いところといえば、バルザックやらなんやらたまに名前が出てくるので興奮していました。
台詞も歌も美しいと思いました。ぜひフランス語字幕も付けて欲しいような。1つ1つに韻を踏んでいるのか分からないですがフランス語を堪能できました。
全4件を表示