「なめてかかるとモブにやられる」フリー・ガイ nobu0612さんの映画レビュー(感想・評価)
なめてかかるとモブにやられる
モブキャラが自我に目覚め、自己実現を遂げていく。そんな想像通りの展開の背景には痛烈な社会風刺が隠れている。
まずプレイヤーとモブキャラの差が「サングラス」で表現されている。
ガイは毎日同じ行動を繰り返しているわけだが、そんな日々を変えたいという気持ちが芽生える。そして「サングラス族」から奪ったサングラスをかけることによって、今までは見ることができなかった世界を見れるようになる。現代社会も同じく、富裕層の子供が生まれながらにして見ている世界と貧困層が見ている世界は大きく違う。選ばれたものとその他大勢を視覚的に描き出す発想が面白い。
しかし、サングラスをかけたとしてもヒロインであるモロトフには相手にしてもらえない。では、どうするか?レベルを上げるのである。その方法は銃を奪い、モブを殺し、ミッションをクリアし、金を貯める。モブキャラたちも天気予報で流れる「血の雨が降る」日が当たり前だと思っている。ゲームの中とはいえ、私たちが資本主義社会の中でやっていることと何ら変わらない。「ブルーシャツガイ」はモブを助ける形でレベルを上げ、その活躍にプレイヤーたちは「モブの気持ちを初めて考えた」と口にする。ただ、このセリフも選ばれた者達の外野からの言葉であり、どこか空虚さを感じる。加害者としての意識がないというのは恐ろしいものである。
困難に立ち向かい、一途に想い続けるガイの姿にモロトフは惹かれていくわけだが、ガイの方から放たれた「この世界で君は生きていけない」という決別の言葉には思わず涙を堪えた。当然のことながら、私たちが生きているのはゲームの中ではなく、リアルな世界である。できないことができる「フリーシティ」は確かに楽しいかもしれない。ただ、その中に傾倒するあまり、大切にすべき何かを見落としてしまうこともある。それはミリーとキーズの恋の行方に集約されている。2つの命を生きようとするのは、ある程度の欲が満たされているから生まれる発想なのだろう。
デジタルという物質が減らない世界だからこそできる訳だが「バブルガムアイスが無料になった」のは資本主義を手放した社会の行く末である。誰かから奪ったもので生きるのではなく、誰もが好きなことをして生きる社会。モブキャラとして生きる私は「トーキョー・シティ」の中で何ができるのだろう?
今回の悪役をタイカ・ワイティティがノリノリで演じたアントワンは巨大なコンテンツを提供することでに富を築いた。しかし、モブキャラのストライキによって没落していく。この映画を配給したのがディズニーというのも考えさせられるものがある。MCUにスターウォーズを従えて、反乱など起こさせないという自信の現れだろうか?