アートのお値段のレビュー・感想・評価
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アートにまつわる、あるある。
イケイケなジェフクーンズと過去の人のラリープーンズ、オラつくオークションハウスと愚痴にも聞こえる美術館の対比が、作品を楽しませてくれる。
ラストのプーンズの満更でもない表情に、「なんだ、お前もか!」と突っ込みたくなった。
アートをとりまく環境
アーティスト、バイヤー、コレクターとそれぞれの立場から、想いや葛藤、利害関係をえがきだすドキュメンタリー映画。ストーリー性もあるし、やはり知らなかった世界を覗き見ることができる作品はとてもワクワクする。
ただ「世界の上位1%の超富裕層の資産は、個人資産全体の4割弱をしめる」といわれているが、その現実を描写する場面にはとてもモヤモヤしたものを感じてしまう。
芸術家気取りの人間は無数に存在するが、成功した人間はごくわずか。 ...
芸術家気取りの人間は無数に存在するが、成功した人間はごくわずか。
さらに現代は複製技術が飛躍的に進歩し、現代のアーティストに受難の時代である。
キャンバスのしわ一本にいたるまで精巧にコピーできるらしい。
ほとんど見分けがつかないほどのコピーが可能なら、芸術とは一体何なのか。
おもしろい問いかけだった。
ポスターで満足している身としては
価値が分からないからこそ、篦棒な価格がつけられて倉庫に保管される。保管ができてそのものには具体的な価値がないマネーと似ていると思いました。一部の富裕層のゲームなんですね。カードやポスターを買って満足している身としては、アートってそんなに高尚なものじゃないと思います。
主にペインティングのお値段
作る者、買う者、売る者…立場よってアートの意味合いが変わっていく様がよく分かる。同じ立場でもその扱い方は多種多様だし─。
皆アートに対して一生懸命なだけで、その結果が“お値段”として現れているような気がした。いずれにせよ偏見なく楽しむことができたと思う。
ただ、ここでのアートというのは少し狭義であるような気がするので、これをもってアートの現状とするのは違うような気がした。本質はついているとは思うけれど─。
アートは所有する物。
世界における現代アートシーンでの “作品は所有するもの”と言う観念の流れが(アーティスト」/ギャラリスト/コレクター/オークション/キュレーター)主要各関係者の意見がインタビュー形式で描かれており解りやすく、特に個人的な見解にその人の人柄、立場が見え隠れして面白かった。
現代アートは、歴史のない移民の国アメリカが芸術でイニシアチブを取るためにヨーロッパに対し、政治的に考え出された物なのだから、そんなに難しく考えずに、コレクターは自分の好きなものを買えばイイし、作家は自身の信じるものを作ればイイと思う。
だだ個人的には作家本人の手が加わっていない物には魅力を感じなかった。
日本人がアートと言えば、ただ美術館に観に行くだけだが… この作品を見て“作品は所有するもの”と言う観念が少しでも観る人に伝わるとイイなと思いました。
映画のチケット代で買える作品だってあるのだから。
"Because Art is Art"
本物とはなにか?価値とはなにか?
マーケットの値段はわかっても、本当の価値をわかっているか?
アートを観るとき名前が先か作品が先か?
それらに明確な答えはないけど、マーケットや歴史やストーリー、そしてそれに関わる人たちが付けてきた評価がある。
アーティストやギャラリスト、コレクター、評論家、オークショニア、様々な視点からの意見が見れて興味深かった。
商業として、芸術として、色んな人の思惑や好みの中で左右される価値ってなんなんだろう。
それにしてもその価値付けに公共美術館は蚊帳の外なのに、売れてるアーティストたちの中には収蔵されたいと言ってるのがなんとも。。。名前も作品もある程度の価値づけされたら文化になりたいということか。
アートを見る目が軽くなる?
アーティストは総じて寡黙なのに対し、ディーラーやオーナーは冗長でよく喋る。
現代アートの価値について聞かれる前に、質問を極力遮ろうとするかのようだ。
アーティストは総じて自分の作品の価値は底上げされてると認識しているし、当面の資金も必要だし、だが、行く行くは、美術館に所蔵されて、自分亡き後に、再び陽の目を見るような作品を残せれば本望だとさえ思っている。
だが、ディーラーは、美術館や多くの人の目に触れる場所より、選ばれた人のところで相応しい展示方法で飾られるのが、アートにとってもっとも喜ばしいと主張し、値段をドンドン吊り上げようと躍起だ。
アートの値段とは一体なんだろうか。
こんなことは、小学生の時から誰もが抱く疑問のような気もする。
ピカソの「泣く女」を見た時、ああ、これだっら自分も描けると皆んなだって思ったじゃないか。
こんな名声や値段に対するささやかな疑問は、こんなところから、僕たちの中で、ずっと続いていたに違いない。
その後、少し美術に触れ、ピカソのような訳にはいかないと思いつつも、どんどん現れる新進気鋭の若手アーティストに疑問を持つのも仕方がない。
ポロックは、自分のやりたい事は、全部ピカソがやってしまったと言っていたというエピソードを読んだことがある。
その後、ドロッピングやアクションペインティングをリードし、今最も高額で取引される作品を制作したポロックも、実は、生きていたら、それほどの値段ではなかったのかもしれないと思うと、ちょっとショックだったりもする。
そんな事言われたら、過去の偉人の作品だって疑問に思う人がいるかもしれない。
ダヴィンチの作品として近年発見された、エンディングに映される「サルバドール・ムンディ」の4億ドルも怪しいのか?
シンガポールにあるはずの「アイルワースのモナリザ」はダヴィンチ作品としては、疑問点が多くなってきるようだが、シンガポールの企業グループは、これに一体いくら支払ったのか?
もう考え始めたらドキドキしっぱなしだ。
だが、アートの価値なんて値段と比例するわけではない。
誰にだって(そうではないかもそれないが)好きな作品の一つくらいあるだろう。
仮に自分で所有できなくても、美術館に足を運べばいつでも見れるのは喜ばしい事だ。
大学の一般教養の英語の授業のテキストが、「from Giotto to Cezanne」という美術本だった。
フラ・アンジェリーコの受胎告知の解説で、ヴァージンのマリアが妊娠し、処女と妊婦という矛盾を表さなくてはならなかったという説明を読んで、いたく感動したのを覚えている。
その後、バックパッカーをして、フィレンツェを訪れ、このフレスコ画を見たときに、更に驚いたのが、マリアは明らかに戸惑っている表情をしていた事だ。
マリアにはフィアンセがいて、ヴァージンなのに妊娠して、それは神様の子供だと言われ、戸惑わないわけがないのだ。
フラ・アンジェリーコは、神のストーリーを借りて、人間の一瞬の戸惑いを描いていたのだ。
アートは、そんなところに発見や驚きがあって、個人個人の中に価値を生み出すものではないだろうか。
それにしても、ジャスパー・ジョーンズのターゲットは、くれるんだったら、大事にするから僕も欲しい(笑)。
そして、コマーシャリズムから距離を置いて制作に時間を費やした、ラリー・プーンズの作品達の瑞々しいしさを劇場の画面で見たとき、何か気持ちがパッと明るくなる気がして、胸が熱くなった。
あのプーンズ展にいたオバさんじゃなくたって涙が出て出そうだった。
本当に素晴らしいと感じるアートには値段など重要ではないのかもしれない。
特定の美術教育など受けていない、例えば、発達障害の人などが制作するアール・ブリュットは、非常に多くの人々の心を惹きつける。
そういう感動を見つけることが出来れば良いのだ。
アートの価値を値段で減じるようなことがあっては悲しいではないか。
アートを見る目が軽くなる気がする
アーティストやアートが総じて寡黙なのに対し、ディーラーやオーナーは饒舌だ。
現代アートの価値について聞かれる前に、質問を極力遮ろうとするかのようだ。
アーティストは総じて自分の作品の価値は底上げされてると認識しているし、当面の資金も必要だし、だが、行く行くは、美術館に所蔵されて、自分亡き後に、再び陽の目を見るような作品を残せれば本望だとさえ思っている。
だが、ディーラーは、美術館や多くの人の目に触れる場所より、選ばれた人のところで相応しい展示方法で飾られるのが、アートにとってもっとも喜ばしいと主張し、値段をドンドン吊り上げようと躍起だ。
アートの値段とは一体なんだろうか。
こんなことは、小学生の時から誰もが抱く疑問のような気もする。
ピカソの「泣く女」を見た時、ああ、これだっら自分も描けると皆んなだって思ったじゃないか。
こんな名声や値段に対するささやかな疑問は、こんなところから、僕たちの中で、ずっと続いていたに違いない。
その後、少し美術に触れ、ピカソのような訳にはいかないと思いつつも、どんどん現れる新進気鋭の若手アーティストに疑問を持つのも仕方がない。
ポロックは、自分のやりたい事は、全部ピカソがやってしまったと言っていたというエピソードを読んだことがある。
その後、ドロッピングやアクションペインティングをリードし、今最も高額で取引される作品を制作したポロックも、実は、生きていたら、それほどの値段ではなかったのかもしれないと思うと、ちょっとショックだったりもする。
そんな事言われたら、過去の偉人の作品だって疑問に思う人がいるかもしれない。
ダヴィンチの作品として近年発見された、エンディングに映される「サルバドール・ムンディ」の4億ドルも怪しいのか?
シンガポールにあるはずの「アイルワースのモナリザ」はダヴィンチ作品としては、疑問点が多くなってきるようだが、シンガポールの企業グループは、これに一体いくら支払ったのか?
もう考え始めたらドキドキしっぱなしだ。
だが、アートの価値なんて値段と比例するわけではない。
誰にだって(そうではないかもそれないが)好きな作品の一つくらいあるだろう。
仮に自分で所有できなくても、美術館に足を運べばいつでも見れるのは喜ばしい事だ。
大学の一般教養の英語の授業のテキストが、「from Giotto to Cezanne」という美術本だった。
フラ・アンジェリーコの受胎告知の解説で、ヴァージンのマリアが妊娠し、処女と妊婦という矛盾を表さなくてはならなかったという説明を読んで、いたく感動したのを覚えている。
その後、バックパッカーをして、フィレンツェを訪れ、このフレスコ画を見たときに、更に驚いたのが、マリアは明らかに戸惑っている表情をしていた事だ。
マリアにはフィアンセがいて、ヴァージンなのに妊娠して、それは神様の子供だと言われ、戸惑わないわけがないのだ。
フラ・アンジェリーコは、神のストーリーを借りて、人間の一瞬の戸惑いを描いていたのだ。
アートは、そんなところに発見や驚きがあって、個人個人の中に価値を生み出すものではないだろうか。
それにしても、ジャスパー・ジョーンズのターゲットは、くれるんだったら、大事にするから僕も欲しい(笑)。
そして、コマーシャリズムから距離を置いて制作に時間を費やした、ラリー・プーンズの作品達の瑞々しいしさを劇場の画面で見たとき、何か気持ちがパッと明るくなる気がして、胸が熱くなった。
あのプーンズ展にいたオバさんじゃなくたって涙が出て出そうだった。
本当に素晴らしいと感じるアートには値段など重要ではないのかもしれない。
特定の美術教育など受けていない、例えば、発達障害の人などが制作するアール・ブリュットは、非常に多くの人々の心を惹きつける。
そういう感動を見つけることが出来れば良いのだ。
アートの価値を値段で減じるようなことがあっては悲しいではないか。
「値段」は決まるが「価値」は決められない
映画を見終わってみると、予告編はなかなか良いデキで、この映画を観るにあたっての重要なキーワードが、ほぼすべて入っていることに気付く。
レンブラントの名品は、今となっては値段が付けられず、市場にもまず出ない。
本作で話題となるのは、果たして50年後には残っているかどうかさえ疑わしい、「価値」が定まらず、リアルタイムで「値段」が変動している“現代アート”である。
もっと言えば、「価値」が誰もさっぱり分からないからこそ、逆説的に「値段」が常軌を逸するのではないだろうか?
原題は「The Price of Everything」だが、Everythingというのは、値段は高いが無価値かもしれない作品に対する皮肉なのか・・・。
市場は、まずはアーティストとギャラリーなどと購入者の間の「一次市場」で始まるが、もちろんそこでは終わらない。
今、活況を呈しているのは、作品が元の持ち主から離れて、オークションなどで転売される「二次市場」だ。
そこでは、世界中の超富裕層が資産価値だけで購入するために、倉庫に塩漬けにされている作品も少なくない。真摯なコレクターにとってさえ、半分、通貨や株券のような存在と化しているようだ。
とはいえ、この映画はオークション顛末記ではないし、マネーゲームに特化した内容でもない。
コレクター、批評家、画商、オークション会社だけでなく、超有名人を含むアーティスト本人が多数出演していることが、この種のアート系ドキュメンタリーには珍しい特徴ではないかと思った。(ただしリヒター本人の出演はわずか。)
つまり、いろんな立場の人間に、バランス良く軸足が置かれている。
ただ、上映後のトークイベントを参考にすると、これでも十分ではなく、世界中に支店を持つメガ・ギャラリーが、この“アート・ゲーム”のプレーヤーの一員として欠けているようだ。(美術館に貸し出して展示したという来歴が、作品の“箔付け”となって、高額な売買を可能とするといった話だった。)
また、資金がなく、ゲームに参加することすらできない美術館サイドの話も、ほぼない。
アーティスト本人は、いくらオークションで作品に高値が付いても、直接的に儲かるのは転売したコレクターとオークション会社だけであるから、一喜一憂せず、いささか困惑している場合が多い。(むろん、間接的には利益があるはずだが。)
個人的には、先人にすべてやり尽くされてしまった後の、哀れな世界の狂騒曲に思えた。
正直に言えば、6人のアーティストのうち、ナイジェリア人のジデカの絵以外は、好きになれなかった。他の作品は、あたかもファッション業界のように、過去の作家の作品の蒸し返しや亜流にしか見えなかったのだ。
しかし、今を生きる以上、レンブラントや「フェルメールの作品世界に戻る」わけにはいかない。
「価値」ある作品とは、こういう馬鹿馬鹿しい狂騒の中にあって、多くの年月と人々の鑑賞を経てコンセンサスが形成されて、最後まで生き残ったモノのことだというのが、今日の不都合な真実なのだろう。
「アート界を笑え」である。
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