天国にちがいないのレビュー・感想・評価
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ステレオタイプとはなにか
パレスチナの日常を他国に置き換えると滑稽よね、というのと、日常どこの人もやっているようなことを拡大するとパレスチナの話になるのよね、というのと。そういった中で、「意識高い」系の人たちが自分の中のスティロティピカルな“パレスチナ”によってインかアウトかをジャッジする傲慢さも印象的。/小鳥とのやり取りが面白かったんだけど、あれはなにの謂だろうか。
ニーナ・シモンの『アイル・スペル・オン・ユー』
ロイ・アンダーソンの不条理と比べてしまう。
封切りで有楽町で見た。今回は三回目。
一回目は完全に寝てしまい、二回目は途中で寝てしまい。今日が3回目で、やっぱり途中で寝たので、最初から合計四回目見た亊になる。
吉田兼好の『徒然草』か清少納言の『枕草子』だ。パレスチナの出来事に集中させても良かったような気がする。異邦人としてのパレスチナ人は我々日本人から見れば、白人で『ブリジットさん』にしか見えない。しかし、なぜ彼はポカンとしたか?ブリジットって普通女性の名前でしょ。
パレスチナ国内では興行的には成功しないし、過激な映像ばかり見ている西洋や韓国人にも無理だと想う。脱亜入欧の日本人くらいしか受けないと想うよ。
僕はロイ・アンダーソン見たいと思ったのと、ニーナ・シモンの『アイル・スペル・オン・ユー』が挿入されただけで満足。
メタファーが読み解けないので。
宗教的メタファーだとわかっても理解できる知識がない為、何を揶揄ってるのかがわからずもどかしかったし、やっぱりこういう作品は文化的・政治的背景がしっかりわからないと見てもだだ漏れだなぁ、と我ながら恥ずかしくなった。 それでもくすっと笑ってしまうような、大らかなユーモアがそこかしこに溢れてて素敵♡と思える作品でした。
パレスチナをめぐって
さらに政治的緊張感の増したロイ・アンダーソンと形容できそうな映画だった。 笑いとは、言い換えれば社会一般的な認識(=常識)と眼前のできごとの落差に対する違和感の表れであり、落差があるということは、どちらか片方が決定的にズレているということだ。すなわち現実が良識を凌駕してしまっているか、あるいはそもそもその良識自体に誤謬と欺瞞がある。 エリア・スレイマン監督はパレスチナ問題をめぐる常識と現実の間に横たわる落差をシュールレアリスティックに引き延ばし、ことさら強調する。たとえばパリの街中を戦車が走り抜けるシーンや、武器を携えた一般人がスーパーで呑気にショッピングするシーン。なんとも不審で不可思議な光景に思われるが、今なおユダヤ人との人種間対立が続くパレスチナ人たちにとっては、こうしたキナ臭い光景が当たり前の日常なのだ。 あるいはスレイマン監督が黒人運転手のタクシーに乗るシーン。スレイマンがうつらうつらしているうちに窓外の景色はいつの間にか整然としたオフィス街から寂れたスラム街へと変わっている。黒人が峻厳な表情でスレイマンに「あんた何人だ?」と問いかけ、車内に危うい人種的対立の緊張が走る。スレイマンがおずおずと「パレスチナ人」と答えると、黒人の表情がパッと晴れる。黒人はパレスチナ人に対する個人的な友愛を語ると、運賃までタダにしてくれるという。黒人が思わぬ「同胞」に出会えたことを素朴に喜ぶ一方で、スレイマンは安堵とも焦燥ともつかないなんとも微妙な表情を浮かべる。 といった具合に、本作ではパレスチナ問題をめぐる当事者と部外者の認識のズレがシュールコメディという形式によって鮮明に炙り出されている。 ただ、パレスチナにもフランスにも関係ないところで生まれ育った私にとっては拾いきれないトピックも多々あり、途中で何度か寝かけてしまった。政治的コノテーションを度外視してもなおに面白い作品かと問われると、正直首肯しがたい。だったらロイ・アンダーソンのほうがよくできてるなあと思う。
日本人が手に入れることができない映像美とセンス
教科書的なダイバーシティではなく、政治的でもなく、またドラマチックでもない。だがシュールかつ現実的で、individualかつ普遍的な世界の日常を(松尾スズキ似の)スレイマン監督が描く。It Must Be Heaven!
隣人よ
映像はきれい。面白いのか面白くないのか夢現つがずっと続く。私は夢だが彼方はとりあえず現実を描いているらしい。あー何だか監督の自己陶酔映画のようでこれがわかる人が本当の芸術が分かる映画好きといった感が感じられ、私はお手上げ芸術の分かる人ではありませんでした。
映像で見せるコメディ
主人公はこの映画の監督(エリア・スレイマン)だが、ドキュメンタリーではない。 イスラエルのナザレ、パリ、ニューヨークの街を点描していくが、根本的には人間は変わらないということか。 ニューヨークで、スーパーに買い物に来た客が、みんな銃を持っているシーンが可笑しくも悲しかった。
監督は映画のオーセンティックなものを求めている。
この映画はトレーラーが出回っていて、それをよく見る機会があった。 面白そうだと 思いいつか見るぞと思っていた。そして、無料が見つかったので今日見られた。 ニューヨークでタクシーの運転手がスレイマン監督に、どこの国からきたのと。 スレイマン『ナザレン』と町の名前で答える。 運転手『国?』 スレイマン『パレスチナ人』 タクシーを急に止める。 『パレスチナ人を見たことがない、よく顔を見せろ』と。マイクロアグレッションの賜物!!! 可笑しい!! 運転手はナザレン(ナザレ)がイエスキリストの生誕地なので、興奮しているようだ。それに、アラファット議長をカラファットと間違えて、いい奴だと言っているようだ。 そして、奥さんからの電話をタクシーの運転手はとり、パレスチナ人をはじめてのせている話をする。 本当に意味のあるコメディを作るのが上手だ。ニューヨークにユダヤ人は多くいてもパレスチナ人は🇵🇸少ない?! ニューヨークの大学かどこかに、監督として招待され、そこで、監督としての経験を意味のないようなあるような形で質問され、『他の言葉で言うと、スレイマン監督は完全にストレンジャーですか』と聞かれるが、スレイマン監督は講堂に集まっている学生を戸惑いながら右の方から左へと上の方から下へと見つめている。学生は有名な監督に与えられた、質問の答えを真剣に待っている。ーーー私は大笑い。 だって、監督にとって、講堂にいる学生の身なりの方がストレンジなのである。クマだったり、ウサギだったり、、、、、面白い。質問する教授と真剣な眼差しと、そのトーン、学生の有名な監督から何か聞きだそうとする態度、スレイマンの当惑。 すごいシーン。 この映画は笑えるシーンが多すぎて書き切れないからここでやめる。フランス(パリ?)やニューヨークを訪れて、新しい場所を見つけようとしても、どこもかしこも同じような問題にぶつかり、どこに住んでも一長一短で、帯にながし、たすきに短しだ。故郷が一番いいかも、と言う映画だと思った。しかし、これだけじゃない。 オーセンティック(本物の,確実な,真正なという意味)なもの(こと)に良さを感じている監督であり、そうしたいと思っている監督だとおもう。パレスチナではパレスチナの俳優、フランスではカナダ・フランスの俳優、アメリカではアメリカ・カナダの俳優をかなり多く使っている。そこに、メキシコ生まれの俳優、友人役でガエル・ガルシア・ベルナル監督が出る。ガエルの電話の会話(スペイン語を話している) で、[スペイン(orラテン系)の話を英語で作れ、それに、ネイティブの民族にはどんな言葉でもいいから適当に話させろと。]こう言う企画ならやめると。 これは、スレイマン監督の言いたいことだと思う。映画監督は最近、英語の映画にするのが多すぎるし、(日本映画もタイトルが英語になっている時がある)オーセンティックでなくなっている。スレイマンはグローバル化によるこの兆候の見直しも主張しているのではないかと勝手に思った。 スレイマンの『時の彼方へ』 を観てレビューを書いたことがあるが、この監督の良さが分からずじまいだった。 ただ私はパレスチナの映画を数多く観ている。 そして、それらのレビューも書いているし、少し、ある教育に携わっている。そんなに数多くのパレスチナ人を知らないが、 日本でもよくあった(ある?)受け身の自律性に欠ける教育なようだ。(あくまでも私の少ない経験に基づいている) だから、スレイマンのように批判的思考力に基づいた映画監督はちょっと稀なような気がする。 筆を置こうとして気がついた。スレイマン監督はこの映画で静かな声の出ない傍観者なのだ。なぜ? 冗談にばかり気に取られないで、批判思考力の目線でもう一度見るべきだなと思った。グローバル社会の問題点を追求しているのではないか。英語映画やどこの国でも同じ問題を抱えているということ以上の問題を私は意識化する必要があるなあ。
隣人よ!隣人よ!
(たぶん)母親を亡くしたのだろう、 エリヤ・スレイマン監督が庭に1本のレモンの木を植えて旅に出る。 旅に出たスレイマン監督の気持ちはわかるなぁ。僕も、人生の大きな段落を越えたあとにはいくつかの旅をしてきたものね。 街を、そして人をよく見つめて観察をする監督。 まっすぐこちらを見るカットが多くて、ついつい僕も身を乗り出して監督の姿を見る。 旅は、自分との出会い。 自分を発見する時間。 自分が何を願っているのかを旅は鮮明に浮き立たせる。 スレイマン監督がその目に映す光景は、パリでもニューヨークでも、コミカルに、そして象徴的に「パレスチナの領土問題」を語る⇒ ・パリでの丸い池のほとりでの椅子取りゲーム(お情け無用の陣取り合戦)。 ・官権によるオープンカフェの執拗な検地。 そして市井の人たちの警戒と、無理解と、嘲笑。 オリーブ畑の中を“お百度”を踏んで祈っていた娘は、鉢の水が蒸発するまで歩いていたね。 監督も“無言の行”で世界を巡り、祈りを受け入れる素地がこの世に有りや無しやをじっと見ている。 ・・・・・・・・・・・・ 「隣人よ」「隣りびとよ」と繰り返されるあの呼びかけは、キリスト教徒にとっては超有名な「ハッとする」キーワード。 「善きサマリヤ人の喩え」で検索すればWikiで聖書本文が読めます。 パレスチナ人とユダヤ人(=キリスト教西洋社会)の、2000前からの確執について、ナザレ人イエスが語る珠玉の喩え話。 ・・・・・・・・・・・・ で、先日、 弟から面白いメールがあった。以下 『僕の車の運転席前(ダッシュボード)に、いつもパレスチナの旗を立ててあるのですが、 先日アパートの車庫から車を出そうとしてドアを開けたら、犬の散歩をしながら通りかかった高齢の男性から声をかけられました 「いつもここを通るのですが、これはパレスチナの国旗ではないですか」 「あ、そうですよ」 「関係者なのですか?」 「関係者ではないですが、支援をしています」 するとその男性、嬉しそうに、「私もです」と言って、パレスチナの国旗がついているキーホルダーをポケットから出して見せてくれ ました。 ちょっといい話でした。』 ねぇねぇスレイマンさん、 これどう?いいエピソードだと思いません?
見る映画。風景は美しい。 パリのカフェから見る女性の美しさ。 食事...
見る映画。風景は美しい。 パリのカフェから見る女性の美しさ。 食事を積んでるSAMU。 文脈の決定できないおかしさばかりが積み重なる。 コントの連続みたいな。 そして、圧倒的な風刺。 パリやニューヨークで、パレスチナはただ消費される存在でしかなく、「文化」の浅薄さが圧倒的に描かれる。むしろ日常の中に不条理がある。 パレスチナがあるかどうかをタロットで占うシーンは最高におかしかった。 日常の文脈を異化するだけだけれど、深い意味をもたらす映画。
【”不条理に満ちた美しき世界の中の、シュールな笑い。”シンメトリックな構図の多さが洗練された感を与える、随所でクスリと笑えるシーン満載の作品でもある。】
ー 観ていて、”最近、似たテイストの映画を観たなあ・・、と考えていた。個人的な意見であるが、ロイ・アンダーソン監督の「ホモ・サピエンスの涙」に風合が似ていると思いながら、鑑賞した。ー ■感想<Caution! 内容に触れています。> ・エリア・スレイマン監督自身が、全てのシーンに出演しているが、彼は殆ど喋らない。彼の周囲の不可思議な風景や、人々をじっと観察しているのである。 その、数々の不可思議で、不条理な風景や人々の姿が、クスリと笑えるのである・・。 ・それは、スレイマン監督の隣人が、”扉が開いていた・・”と言いながら、スレイマン監督の家の庭のレモンを大量に収穫していたり、バッサバッサと勝手に剪定していたり・・。 その姿を見ても、スレイマン監督はじっと眺めているだけである。 何故か、クスリと笑えるのである。 ・スレイマン監督の別の猟師の隣人が語る、蛇の恩返しの話。 ・スレイマン監督は、ナザレからパリに飛ぶのだが、パリでも不条理な事は続く。 セグウェイに乗った三人組の警官の姿。シンクロされた動きの美しくも可笑しき姿。 美しいシンメトリックな街中を進む、数多くの戦車。 同じくシンメトリックな街中を歩む多くの象、そして排泄された糞を回収するスイーパーが続く・・。 ・ニューヨークでは、スレイマン監督の映画の企画は”パレスチナ映画色が弱い・・”と言う理由で没にされるも、ニューヨークの町でも不可思議な風景に次々に遭遇するスレイマン監督。 ライフルや、RPGを普通に持ちながら歩く人々。 セントラルパークの噴水の周囲での奇妙な椅子取り合戦・・。 <パレスチナのナザレから来た、エリア・スレイマン監督がパリ、ニューヨークの二大都市で見た不条理だが、シンメトリックな美しさを湛えた、クスリと笑える数々の風景。 パレスチナ人が観た、ブラックユーモア溢れる数々のシーンが、”良く、これだけの絵空事を考えたなあ・・”と思わせてくれる世界の秘密を告げるが如き作品 エンドロールで流れる、スレイマン監督の”パレスチナに捧ぐ”と言う言葉が、印象的な作品でもある。> <2021年4月25日 刈谷日劇にて観賞>
寡黙で多弁な自国愛溢れる映画
主人公を画面中央にした
シンメトリーで、シュールな景色が
展開されていく。
シーンは短く、一幕一幕カーテンが
降りて様変わりするように流れていく。
今のは何だったの??
え、それで?
と思うようなエピソードが続く。
主人公は監督自身で、まんまドキュメンタリー
のような映画だ。
平和とは言い切れない故郷の、そして
複雑な自身の民族的アイデンテティが
ベースになっている。
理想の天国を訪問地に求めてみたものの
平和で憧れの街に見えるそこには
不条理であったり、やるせない真実、欺瞞が
いっぱいだ。
それらをコケテッィシュに、
そして皮肉たっぷりに描き、私たちに問いかけている。
だから、セリフは全部で原稿用紙に1枚もないくらい少ない
はずなのに、語られる言葉はものすごく多い。
最後のタロット占いの結果や、帰国した故郷の
女性が運んでいた重たい水が空になっている
ところを見逃してはいけない。
監督自身が自国の将来に
希望を持ち続けている証拠なのだから。
おヒマなら、どうぞ
カンヌでW受賞ということだが、よくわからない話だった。 というか、ストーリーなんてないのですよ。ほとんど。 そう、これは筋書きを追うというタイプの映画ではない。 セリフも少ない。主人公=監督は、ふたことしかしゃべらない(このふたことに監督の想いが込められているのだろうけれど)。 でもつまらないことはなかったなぁ。 中央に人物を配した構図、シンメトリーの要素のつよい画面、人物のシンクロする動き、奇妙な間……。 どちらかといえば、写真や現代アートのような趣です。 そのシュールな画面に展開する数々のエピソード(というよりは、ショート・イメージと言った方が正確か)。 警官や、戦車、それに武器を持った人々などは、中東や世界の不穏な空気を象徴しているのでしょうか? そして、ユーモア。 全編にわたって感じられるチャーミングな「おかしみ」――これは主演のスレイマン監督のパーソナリティーによるところが大きいと思いますが――この「おかしみ」が、本作の大きな魅力になっています。 僕は「爆笑」よりは、こうした、ちょっとした笑いの方が好きですね。 とくにパリのカフェのシーンがおかしかった。 監督が、道ゆく女性のお尻を執拗に目で追うシーンは、BGMもあいまって、笑った。 それから、下手くそサックス奏者の「ベサメ・ムーチョ」を聴かされるところも。 理屈のとおった映画ばかりではなく、たまにはこういう、感覚を味わうような作品を観るのもよいことだと思う。 中東・パレスチナ問題にくわしければ、もっと深く体感できたのか? 万人むきではないですが、おヒマなら、どうぞ。
日常の小さな非日常
国によって 差はあるが ただただ見守る主人公の 表情や姿が 何か シュールにも見えて 可愛くも見えて 滑稽にも見えて… 日常と 非日常は 所変われば 面白くなる とにかく 映像が綺麗 洗練されている それを見るだけでも とても満足できました!
好きな時に
37本目。 最初に、はまるかはまらないかで決まると思う。 俺は、はまったから面白かったけど60分位であきがくる。 でも好きな時にトイレに行けるし、好きな時に寝られるかな。 この主役、まあ監督だけど山田君の座布団運びの次に楽だと思ってしまう。
『ホモ・サピエンスの涙』にも似たシュールな光景を無言で見つめるほんわかしたロードムービー
主人公は本作の監督エリア・スレイマン自身。イスラエルのナザレにある自宅を出て自身の新作映画を売り込みにパリとニューヨークに行って帰ってくるだけの話。しかしそこに映っている映像は異世界のようにシュール。隣家の果樹園からレモンを盗む男、物凄く非効率な方法で水瓶を運ぶ女、静まり返ったパリの市街をゆっくりと横切る戦車隊、ホームレスに豪華な料理を提供する救急隊、自動小銃やライフルで武装したままスーパーで買い物をするNY市民、セントラルパークで警官に取り囲まれる天使といった絶妙に奇妙な光景が次から次へと監督の目に飛び込んでくる。さりげなく友人として登場するガエル・ガルシア・ベルナルを筆頭に様々な変わった人々と出会いながらもその誰とも噛み合わない不条理がどこへ行っても繰り返されるが、そのどれもが微妙に愛らしい。邦題は原題の直訳ですが、私の祖国もイカれてるけどどこの国もイカれてるねというような意味が込められているのかなと思いました。作品トーンとしては昨年観た『ホモ・サピエンスの涙』にも似たほんわかしたユーモアに貫かれた珍品でした。
あれこれ考えながら観る方向け
ふんだんな風刺と皮肉にクスッとしつつ、緩やかに変わっていく世界に苦笑い。 世界は世の中はどーなっていっちゃうんだろ?を一傍観者の目線で淡々と描かれていきます。 なんの主張もありません。 この作品見る人によって印象がかわるんでしょうね。 僕は作品の意味を考えるのが好きなので、これは何を言いたいんだろ?って考えながら楽しんで観れました。 「ノックしたけど誰も出てこないから果実いただきます。」 とか、侵略めいた表現はパレスチナの過去の比喩? なんてかんがえちゃいます。 パレスチナのこれまでの歴史に明るくないので、知ってたらもっと楽しめたのかな?って思います。 パレスチナ→パリ→ニューヨーク→パレスチナの旅の風景なんだけど、「今の世の中や社会を例えたら、こんなことでしょ?」な描写。 一流モデルなんてマネキンでしょ?(この描写うまかったなー) 軍事の雰囲気が日常に。 当たり前のように武器が。 などなど。監督の思っているであろうことを、一傍観者(旅行者)の目線で切り取る感じが、その間も絶妙で面白いです。 で、キナくさい描写は混沌としたある国をイメージさせます。世界は(と言っても二つの都市)あんなになってしまうんじゃないか?って危惧含んでるのかな? で、結局天国かも?って想いをはせるのはパレスチナに対してなのかな?冒頭の呑気な感じやラストの監督の視線はパレスチナの若者への期待含め今は平穏だなーー、よかったねーって目が語ってる気がします。 うーん、ひねくれた作品だから、当たり前すぎるかな? 万人受けはしない作品でしょーねー。 僕は好きです。ホッコリとクスクスできました。
難解ではなくコミカルだが
パレスチナ、ナザレの映画監督の日常生活。
冒頭の神父さんのシーンからエンディングのクラブのシーンまで、特に繋がりがなく「あれは何だったの?」で埋め尽くされた作品。よく寝なかったなと思うが、セリフが少なくて見入ってしまったのかもしれない。
空の雲が映ると外国へ飛んでいる。パリとニューヨークへ行くが、旅行というよりどうやら映画の仕事のよう。主人公は常に一人であるのに対し、街中で出会う人は2人組とか4〜5人とかがシンクロしているのが多い。それがなんか可笑しみを含む。
ナザレでも2つの金盥で水を運ぶ女性の足を見ていたが、パリではカフェで行き交う女性たちの脚やお尻やファッションをひたすら見続け、かと思うと、人っ子一人いないルーブル美術館、ヴァンドーム広場やシテ島などを歩いている。銀行の前を大きな戦車が何台も進む。街角には無料の食べ物に並ぶ長蛇の列。ホームレスに駆けつけた救急車がけっこう豪華な食事を提供している。肝心の仕事はパレスチナ色が薄いという理由で彼の作品は却下となる。ホテルの部屋に小鳥が迷い込んできて、仕事のジャマをする。
ニューヨークに着くと、タクシー運転手にパレスチナ人ということをありがたがられる。老若男女が銃を普通に持ち歩いていて、セントラルパークの池の回りでイスの取り合いをしている人々や天使の格好をした女性を見る(ハロウィン?)。映画会社でガエル・ガルシア・ベルナルと会うが、仕事はうまくいかない。タロット占いで「この先パレスチナは、ある」と言われる。
ナザレに帰ってくると、隣人は変わらず、金盥の女性も歩いている。
言いたいことは何なのか、というより何か言いたいことはあるのか?という感じだが、パレスチナや世界各地で存在する社会問題を描いているらしい。
しかしコミカルなのでアッサリ目。監督の意図は観客にどこまで伝わったかな?
第三者的視点で巡るパリとNYの旅、そして故郷
パレスチナ人の映画監督が、パリとNYに新作の売り込みの旅に出かける 大まかなストーリーだけで、劇中は非現実的なショートストーリーが繰り広げられる 監督主演のスレイマンは、劇中言葉を発しない 唯一、地元ナザレを告げるのみ そして、旅するすべての土地で、第三者的にそこで起こる事象を眺めている 形やスケールは違えど、悲喜交交それぞれの場所に人々の暮らしがある 万人受けする映画ではないけど、私は好き 一つ一つのエピソードは、分からないものもあるけど、敢えてのメッセージせいのある不条理コメディとして成り立ってる
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