家族を想うときのレビュー・感想・評価
全126件中、81~100件目を表示
現代社会で失われていく人間性
「ブレッドウィナー」「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」「再会の夏」。今月は、戦時下に於いて人間の尊厳が失われる作品をいくつも見てきた。が、平和に見える日常生活の中で、このような形で失われていく人間性もある。
コンピューターの普及、情報化の加速、レスポンスの即時化により、世界はすっかり変わってしまった。人々は時間に追われ、余裕を失い、置き去りにされまいと必死だ。
低価格競争、24時間サービス提供、顧客満足度偏重。舵を切ったのは政治や事業主かもしれないが、背景には、我々消費者個人の際限なき欲望がある。雇用主は言う。「ドライバーの寝不足なんて誰も気にしちゃいない。興味があるのは、いかに安く、速く、という事だけだ」
ケン・ローチ監督が容赦ない視線で投げつけてくる、疲れきった労働者、冷たい目の事業主、そのどちらもが我々自身の姿に重なる。このままで良いのか。利便性と効率化を突き詰めた先に何があるのか。我々はもう人としての姿を失いつつあるじゃないか。何処か知らない国のお伽噺ではない。怒りと焦燥と共に、淡々と見せつけられる現実に身がすくむ。
ちっぽけな機械端末に押し込められた人間。置き去りにされた老人達。利益を生まなければ無駄として切り捨てられる社会。何かが少しずつ歪み、噛み合わなくなっていく。蟻地獄に足を取られ、ズブズブと沈んでいくのを止められない。
けれども、バス停に居合わせた乗客は「大丈夫?」と声を掛け、息子は傷付き反発しながらも歩み寄ろうとしている。携帯画面から顔を上げ、目の前や隣にいる人の顔を見て、「こんにちは。お元気ですか?」と問い掛ける。そんな些細な行動に、心に、破滅から救われる蜘蛛の糸が、まだ残っていはしないか。
「Sorry We Missed You.」
歯車の向こう側に存在する筈の人間の姿を、私達は見失っている。
こんな世界を望んだんじゃない。人間に戻りたい。あなたも私も共に。
何の為の映画?
俳優の演技も撮影もそつなくこなし
細かな演出もきちんとできている完成度の高い作品だが
ワーキングプア―懇談会で15分程度の凝縮版を見せて
みんなで話し合うのなら、この映画の使い道としての価値はあるが
映画が言いたいことは理解できるが、それは今に始まった事ではなく
シナリオを創った段階で、単なるフェクションになってしまう。
なぜ、俳優を使い、シナリオを書き、演出をして映画を創っているか、この監督は理解できていない。
社会派映画を作りたいのなら、取材を沢山してのドキュメントを作りなさい。
さもなくば、創作物として自分なりの結びを創るべし
この映画を観るなら、「万引き家族」を観るべし
自分なりの言いたいことは是枝監督なりに、示している。
家族の真の幸せとは?
人を人とも思わない
このシステマティックな社会
負のスパイラルに飲み込まれ
もがいても悪くなるばかりの状況を
父は諦め家族は静かに怒る。
ラストシーンが頭にこびりつく。
従順という命がけの反抗にはらはら涙。
子供たちもこのスパイラルに
巻き込まれなければよいのだが。
……………………………………………………………………………
2019.12.22 新宿武蔵野館にて1回目
おいらにはパートナーがいる。
おいらとはまるで異なるアプローチで
幸せを語るところが鼻につくのだが
家族一人ひとりが想い描く
家族の幸せのかたちは違うのだと
この映画は諭してくれる。
自分の考える家族の幸福が
絶対ではないのだという揺らぎに
反省させられることしきり。
「自営」という自由で明るい陽射しを
かき曇らせるフランチャイズシステム
実は世のコンビニ店長の多くが
こんな苦労を背負わされてるのかと
想像を飛ばしたが実際は如何に。
娘と一緒に配達に廻るシーンが
際立った輝きをもって心に残るが
この輝きをも否定する社会の不寛容さに
腹立たしいやら嘆かわしいやら。
重い。悔しい。やるせない。
そんなやり場ない錘を胸に残す
強烈な一本だった。
貧困に喘ぐ家族を見つめる重厚なドラマ
ニューキャッスル在住の非正規ワーカー、リッキーは長年建設業に携わってきたがどの職場も長続きせず、一念発起してマイホームを購入する夢を求めて漸くありついた仕事が宅配ドライバー。配送会社の雇用だと思っていたが実はフランチャイズの自営業。配送用車両はレンタルもあるがレンタル料が高すぎるし、自前で購入しようにもローンの頭金もまた高すぎる。介護福祉士として働きに出ている妻アビーの通勤用車両を売ってなんとか頭金を捻出したものの宅配ドライバーの仕事は想像以上に過酷で、先輩ドライバーから「これが大事だ」とアドバイスとともに渡されたのは尿瓶代わりのペットボトル。介護福祉士の仕事もやはり過酷で、訪問先のドアベルを鳴らしながら汚臭に備えて鼻にクリームを塗りたくる。来る日も来る日も家族の為に身を粉にして働く二人だったが、成績優秀だった長男セブは夜な夜な町に繰り出してスプレー缶で落書きをぶち撒ける問題児になり、聡明な長女ライザは不眠と夜尿に悩まされる。誰かに何かが起これば途端に破綻してしまうギリギリの生活を送っていたリッキー達はそれでも助け合い暮らしていたが、過酷な労働条件はいとも簡単にそのバランスにヒビを入れる。
邦題は全く嘘をついていませんが、ポスタービジュアルが醸す暖かい雰囲気はほぼ皆無。ワーキングプアからどう足掻いても抜け出せない善良な市民がとことん搾取され蹂躙されていく様を傍で見つめ続ける重厚なドラマ。曇天の空の下至る所に転がる貧困に押し潰されたような人々が俯いたまま順番を待つ病院の待合室でアビーが思わずぶち撒ける罵声が虚空に飲み込まれるのを見つめているのは胸が痛いです。
昨今貧困、老々介護、各種ハラスメントといった社会現象を真正面から描く社会派作品が身近になってきた感がありますが、それは即ち我が祖国においてもそういった問題が全然リアルになっているということに他ならず、エンドロールが終わってもすぐに立ち上がる気になれませんでした。
☆☆☆☆ 観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」...
☆☆☆☆
観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」とは思うのだけれど…。
英語にはからっきしなので、ハッキリとは言えないのだが。(おそらく)原題は、主人公の父親が配達員だけあって《不在通知》で良いのでしょうね。
一見すると、なんの捻りもなさそうに思う。この《不在通知》とゆうキーワードが、後半に向かうに連れてジワジワと観客の心の奥に響いて来る凄い題名だと思った。
「家を買いたい」
「少しでも子供達と一緒に良い暮らしがしたい」
そんなささやかな願いを込めて、父親が始めた配達員のフランチャイズ事業。
だが現実には、頑張れば頑張るほどにアリ地獄の様に陥ってしまう悪循環の数々。
だからこそ父親は更に身を粉にして働き、母親もそれを最大限にサポートする。
だが…。
(個人的な考えとして)この《不在通知》の意味。
この家族間の中では。1人1人の心の底に《不在通知》が届き始め、父親が頑張れば頑張るほどに。その《不在通知》は数を増し、その家族間の空虚さすら深みに嵌って行ってしまっていたのだ。
それと、これも《不在通知》の持つ意味がもう1つあるとするならば。監督ケン・ローチの考えとして【弱者に対する社会の切り捨て】との考えがあるのではないだろうか?…とゆう事。
母親は介護人として多くの人に寄り添う仕事に就いている。
「もう少しだけ1人1人に対して親身になってあげたい!」のはやまやまなのだけども、より多くの人の介護をしなければ、家庭の足しにはならないし。〝 何よりも1人1人に対して親身になってはならない 〟とのルールが課せられていた。
現実に於いて、社会は弱者に決して寄り添っては居ないのが事実とゆう矛盾!
そんなルールは父親に対しても容赦はしない。
数々の縛りが彼を苦しめ。その結果として、家族の間には《不在通知》のやり取りがドンドンと増えて行く。
作品の中で。母親は介護の仕事をしている為に、何人かの障害を抱えた人が登場する。
(流石に、脚に障害を抱えた犬が登場する場面はやり過ぎな気もするけれど…)
それらの人には、支えになる人が居ないと日々の生活にも支障をきたす。
ひょっとしたら?それをケン・ローチは。終盤での病院の場面で、母親の放つ言葉で声を大にして訴えたかったのではないか?…と。
社会にとっては、〝 単に生活に困っている1人が苦しんでいるだけ 〟にしか過ぎないのかも知れないのだが。その人が倒れたなら、その人が支えていた人は当然の様に倒れる。もしもその人が、下から多くの人を支えていたとしたならば…更に多くの人が倒れてしまう。
ただ単に1人の人が倒れただけ…では事は済まされない結果になるのだ!
その様に。映画はラストに掛けて、社会の矛盾を投げ掛けて終わる。
あくまでも個人的な意見なのですが。最近ダルデンヌ兄弟作品を見直す機会がありました。
ダルデンヌ兄弟は、作品の対象となる人物に対して、これ以上の【絶望の淵に立つている状況】は無い場面から。〝 ほんの僅かな希望の光 〟を観客に仄めかして映画を終える。
それにより観客には《感動》とゆうプレゼントが与えられる。
それに対して(決して比べるモノでも無いのだが)ケン・ローチは、前作の『わたしは、ダニエル・プレイク』の時と同様に。この作品のラストには〝 希望 〟の欠片も見受けられない。
寧ろ、彼は骨折しているかも知れない手の痛みや。目が見えにくい事からしても、この後には最悪な結果になる可能性しか感じられない。
しかし、映画はそれを見せずに終わる。「その辺りは観客に委ねるラストだから!」とゆう意味なのは理解出来る。
…出来るのだけれど、観客に〝 希望 〟を匂わせるダルデンヌ兄弟に対し、「これ以上の事は知らないよ!」…と言っている様に感じてしまい。(あくまでも個人的な意見です)ケン・ローチに対して、ダルデンヌ兄弟程の信頼性をどうしても持てないのが正直なところ。
…とは言え! あの病院での母親の叫びに、思わず泣かされてしまったのも事実。
映画のラスト直前、彼は《不在通知》を使って家族にメッセージを残す。
その一言こそ、家族の間にあった【不在の心】を表していた溝を、埋めるに相応しい美しさに溢れていた。
年末に、年間ベストクラスの作品が公開されたと言わざるを得ないのは間違いないでしょうね。
2019年12月21日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1
これぞ新自由主義!
This is THE NEOLIBERAISM.これぞ、新自由主義。そういう映画だと思います。
職場と学校からの暴力的な力で、家族が崩れていく。
もう、苦しすぎて、ずっと最初から歯を噛みしめて見ちゃうので、眠くもならないというか、なれないというか。
これを見ながらずっとセブンイレブンのオーナーのことが頭から離れませんでした。世界中のあちこちで、苦しい苦しい生活が充満して、押し潰され死んでいく人たちがいる。ちょっと病気でもすれば、明日は我が身。(あ、それは前作I, Daniel Blakeの話でしたね。)
もう、どこかで爆発しようぜ!そう言うしかない、そんな映画でした。
ケン・ローチの視線が好きです。明確な階級意識があって、労働者を応援、鼓舞してくれる。是枝監督がローチを師とするとか言っているNHK番組がありましたけれど、何を師としてるんだか?是枝監督はまるで分かってないと思いますけどね、労働者階級の立場なるものは。ローチが描きこまざるをえない労働者への暖かい眼差しは、例えば、万引き家族のどこにも感じられない。下層にいる人たちを対象にして描いているから、距離がある。確かに安藤サクラが流した涙には、人としての矜持が感じられるとても優れたシーンだと思いますが、意識的に描いていると思えない。ローチとは似て非なるとしか言いようがないのです。
それに対して、この作品のお父さんも、お母さんも、息子も、娘も、みんな人間としての誇り、矜持、ディーセンシイというようなものがあるんですよね。(まさに安倍首相一味からは一切感じることのないものですわ)
こういう人の描き方がグッとくる。
お母さんが、介護現場で泣きたくなるような利用者の振る舞いに対して、自分の親と思って接することを原則にしてる、なんて言う。これは言うのはできても、現実は、実際到底簡単ではない。泣きたくなるようなことが起きる介護現場で、そこに対応してたら、次の訪問先にすごい遅刻するでしょう!そこはどうするんだ?でも映画ではそこは描かなくてすみますからね。だから、そこは甘いと言われても仕方ないけれど、それでも、やはりそういう風に描かずにはいられない。そこにローチの眼差しを感じるんです。
上映館が東京では新宿と有楽町だけで少ないせいか、ほぼ満員でした。なんでこんなに上映館が少ないの?これも日本の現実かしら。
現実を描き切る
息子は流石に甘えすぎなんだよね。気持ちは解るけど、両親だって、超シンドイ状況で頑張ってんだから、困らせんなよ。
そら親父、殴るよね。母親が「子供に手を上げないで!」って過去のトラウマから言うんだけど、それで甘やかして事態を悪化させてるところあると思うよ。
でもこの家族、コミュニケーションを止めないんだよね。息子もしれっと親父の近くに居て、口論続けたり。そこが、崩壊しないギリギリのポイントだと思ったね。
親父の会社の仕組みはおかしいの。雇用する側に圧倒的優位な条件で契約結ばれてるから。それでも、親父は、その仕事をやるしかない。
じゃあ、この家族はどうすればいいのさ。社会を変えればいいの? というと、そう簡単な話でもない。
創る側がテーマを叫べばなんとかなるという社会状況でもなく、現実を細部まで描き切って、観客にぶつけるしかないだろうな。そんな映画だよ。
ほぼすべての映像が、横からの光で、表情に陰影がついてきれいだよ。
素晴らしい
現代の抱えている問題が超リアルに表されてて…
運送業の問題、介護士の問題、親子間の問題、経済の…
あげたらキリがない
反抗期の息子って、親に怒鳴られててもケータイ弄ってるのとか、母親は息子に甘く、父親は娘に甘く…(笑)
それぞれ表現下手なだけで、本当は嫌いなんかじゃない
最後、息子が必死に父親を引き止める
でも父ちゃんイジ張っちゃって……
だから父ちゃん何がしたいんだよ〜って思われるかもしれないけど、目標決めたらすぐには止められないんだよな男は
でもさ、そんな不器用で鈍臭いとこも自分は嫌いじゃないです
そんなとこを上手く描けてる映画だと思いました
安倍晋三にこの映画を無理矢理見せる方法はないものか
英国の巨匠ケン・ローチ監督渾身の一本なのに、単館系で細々としか公開されていないのは一体どういうことなのか。
当然ながら英国を舞台とした映画だが、ここで描かれていることと全く同じことが日本でも起こっている。というか日本の方がずっと酷いのではないか。
個人に大きな借金を負わせて事業を始めさせ、借金とフランチャイズ契約で逃げられなくして事実上の従業員とし、しかし個人事業主であるから労働基準法の保護は無いという、コンビニなどでお馴染みの手法だ。確かに成功すれば本部と加盟店で大きな利益を分け合えるが、そんなに儲かるなら参入が増えて過当競争になるし、今やコンビニのオーナーなんて青色吐息だ。
にもかかわわらず、安倍晋三はフリーランス化を促進する政策を進めるそうだ。狂っている。
安倍晋三は2012年の冬に我々支持者に対して約束したことは何一つ実行せず、我々に約束したこととは真逆の政策ばかりを狂気のように推進してきた。
簒奪者にこの映画を無理矢理見せる方法はないものだろうか。
宅配してくれるひといつもありがとう。介護士さんたちありがとう。 同...
宅配してくれるひといつもありがとう。介護士さんたちありがとう。
同監督初鑑賞。
引退をとりやめて撮るなんてどんな映画なんだろうと思ったけど、シンプルだったし、今このときに観るべき作品だった。
あの終わりかたでよかった。客観的に観ているつもりが、自分の共通点を考えながら見入ってた。
言葉ひとつひとつにメッセージ性あるし、じゃあどうしたらこの世がよくなるのかもわからない。でもこのわからないなあというモヤモヤの気持ちを大切に自分の目の前のことを頑張るしかない。
特に印象的なのは「スマホがあの子の命なのよ」っていうところ。こんな世界になっちゃったんだなー。と思ってたけどそのブーメランは自分に刺さってる。
この家族の行く末
父親の目線はどこにあるのか?
希望か?絶望か?
戻るも地獄、進むも地獄
何も見出だせない、何も解決しない
結論の出ないラストシーン
もがき苦しむ姿は今の社会の生き写し
さりとて生きなきゃいけない、ほんのささやかな幸せを掴むために
誰かが誰かを想うとき
「家族を想うとき」
もちろん邦画タイトルですけどすごくいいタイトルだなぁと思います。
寂しくてもいい子にしようとする妹。
寂しさから父親に牙をむく兄。
借金を抱え働きづめの両親。
もはやパンク寸前の家族。
妹がとても純粋で家族想いです。
兄だって本当は誰かを想って涙を流せます。
母が父に非行に走る息子の問題を一緒に乗り越えましょうと言います。
この家族なら今の窮地もきっと乗り越えられるはず。
そう思っていました。
ラストシーンまでは。
父の覚悟に震えます。
そしてそれこそがリアルなんだと思います。
どうかこの家族がまた4人で食卓を囲めますように。
そう願わずにはいられません。
考えろ。
ケン・ローチは怒っている。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」を撮る前も引退を宣言していた。そして「ダニエル・ブレイク」がパルムドールを獲得した後も引退を宣言していたケン・ローチが戻ってきた理由は、この行きすぎた自由主義社会への怒りなのだろう。
ギグ・エコノミーの問題が日本でも表面化しているからか、この映画は上映規模の割に多くの媒体に取り上げられた。「この映画を観れば、その過酷さが分かる」とでもいうように。
「脱社畜」だの「会社に囚われない生き方」だのが流行り始めて何年経っただろうか。その面においては、恐らく日本とイギリスでは少し違うところもあるが、搾取の形態は同様だろう。
借金を抱えて、世界金融危機の煽りから仕事も長続きせず、それでもマイホームを夢見るリッキー。生活保護は「プライドが許さない」まずこのあたりから自己責任の病理を感じる。
個人事業主。フランチャイズ。言い得て妙だ。稼げそうに見えて、実際には全く裁量のない働き方を強いられる。間違いなく関係上は雇用なのに、「ルール」で縛るだけ縛り、罰金を取り、福利厚生は与えない。日本のコンビニで起こっている問題と全く同じだ。
共働きの妻アビーも介護士で、過酷な仕事を強いられる。そして子どもたちの問題。反抗する息子。労働で削られる家族の時間。
それでも中盤までは、荷物を受け取る客との軽口や、親子で働く微笑ましいシーンや、家族がひとつになったな、と思えるシーンがあるのだ。だからこそ余計に、ラストに向けて畳みかけてくるような悲劇に目を背けたくなってしまう。
ケン・ローチは容赦ない。この物語には最後まで救いがない。家族の為に働くのに家族が離れていく。休むと制裁金を取られる。心身が壊れる。
そしてある事件後、家族は元に戻ったかのように見える。しかし何も事態は変わらない。解決しない問題があの家族に降りかかり続けるのだ。
冷徹なまでの映画の眼差しが、「じゃあこれからどうする?」を突き付ける。
「稼げないのは自己責任」というひとがいる。それを口にするのは大概稼げているひとだ。そしてそれを批判しながらも、実は多くの人びとが「稼げないのは、苦しいのは、自分のせいだ」と思ってしまっている。
消費が便利になればなるほど、後ろで働く存在が重くなる。分かっていても来た道を中々戻れない。「人でなし」に見える本社も、実は怯えている。この競争社会に潰されるのを。
何をどうすれば皆が「生きているだけでそれなりに幸福」になれるのだろうか。それなりでいい。それなりでいいのに、社会は分断し、格差が広がり、声の大きい人が自己責任論を叫ぶ。
どうしたらいいのか考えろ、そして声をげろ、とケン・ローチは主張している気がしてならない。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」と同様、比喩も隠し味も外連味もなく、ただただ愚直に真っ直ぐな映画だ。愚直さが、こんなにも悲しく刺さる作品はない。
重い、重い、この上なく重い
重い、重い、この上なく重い。
ドキュメンタリーならわかるが、これは創作だ。でも、どんなドキュメンタリーよりも現実を描き出しているのではないか?
映画がどんなに辛い状況になろうと、あらすじで読んだ「ある事件に巻き込まれる」ところから流れは変わるのだろうと、今思えば甘く考えていた。
この映画は、現実そのものだ。観客が期待することは何も起きないが、それでも俺として、みんなに観てほしい映画であることは、間違いない。薦めることは、かなり勇気がいるのだけれど…
全126件中、81~100件目を表示