「☆☆☆☆ 観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」...」家族を想うとき 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
☆☆☆☆ 観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」...
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観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」とは思うのだけれど…。
英語にはからっきしなので、ハッキリとは言えないのだが。(おそらく)原題は、主人公の父親が配達員だけあって《不在通知》で良いのでしょうね。
一見すると、なんの捻りもなさそうに思う。この《不在通知》とゆうキーワードが、後半に向かうに連れてジワジワと観客の心の奥に響いて来る凄い題名だと思った。
「家を買いたい」
「少しでも子供達と一緒に良い暮らしがしたい」
そんなささやかな願いを込めて、父親が始めた配達員のフランチャイズ事業。
だが現実には、頑張れば頑張るほどにアリ地獄の様に陥ってしまう悪循環の数々。
だからこそ父親は更に身を粉にして働き、母親もそれを最大限にサポートする。
だが…。
(個人的な考えとして)この《不在通知》の意味。
この家族間の中では。1人1人の心の底に《不在通知》が届き始め、父親が頑張れば頑張るほどに。その《不在通知》は数を増し、その家族間の空虚さすら深みに嵌って行ってしまっていたのだ。
それと、これも《不在通知》の持つ意味がもう1つあるとするならば。監督ケン・ローチの考えとして【弱者に対する社会の切り捨て】との考えがあるのではないだろうか?…とゆう事。
母親は介護人として多くの人に寄り添う仕事に就いている。
「もう少しだけ1人1人に対して親身になってあげたい!」のはやまやまなのだけども、より多くの人の介護をしなければ、家庭の足しにはならないし。〝 何よりも1人1人に対して親身になってはならない 〟とのルールが課せられていた。
現実に於いて、社会は弱者に決して寄り添っては居ないのが事実とゆう矛盾!
そんなルールは父親に対しても容赦はしない。
数々の縛りが彼を苦しめ。その結果として、家族の間には《不在通知》のやり取りがドンドンと増えて行く。
作品の中で。母親は介護の仕事をしている為に、何人かの障害を抱えた人が登場する。
(流石に、脚に障害を抱えた犬が登場する場面はやり過ぎな気もするけれど…)
それらの人には、支えになる人が居ないと日々の生活にも支障をきたす。
ひょっとしたら?それをケン・ローチは。終盤での病院の場面で、母親の放つ言葉で声を大にして訴えたかったのではないか?…と。
社会にとっては、〝 単に生活に困っている1人が苦しんでいるだけ 〟にしか過ぎないのかも知れないのだが。その人が倒れたなら、その人が支えていた人は当然の様に倒れる。もしもその人が、下から多くの人を支えていたとしたならば…更に多くの人が倒れてしまう。
ただ単に1人の人が倒れただけ…では事は済まされない結果になるのだ!
その様に。映画はラストに掛けて、社会の矛盾を投げ掛けて終わる。
あくまでも個人的な意見なのですが。最近ダルデンヌ兄弟作品を見直す機会がありました。
ダルデンヌ兄弟は、作品の対象となる人物に対して、これ以上の【絶望の淵に立つている状況】は無い場面から。〝 ほんの僅かな希望の光 〟を観客に仄めかして映画を終える。
それにより観客には《感動》とゆうプレゼントが与えられる。
それに対して(決して比べるモノでも無いのだが)ケン・ローチは、前作の『わたしは、ダニエル・プレイク』の時と同様に。この作品のラストには〝 希望 〟の欠片も見受けられない。
寧ろ、彼は骨折しているかも知れない手の痛みや。目が見えにくい事からしても、この後には最悪な結果になる可能性しか感じられない。
しかし、映画はそれを見せずに終わる。「その辺りは観客に委ねるラストだから!」とゆう意味なのは理解出来る。
…出来るのだけれど、観客に〝 希望 〟を匂わせるダルデンヌ兄弟に対し、「これ以上の事は知らないよ!」…と言っている様に感じてしまい。(あくまでも個人的な意見です)ケン・ローチに対して、ダルデンヌ兄弟程の信頼性をどうしても持てないのが正直なところ。
…とは言え! あの病院での母親の叫びに、思わず泣かされてしまったのも事実。
映画のラスト直前、彼は《不在通知》を使って家族にメッセージを残す。
その一言こそ、家族の間にあった【不在の心】を表していた溝を、埋めるに相応しい美しさに溢れていた。
年末に、年間ベストクラスの作品が公開されたと言わざるを得ないのは間違いないでしょうね。
2019年12月21日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1