「必見。人は言葉や記憶により、真実を構築していく存在。」ダブル・サスペクツ 銘菓ひよこ堂さんの映画レビュー(感想・評価)
必見。人は言葉や記憶により、真実を構築していく存在。
必見。ストーリーは他レビューを参照。これは気にいられにくく、褒められにくい映画だ。なぜなら、これまでの既知のストーリーの楽しみ方では本質が見えてこない作品だからだ。
そんなわけで、プロットからはこの作品を魅力的に説明しがたいが、しかし映画を「見る」ことに徹してきたまなざしには、この作品は、片時もスクリーンから目が離せない。だから、これまで映画を「見て」きたあなたには特にお勧めしたい。
後半、突如、重要人物となるクロード(レア・セドゥ)、マリー(サラ・フォレスティエ)の2人は、しかし何回泣いただろう。保身、不安、恐怖、同情の誘発、現在の我が身のみじめさ……。2人のあの涙の意味の多様さ。実際、人が涙を流すときには,およそこのように複数の意味があることが多いはずだ。泣いている本人すら、それら感情の総てを整理できているわけではない状態。だからこそ人は感情がせきあふれ、あとからあとから沸き上がる涙にまかせ泣いてしまうのだ。
以降、この論考では、この作品の魅力の一部を明らかにするため、映画の後半のみに言及する。しかしだからといって前半に特筆すべきものがないという意味ではない。
通常、劇作で珍重される涙とは、相反する2つの感情が同時に生きられる瞬間である。例えば、生き別れになっていたあの人と再会し、嬉しくて仕方ない時に歓喜に叫びながら流す涙。例えば、人生で一番落ち込んでいる時に、もれ聞こえた親友二人のマヌケな会話に笑ってしまって、なんだか知らない涙があふれてくる時。そんなシーンを演出するため、演出家は、涙を演出する場面に登場人物の2つの感情を探し求める。
しかし、である。現実に人が涙を流すとき、しかもそれが警察に自分の行動を疑われたような局面では、自分がなぜ泣いているかも判らない状況におかれるようなことは誰しも想像がつくだろう。レア・セドゥ、サラ・フォレスティエが流す涙は、そんな涙だ。
デプレシャンの演技者に対する信頼と、演出に対する自信が生み出したいつくものそんな名場面。プロの役者、本気で役者を目指す人には、とにもかくにも『ルーベ、嘆きの光』は見ることをお勧めしたい。本当にそんな人物が存在するかのような圧倒的なリアリティで、群像劇のひとりひとりが存在する。
が、しかし、『ルーベ、嘆きの光』は、それだけの映画かというとそうではない。
端的に言うと、この作品が語ることは、「真実」などどこにも存在しないということなのだ。
ところで、われわれの既知のプロットにこんなのがある。「人物や立場により、真実は無数にある」というもの。昔もいまも繰り返しつくられる物語だ。
だが、この作品のように、「真実などどこにも存在しない」というプロットは相当に珍しいのではないか。少なくとも私は他で見たことがない。
デプレシャンの旧作『キングス&クイーン』では、前半、感じの良かったノラ(エマニュエル・ドゥヴォス)が、後半、総てを自分の思い通りに人生を運ぼうとすることを理解したり、前半、頭がイカれていると思われたイスマエル(マチュー・アマルリック)が、後半、彼なりの愛情や絆を大切にする憎めない男であることを知ることになるだろう。また、ノラが訴える「最初の夫の自殺」の真実が明かされる。ノラの父も意外な関わり方をしただろう。この時のデプレシャンは、言われたことと「真実」の間のズレを見せ、世の中は、いくつもの「真実」が隠蔽されたまま進んでいくことを表現した。
【ここからややネタバレ】
『ルーベ、嘆きの光』では、「真実」が別の「真実」につくりかえられていく様を見ることができる。事情聴取で見えていた、クロードとマリーの証言の食い違いは、クロードに圧倒的に不利な状況を生み出した。しかし、現場での実況見分で、クロードの強さ、美しさ、まなざしにより、ある意味で精神的に支配されていくマリーがする証言は、クロードの誘導通りになっていく。クロードの言葉と態度により、マリーの記憶の中の「真実」がどんどん造り替えられていく。
ああ、なるほどと思った。人は言葉や記憶により、真実を構築していく存在なのだ。真実は立場の違いにより、いくつかあるという簡単なものではなく、人と人のコミュニケーションにより、別の真実へと上書きされていくものなのだ。
そのスリリングな劇作は「見れ」ばわかる。しかし台詞だけを追っている者は、この映画のいちばんのスリリングな見せ場を見逃すことになるだろう。
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本作品は、Red Monstro 6K というカメラ、 Primo 70 Panavision Opticalsというレンズで撮られたデジタルシネマだ。しかし冒頭タイトルから、フィルムのパーフォレーション送りのカタカタズレがデジタル処理で加えられている。フィルムへの郷愁ということだけではないだろう。
何かデジタルでは得られない、世界への誘いの力をフィルムの特性に求めた結果だと思う。