その手に触れるまでのレビュー・感想・評価
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若さゆえに、変われる。まだ。
タルデンヌ、作りますね、映画を。しかも少年少女で。「少年と自転車」とある種対称的な静かな強烈さ。邦題としては、本当に珍しくww、悪くない題。その手を拒んでから、その手に触れるまでを描いた作品。
宗教に関しては、自分が宗教人というのもあるけど、程度問題は別にして当たり前のことなので、そんなに語る話として描いていない。今更、宗教が原理主義がどうこうなどタルデンヌ兄弟が描くわけがない。ww
父親を亡くして、自立心が芽生えた13歳。これこそ「ある子供」な訳だが、本当に子供ですからね、自分で考えて切り抜けるのを見てると、子供では無いように思えてしまうが。
そして、愛情も親切も恋愛も家族も、帰属と承認の大問題には優位性がない。ベルギーで生きるムスリム(と思い込んでいる)とすれば特別なようだが、愚れなければ生きていけない(と思い込んでいる)少年の話でもある。まだ子供なのだ。
そして、律法という双務契約に若きアメッドはハマって、堕ちて落ちる結果に。顔を見た途端に泣き崩れて去って行った先生が、自宅の扉から表れた時、彼は何を思い、感じただろうか。
まだ子供なのである。自分が、自分は、と生きてはみたものの。(信仰において無欠であるという)優位性に依存していた彼が、それまで「罪」としていたその手、今は「助け手」となったその手に自ら触れるまで。つまり、罪は外側でなく、自らの内側にある罪性なのだとパッと感じる賢さ。
まぁそれも信仰あっての、あの取り組みあってこそ。沼に落ちて結局助けるロゼッタとは逆だけど、こちらも心に残る本質的なシフト。若いやっておきたい。な。
監督賞、貰ってないから狙った?っていうくらいジャストな感じ。w短いし、脚本、俳優って感じでもないし。しかしまぁ、代表作がまた一つ増えて、次回作待てません!
その瞬間、人は「ママ(お母さん)」と言う
アメッドは、ルイーズとのキスのトラブルの後、なぜ危険を冒してまで、再び、イネス先生を殺しに行ったのか。考えられる答えは二つある。
一つ目は、キスのトラブルによって異教徒の邪悪性を改めて認識し、「そうした異教徒に歩み寄るイネス先生を即座にも殺さねば」と意を新たにした、という理由だ。
でも、アメッドの発想にしては、ちょっと複雑ではないか。それに、この考えには、「世界を良くするため」といった視野の広さが感じられる。殉教した従兄のカッコよさゆえに憧れ、同じ生き方を願うアメッドには、そうした発想は似つかわしくない。
二つ目は、キスという罪により地獄に落ちるかもしれない自分の運命を変えるには、「殺すしかない」と考えた、という理由だ。あくまで自己中心的な発想。この発想なら、あり得る。
ただ、もしそうなら、屋根から落ちた後、アメッドは何を思うのだろう。
アッラーの存在、天国と地獄の存在を、見てきたかのようにリアルに感じているアメッドなら、自分の運命をキスという罪への罰ととらえるのが普通ではないだろうか。「未婚者が、異教徒とキスなんかしたから、こんな目にあったんだ」と。逆境は信仰を強くする。そして、イネス先生を刺す、ようにも思われる。
しかし、その推論には屋根から落ちる前までのアメッドのままなら、という前提がある。つまり、地面に横たわったアメッドは、それまでのアメッドとは違うアメッドになっていた、という事なのだろう。変えたのは、肉体の苦痛、死への恐怖に違いない。彼は、フェンスをたたいて助けを求めた。神ではなく、生きている人間にリアルな救いを求めたのだ。だから「アッラー、アクバル」とは言わずに、「ママ」と思わずつぶやいた。
それは、「大日本帝国万歳」「天皇陛下万歳」ではなく「おかあさーん」と叫んだという特攻隊員の話(毎日新聞の保坂正康さんへのインタビューにあります)にオーバーラップする。ダルデンヌ監督は知っていたのかもしれない。
イスラムの導師、そして日本の戦争指導者たち。時代が変わっても、人の愚かさは変わっていない。ヨーロッパの苦悩に、人の悲しい普遍を見た気がした。
イスラムを使ったホラー?
高い評価が多いようですが、どうも納得できません。
ホラー映画として見れば確かに怖さはハンパでないのだけど。
イスラム教ってこんなに怖いんですよ!という偏見に満ちたものに感じてしまいました。主人公は突然狂信的な道者に感化されてしまったようですが、その理由が浅すぎます。父親が出て行ってしまった話は出てきますが、それだけ?それでさんざん世話になった先生を殺す?
捕まったあとも、けっこうな期間少年院?矯正施設?ですごし、淡い恋までしますが、全く心が解けていかず、入念に殺人計画を練り続ける。恋をし汚れてしまったことで余計に背教者を殺す動機が強まったということもあるかもしれませんが、作者はよっぽどイスラムが嫌いなのでしょうね。
シャルリ・エブドが風刺画をしつこく掲載していましたが、同じようなメンタリティなのでしょうか?
異教をバカにするキリスト教徒のいやなところを見せつけられた気がします。
もしかしたら解釈が全く間違っているかもしれないので、失礼がありましたらお詫びしておきます。
幼さゆえの・・・
映画で描かれるような話は西欧諸国では実際に珍しくないものなのだろう。日本でも対岸の火事ではなく、地下鉄サリン事件を引き起こしたカルト教団の信者の多くは、現代社会に疑問を抱いた普通の若者であった。ドラマの観点からは、主人公の年齢設定がもう少し高ければ脱洗脳の過程の描き方においてももっと起伏のある話にも出来たであろうが、主人公の少年はあまりに幼く、さしたる内面の深化も描かれないまま、悲劇的な結末に至る。監督は、そのような若年層まで社会的疎外の問題が浸透していることを描くことで深刻な現実を強調したかったのかもしれないが、ドラマの単調さから星3つとした。
イスラム教もキリスト教もユダヤ教も元は同じ
呆気ないエンディングでしたが、ちょっと短めなので気軽に見れる。この邦題の意味も最後の最後でわかる仕掛けになっていて、途中まではタイトルすら忘れてしまってたほど。
背教者は殺せ!という、イスラム教の過激思想の部類。とにかく聖戦・ジハードを個人的にやってのけようという少年アメッド。音楽によって楽しくアラビア語を学びましょう♪という放課後クラスのイネス先生の教えに腹を立てただけ。女性と握手さえしない潔癖症も極端すぎるのだ。妄信もひょっとしたらモンスターを殺すというTVゲームの影響ですんなり入っていけたのかもしれません。
テロを起こすまでのイスラム原理主義の過程も伝わってくるし、大人よりも子供の方が純粋すぎるために起こしやすいのだろう。少年院内でもやたらとお祈りにこだわる様子や、ルイーズとの淡い想いもあるのに、キスしたがために改宗させようと思い立つアメッド。唇に触れても全く信心深さには変化がないところが滑稽でもあった。
出所しても狂信的な性格は変わらず、まだイネス先生を襲おうとするアメッド。最初も刃渡りの短いナイフだったし、今回もまた小さな鉄杭。いい加減にやめときなよと思うが、そこでハプニングが起こり、イネス先生も驚いてしまう・・・
ようやく人の痛みを知ることができたのだろうか、聖戦にしたって人を殺すんだから、この時点で悟ったのか。などと、全てを読み解くわけにはいかないが、「人は助け合うべき」という意味がわかったに違いない・・・
イスラム教徒を哀れに思います。
雑に感じました。宗教に狂うというより、元から狂っていたように思います。
ご存知の通り、イスラム教を信じる人々は非常に親切で平和を愛する人です。しかし、あまりに古典的な宗教システムのせいで悪意ある誘導を受ける人が非常にごく少数いるのも事実です。
この映画はその辺の微妙なところを全部吹っ飛ばしているように感じました。つまり、この少年のイカれ具合があまりに強烈なために、ただのサイコスリラーまたはバカすぎる犯罪者を描くコメディのようです。唐突に可愛い女の子に惚れられる展開も謎でした。また、彼の語る信仰のなんと支離滅裂で傲慢なこと!真の意味でイスラム教を冒涜していると感じました。
この少年と、他の信仰と社会性を両立させている大多数のイスラム教徒が間違っても同一視されないことを祈ります。
まあそれはイデオロギーの話で、映画としては普通に全然面白くなかったです。
演技は皆さんとても楽しめました。
純粋さの果てに待つもの
自分とは遺伝子レベルでシンクロしているとしか思えないダルデンヌ兄弟の最新作。相変わらず自分の魂にフィットしすぎる名作でした。
13歳のゲーム好きイスラム系移民少年のアメッドはイスラム原理主義者の近所のオッさんに感化されて、超過激派イスラームになりました。アメッドの先生は進歩派のイスラム教徒。オッさんに「お前の先生は標的だ」とけしかけられて、先生暗殺を敢行!しかし流石に失敗し、少年院送りとなり…というストーリー。
もうね、開始15分くらいで先生刺殺未遂事件が起きるあたりがダルデンズ。『ある子供』でブリュノが自分の子を売っ払って恋人のソニアにドヤ顔で報告したのがそれくらい。ダルデンズの場合、ビックリ事件から物語がスタートします。
本作を観て思ったことは、モロに思春期の話だな、と。ダルデンズ版中二病物語。
思春期は、生まれて初めて世界と自分を意識し、『自分とは何か』『意味とは何か』を考える時代だと思います。子ども時代までは考えなくても生きてこれたのですが、近代的自我を持つ大人になるには考えざるを得ない。ある意味、考えることが大人への第一歩です。
しかし、考えたって答えは出ない。その人が考えて、感じて、体験を重ねてその人なりの答えが少しずつ実感されていくのだと思います。
また、答えはリアルで地に足がついたものである可能性が高いです。永遠に空を飛ぶ少年から、地を歩く大人になるのです。つまり、理想と自分なりに折り合いをつけることが大事だったりします。
しかし、この折り合いはリアルであってもピュアではない。折り合いをつけた大人は、『複雑な世界を生きる人間』なのですが、ピュアな子ども時代からそれを見ると『汚れた大人』なのかもしれません。
(折り合いをつけてさらにピュアを獲得する人もおり、その手の人は芸術家になることが多そうです。ジョン・レノンとか)
アメッドはピュアなんですよ。大人を拒絶する13歳。これを日本では中二病と呼びます。
中二病も無症状に近いものから軽症〜重症とグラデーションがあります。正直、軽いヤツは「痛い!黒歴史!」で済むけど、重症は死にますし殺しますからね。古くは荒井由美の『ひこうき雲』、相米慎二の『台風クラブ』などが死に至る中二病の代表でしょう。アメッドは他殺型の中二病です。重症ケース!
ではなぜアメッドは重症中二病に罹患したのか?それは、移民・家庭内に割と大き目の傷つきがある・従兄弟がテロリスト(?)で死んでいる等の基礎疾患があったから、かもしれませんが、よくわかりません。
ひとつ言えることは、極端なピュアさは原理主義と相性バッチリだということです。近くに原理主義者のオッさんがいたから感化されたんでしょね、しかし、アメッド運が悪いね!とは言えない。ネットを開いたガチ中2が、好きな絵師さんがレイシストで、それに感化されてネトウヨに…みたいなケースなんてゴマンとありそう。本質的にはとても身近な内容だと思います。つまり、重度中二病になる危険性は現代社会のどこにでも潜んでいるのだと感じました。他のダルデンズ作品と同じく、本作もいつも通り普遍的なテーマです。
で、ピュアの果てにはなにが待っているのか。ひとつは爆死、ひとつは生々しいリアルに敗れ去ること。
アメッドは細かなリアルを体験していきます。少年院のプログラムである農場での作業等が、ジャブのように細かく入っているように思えたのです。一見効いてないけどたぶん効いている。そして、リビドーとフィジカルの痛みでフィニッシュ。
我々は生々しい肉体を持つ存在です。メシを食えばクソをするし、ムラつけばセクロスしたりオナニーする。このいわば汚らわしい活動からは逃れられない。生々しさを受け入れること、これが大人を生きるスタートなのではないかと思います。
そして、大人の世界には他者が存在します。生々しさに打ちのめされて、心身ともに痛みを抱えたとき、ついに自分と向かい合い、他者の存在に気づくのかもしれません。
その他も観応えあるポイントあり。まず、基本的に大人たちが大人(笑)。みんなアメッドの変化を待つことができています。待てる。これは不安を抱えて堪えなければできない態度です。ダルデンズ作品にはこの『抱え堪え』がたくさん出てきます。それがまた最高なのよ!本作も先生・母親・少年院の皆さん等、多くの大人が抱え堪えて待っておりました。見守る。この言葉もピタっとくるかも。とても難しいことだと思います、行動しないで待つことって。
その逆も然りで、大人のクソズルさも描かれています。ダルデンズに出てくる大人のクソさは、すべて見苦しい保身です。アメッドを洗脳したオッさんは、アメッドがパクられる前に「俺はお前を煽ってないからな、わかったな」とあまりにもダサい保身をカマしてました。この辺の卑小さがリアルなんですよね〜。負のリアルも描くから、希望がリアルなんですよ。ほんとシビれるなぁ。
あと、イスラーム移民の人たちのグラデーションもリアルだった。先生がフランス語学習のために歌を教材にしたい、という説明会を開いたのですが、意見がかなり多様です。「そんなのダメだ」という強硬意見から、どんどん取り入れよう的なリベラル意見も。それらの意見も細かく見るとそれぞれの考えに立脚しているので十人十色です。理屈ではわかっているものの、実際に観るともう一段深いところで腑に落ちるのです。これがまたダルデンズ・リアリズムなんだよなぁ、最高!
×背教者を殺して天国へ行く 〇変態の国で(宗教的に)ダラシナク暮らす
現代日本でダラシナク育った俺的価値観では、間違いなくそうなります。現代日本の社会通念上、許容されるエロさを、愛すべき「変態の国」ベルギーで愉しむ方が、原理主義に縛られて生きるより1万倍は魅力的なのに。何故に若者が狂信的な宗教に走るのかと言う問題はさておいて。
「宗教はみな正しい」はガンジーの言葉。うんうん、住んでる世界がナニモノかで隔てられている限りは、正しいって言えると思う。一つの社会、一つの町、一つの建物の中で、そんな事言う余裕ってあるんか?少なくとも、原理主義の頑なな主張は、多様化し近代化した社会にはそぐわない。
「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一さんが、筑波大学の校舎内で「イスラム式の殺し方」で刺殺された事件は1991年の7月。ムハンマドの生涯を題材にした小説の作者である、サルマン・ラシュディ氏・全ての翻訳者や出版者に対し、イランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーが死刑を宣告する「ファトワー」を発令していたため世界は戦慄。「本当に実行したのか?」。その後、トルコでは30名以上が殺害される事件も発生。ラシュディ氏本人はイギリス警察の厳重な警護を受け、その後アメリカに移住。今もご存命。
当時CIAが犯行を疑がったのは、イランの「イスラム革命防衛隊」(例のソメイマニーが司令官だった部隊)の中で対外工作・テロ活動などを行う特殊部隊「ゴドス軍」でしたが、筑波での犯行はバングラデシュからの留学生と見られています。つまりは「個人」。
預言者の「ファトワー」に従い、当時筑波大学に留学していたムスリムが犯行に及んだ(個人の見解です)。イスラム原理主義者でもなく、過激な革命思想を持つでもない、普通の留学生だったそうです。イスラム教の教義・戒律に従順に従えば、殺人も正当化されると言う恐怖を、この日本で目の当たりにした衝撃は、今も忘れられません。
映画の中で、アメッドが心酔していったのは原理主義で、イスラム教の中でも古典的であり戒律も厳しく、ストイックさが求められています(本来)。コーランで言語を覚えて来た人々に対して、近代化した社会の中で生活するため、歌でコーランを教える事を主張する女性教師は、背教者であり排除しなければならない。導師の思想は、預言者のファトワー(布告)に等しく。何ら躊躇することなく、殺害に及ぼうとするアメッド。
※※ちょっと脱線。日本のポケモンはドバイで「禁忌のファトワー」が出されています。これ、ファトワーを出した者自身が解除するまで有効なので、ドバイへ旅行した時は「ポケモン禁止」ですw 狂信者に刺殺されてもドバイでは犯罪になりません。いや、大問題にはなると思うけど、犯人は釈放されます。脱線終了※※
犯行には失敗し逮捕。少年院に収監されるも、ファトワー実行の意思には変わりがなく。歯ブラシを研ぎ、鋭利なピックに加工する様には、狂気しか感じない。彼は少年院を脱走し、女教師殺害を実行しようとするが失敗。最終的に彼は、ファトワーの呪いを、おそらく自分自身の意思で解除してお終い。
カンヌ常連のジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルエンヌ兄弟は「変態の国ベルギー」(俺的には最高の褒め言葉ですw)の映画人。彼らが描きたかったのは「人はどうすれば狂信的な思想から逃れることができるのか」だったそうです。
濃密な84分の物語には3人の女性が登場します。「飲んだくれ」の母親も、欧州化したムスリムであるイネス先生も背教者。13歳のアメッドのファーストキスの相手となったルイーズは異教徒。この3人が、ラストの数分間でアメッドの上を通り過ぎます。
キスをしてしまったルイーズに「改宗」を求めるも拒絶されたアメッドは罪人となってしまう。自らの罪を少しでも取り返すためにイネス先生殺害に向かうアメッド。屋根から背中向けに地面に叩きつけられて生命の危機を感じたアメッドは「ママ」とつぶやいた後、凶器のつもりで手にしていた鉤を壁に打ち付けて音を出し、イネス先生に助けを求める。彼を抱き起そうとしたイネス先生を刺すことも可能だったが、すでに彼の中からはファトワー実行の意思は消えていた。
ダルエンヌ兄弟は、いくつかの可能性を示唆しますが、明確な答えを示さずにシャッターを下ろしました。ルイーズは「恋愛感情」の象徴。「ママ」は「無償の愛」。イネス先生は「赦し」。13歳のアメッドにディープキスしちゃうルイーズのエロさには、さすが変態の国!って思わされます。おれならこの時点で、ムスリム止めちゃおうかなぁ、ってなりそうだけどねw
カンヌ常連は伊達じゃないよなぁ、って思わされる、アンチ・エンターテイメント(硬派)な問題提起型の映画でした。その中でも、「変化と救い」のあるところが、ダルデンヌらしくて大好き。
良かった。とっても。
過激思想に傾いた少年の愚行を見せられて疲れる
これは、、外した。
終始イライラした。
思想に凝り固まった少年が
学校の教師を殺すことに執着してることに
ひたすらムカついた。
過激思想に傾倒する人の気持ちが
全く分からないわけではないです。
犯罪と一緒でそうなってしまった理由が
あるとは思うけど。
にしても未熟な子供とはいえ
バカっぷりにイライラ。
最後に執拗に先生を殺しに行こうとするも失敗し、
自分が2階から落ちて瀕死になるやママと泣き、
助けてくれた先生に許してって、
ムカつくわー
そりゃ、私には分からない宗教上のこととか、
文化のこととかあるんでしょうけど。
映画としてはがっかりでした。
それでも、側から見たらどんなにバカげていても、
本人にとってはいたって正しいというのは
こうゆうことかと、
これは私もやっているかもしれないと、
思えたことは収穫でした。
ひとが変わる瞬間を描き続けてきたダルデンヌ兄弟
ベルギーに暮らすムスリムの少年アメッド(イディル・ベン・アディ)。
13歳の彼は、ごく最近まではゲームに熱中する普通の少年だったが、兄とともに食料品店の二階にある小さなモスクに通ううち、イスラム原理主義に傾倒していった。
ひとつには従兄がジハードの名のもとに散ったことが大きいが、それだけが理由とも思われない。
彼の補習を担当する放課後教室の女性教師イネス(ミリエム・アケディウ)、彼女もムスリムであるが進歩的な考え方をしている。
ある日、ある事件がきっかけで、アメッドはイネスをナイフで切りつけるという行為に及んでしまう・・・
といったところからはじまる物語で、ダルデンヌ兄弟ではムスリムを描くのは初めてのこと。
社会的な事柄を題材にすることが多い監督であるが、彼らの弁によると、決して社会派監督ではない、という。
ケン・ローチとは方向性が異なる、と言っている(『サンドラの週末』上映の際のティーチインでの発言)。
個人的には、ダルデンヌ兄弟が描きたいところは、「ひとが変わる瞬間」であろう。
はじめて観た『ロゼッタ』が、まさにそんな作品だった。
「ひとが変わった瞬間」に映画は終わる。
この映画も『ロゼッタ』と同じで、アメッドが変わったところでスパッと終わる。
日本版タイトルどおりに、である(ちなみに原題は「LE JEUNE AHMED」、若いアメッド)。
アメッドがイスラム原理主義に傾倒していくのは、やはり、自身の立場を不幸と感じ、その理由をムスリムでありながら戒律を守らないことにある、と考えているからだろう。
考えている、と書いたが、思考停止とも言える。
父親がいないのは母親の飲酒(ほんの寝酒程度だが)や、姉たちの自由な行動・・・
いずれも戒律を守っていない・・・
思考停止によって短絡的な行動に出てしまう。
こう書くと、なんだかバカらしい話のように思えるが、同じような話は巷間にごまんとあり、身近ともいえる。
映画は、アメッドが少年院に入ってからの後半が実にスリリングでサスペンスフル。
女性教師イネスに対する憎悪が消えないアメッド。
アメッドとイネスとの面会のシーン。
課外教練の農作業をするあいだに手に入れた歯ブラシの先端を尖らせて・・・というシーンはゾクゾクするし、教練担当の教官の娘と農作業を行ううちに・・・というのも繊細に描かれていて、どうなるのかと興味深いです。
最終的には・・・
どうなるかは書かないが、個人的には、観ていて「あっ」と声が出ました。
そして、触れるその手の先にあるものは・・・
答えは見えず…
特定の宗教を信仰していない僕のような無宗教の者にとっては、この作品で描かれているマイナスな面は信仰する前に考え得る抵抗の一つであり、どこか鑑賞しながら「そうだよな」感を抱きながら終始鑑賞していた。
もちろん宗教には素晴らしい側面もあり、宗教によって救われる人や改心し幸せになってる人も沢山いるのも事実。その反面今作品で描かれているように、誤った信仰の仕方が家族を傷つけ、周囲の知人を傷つけ、芽生えかけていた恋が絶たれとどんどん幸せから遠ざかり孤独を進める結果となってしまう場合もあるという事だ。
冒頭でも書いた通り僕のような無宗教者にとっては、宗教を信仰する前において考えられるデメリットの様なものであって、特段驚くような事ではなかった。
しかし同時にこの作品を観ることで信仰することを否定的な気持ちになることもない。結局は自分、周囲含め正しい信仰の仕方、接し方と言う答えは自分の中ではやはり見えないままで終わった。
逆に特定の宗教を信仰する人において、この作品を鑑賞しどういう感想を抱くのか。そこが凄く気になったりもした。
産毛剃り
ジハード主義的な思想を持つ13歳の少年が、導師の言葉を受けて暴走し、恩人である女性教師を手に掛け様とする話。
以前はゲーム大好きな普通の子だったというが、序盤から既に信仰と思想は固まっており、そこまでの経緯は語られず進行する。
信仰心の欠片もない自分には、主人公の気持ちを理解出来るところはないけれど、その異常なまでの思想に、気持ち悪さと哀れみを感じつつ、興味深くもあって作中に引き込まれる。
そんな主人公の少しずつの変化から、ルイーズとの件とその反動という事情があったとはいえ、最後はあまりにも急で、説得力が感じられず少し残念。
とはいえ、あっという間の84分だった。
余談だけど、途中、ルイーズは仕込みか?と穿った考えが浮かんだ自分は映画の観過ぎ?
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