「人間の運命の底に到達した、まごうことなき傑作!」パラサイト 半地下の家族 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
人間の運命の底に到達した、まごうことなき傑作!
(完全ネタバレですので、必ず映画を鑑賞してから読んで下さい)
この映画は絶賛されていると思われますので、今更自分が感想を書くこともないのですが、一般的ないわゆる格差社会の貧困を描いたから評価されている、というのはこの映画を正確には評価出来ていないと感じましたので、自分なりの感想を書いておきます。
この映画『パラサイト 半地下の家族』が絶賛されている本質は、表現が
<人間の【運命】の底に到達している>
ところだと思われています。
この映画では、ラストに金持ちのパク家で殺人事件が起こるわけですが、よく見るとパク家の家族は殺されたり被害者にならなければならないような落ち度がある家族ではありませんでした。
パク家の妻のパク・ヨンギョ(チョ・ヨジョンさん)は少し抜けてはいても基本はいい人で、夫のIT社長のパク・ドンイク(イ・ソンギュンさん)はパラサイトしていた側のキム家の人々と壁を少し感じさせても殺されるまでの行為はしていません。
パク家の息子のパク・ダソン(チョン・ヒョンジュンさん)は地下の住人とどこかシンクロしていますし、娘のパク・ダヘ(チョン・ジソさん)に至ってはこの映画の主人公である貧乏家族の息子キム・ギウ(チェ・ウシクさん)を背負って瀕死の状態から最後に救い出そうとしている場面が描かれます。
いったいこの家族が殺人事件に直面し、いい人であった妻のパク・ヨンギョが最愛の夫を失う必然は本当にあったのでしょうか?‥
この疑問はパラサイトしていた側の貧乏家族であるキム家についても言えます。
貧乏家族のキム家の妹のキム・ギジョン(パク・ソダムさん)は、殺人事件が起こる直前にパク家の地下に取り残された元家政婦ムングァン(イ・ジョンウンさん)とその夫で地下の住人であるグンセ(パク・ミョンフンさん)に食事を持って行こうとしています。
つまりキム家の妹キム・ギジョンは、地下の住人に心を掛けている優しさを持っていました。
しかしこの殺人事件で地下の住人のグンセに殺されるのは、この地下の住人に最後食事を持って行こうと心を掛けていたキム家の妹のキム・ギジョンでした。
いったい彼女が殺される必然はあったのでしょうか?‥
おそらくこの映画のポン・ジュノ監督は、この場面を明確に意図してこのようにそれぞれ描いていると思われます。
ここで描かれたことは、
【良い行いをしたから救われ/悪い行いをしたから罰せられる、訳ではない!】
ということだと思われます。
つまりポン・ジュノ監督は、この場面で【救われるか救われないかは、単に偶然だよ】と表現していることになります。
そして、貧乏のキム家族も、金持ちのパク家族も、なぜそういう境遇に置かれていたかを考えれば、表層的には本人らの努力(あるいは努力不足)があったのかもしれませんが、突き詰めて考えていくと、それは結果として【偶然】の積み重ねがあったからそうなったとも言えます。
そして私たちは、その【偶然】の積み重なりを【運命】とも言い換えたりもしています。
貧乏家族のキム家の父であるキム・ギテク(ソン・ガンホさん)がなぜ最後に突発的とはいえ殺人の犯行に及んだのか?
もちろん”臭い”はトリガーであり、洪水とキム家の中への汚水の浸水は心の決壊を引き起こしたといえますが、本質は【運命】に対する暴発的な異議申し立てだと思われます。
(だからこそ、キム・ギテクはIT社長のパク・ドンイク個人への恨みが動機ではなく、殺害の後しばらく経ってから彼に謝罪の独白をしています。)
貧乏家族のキム家は、主人公の母であるキム・チョンスク(チャン・ヘジンさん)を含め、父のキム・ギテク、主人公の(息子)キム・ギウ、妹のキム・ギジョンの4人とも計画の頭が回り、【運命】に抗うためには何をやってもいいのだ、との前半のコミカルなたくましさが肯定的に描かれます。
それとの対比である最後の殺人現場は、【運命】に対する挫折をより一層際立たせ、私たち観客に、【運命】に抗う肯定感の後に、【運命】に翻弄されて挫折もしている現実の自分自身を思い起こさせて、深い感銘を受けることになったと思われます。
なぜこの映画は、(本来、表面的には悪人に見える)金持ち家族を良い人に描き、(本来、表面的には善人に見える)貧乏家族を計算高い人間に描いたのか‥
その理由は、問題をどちらの家族の個人に原因を還元するのではなく、【運命】に抗いながら翻弄されて挫折もしている人間の深さを描いたからだと思われます。
(※主人公の貧乏家族の息子キム・ギウは、妹とは違い、(おそらく)地下の住人を始末し決着しようと最後に岩を持ってパク家の地下室に向かいます。
しかし、地下の住人であるグンセに殺されたのは、彼らを始末しようとした主人公キム・ギウではなく、食事を持って行こうとしていた妹のキム・ギジョンの方でした。
このこともポン・ジュノ監督が偶然のあるいは皮肉に満ちた【運命】を描いているところと思われます。
主人公キム・ギウが、妹の死を知り殺人事件を知ることになって笑いが止まらなくなるのも、悲劇が喜劇に見える【運命】を表現していると思われます。
最後の、おそらくかなわない夢なんだろうなとも思わせる、主人公の未来への妄想をも含めて‥)
世界中でこの映画『パラサイト 半地下の家族』が絶賛されているのは、そんな私たちが甘受している(格差社会や時代をも含む)人間の【運命】の深い底にこの映画が到達しているからだと思われています。
(もちろん、その【運命】を地下と地上という<構造>としても画面に描いた素晴らしさもあるのですが‥)
表層の、個人が周りがどうにかしてないからこの問題が起こっているのだ、格差社会の貧困が描かれているから素晴らしいのだ、の分析は、この映画の本質を捉えていないと個人的には強く思われています。
そしてそんな善悪がきっぱり分かれていて、善の側に立つ主人公が善のまま、悪の側を倒すといった(個人的には底の浅いまやかしの)主張がまかり通り、そんな人間理解の浅すぎる(つまらない)作品が、勘違いの元で作られていることもまた事実です‥
そんな表層の喧騒から遥かに遠い地点に達し、この映画は、【運命】に抗い翻弄される私たちに、逆説的に勇気を与える作品になっていると思われています。
まごうことなき傑作だったと今も強く思われています。素晴らしい作品をありがとうございました。