「記憶が実体となり、それが生命力となっていく」ペイン・アンド・グローリー りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
記憶が実体となり、それが生命力となっていく
世界的名監督サルバドール・マヨ(アントニオ・バンデラス)。
4年前に最愛の母親を喪い、自身は全身に強い痛みがあって、創作意欲も衰えている。
そんな中、32年前に撮った映画『風味』がシネマテークで上映されることになり、上映後のティーチインを依頼される。
からだの痛みもあり、普段は引き受けないのだけれども、ふとした予感めいたことがあって引き受けることにした。
撮影時ひと悶着があって、それ以来絶縁状態だった主演俳優のアルベルト(アシエル・エチェアンディア)を訪問し、痛みを避けるためからか、アルベルトが吸引しているヘロインをサルバドールは吸う。
落ちていく意識の中でみたのは、幼い頃の自分と母(ペネロペ・クルス)の姿だった・・・
といったところからはじまる物語で、かなり自伝的要素が強い作品で、観終わってすぐの感想は「アルモドバルも枯淡の境地なのだなぁ」ということ。
アルモドバルといえば、強烈な色彩とある種の変態性、生々しいセクシャリティが特色だが、今回はかなり抑えられています。
部屋の色彩や衣装などには、明るさや派手さはあるものの、強烈というところまではいかない。
唯一、強烈な眩暈を覚えるような色彩とデザインは、神学校で聖歌隊に入ったが故に、他の教科を学習しなかった・・・が、映画監督として成功するに連れて様々なことを知り、特に身体的痛みについては種々様々であると紹介するシーンぐらいかしらん。
なので、アルモドバル監督らしくないのかというと、そうではなく、冒頭のプールの全身を沈めて椅子に腰かけているサルバドールの姿は、あたかも羊水に浮かぶ胎児のようであるし、この母親に抱かれる感覚というのは、幼少期に暮らした洞穴住宅も同じようなイメージ。
暗いながらも、一部、天井がなく、陽光が差し込んでくる至福のイメージ。
そういう実体のない、思いだけの中にある過去が、少しずつ、実体を伴って現在のサルバドールの前に現れてきます。
32年前に絶縁した主演俳優の次は、監督として出始めた時に同棲していた恋人の記憶が私小説的な戯曲として、そして、こともあろうか、件の恋人フェデリコ(レオナルド・スバラーリャ)が姿を現す・・・
若い頃のふたりがどのような風貌だったのかはうかがい知れないのですが、歳を経たふたりは非常によく似ており、鏡像といってもいいくらい。
面長の輪郭に、口ひげ、頬ひげ、顎ひげ、それも胡麻塩で、天然パーマらしいところも。
この再会が映画中盤の「記憶の実体化」ならば、クライマックスに現れる幼い頃の自分が描かれた絵は「記憶の実体化」から更に進んで「再生へのスイッチ」かもしれません。
漆喰を半ば塗りつけた段ボール紙に描かれた自身の姿、それは、初めてリビドーを感じた日のこと・・・
そして、ラストカットは、記憶が映画として実体化するのです。
自身の過去を描くと、どこかしら甘美になり、その余情に浸りきってしまうだけになったりもするのですが(この映画もその傾向がなくはない)、このラストカットには、そんな甘美さだけでない生命力も感じることができました。