あなたの名前を呼べたならのレビュー・感想・評価
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外から指摘されないと気づけないこと
インドならではのシンデレララブストーリーである一方で、恋が成就して「ハイ、めでたしめでたし」とはいかない現実を埋め込んだ、秀逸な脚本。
インドは人口世界第2位、国土面積世界第7位、公用語として用いられる言語は22種類。良くも悪くもコンパクトにまとまった日本とはスケール感が違う国だ。
「インド人、とひとくくりに出来ない多様さ」は「日本人、とひとくくりに出来ない多様さ」よりさらに複雑でしょうな。なんたってインド人同士で言葉が通じないこともあるのだから。
「あなたの名前を呼べたなら」に登場するメイドのラトナは農村部出身の寡婦。本編でもラトナの口から述べられる通り、田舎の方では夫と死別した女性の立場は低い。
インド女性のほとんどが身に付けているバングルの装着も許されない。里帰りのバスの中でバングルを外し、ムンバイへと向かうバスの中でバングルを嵌める。
ラトナの夫は病弱で、結婚してすぐ帰らぬ人となった。夫の家族は自分達の息子が死んでも稼ぎに繋がるから、早く結婚させたかったのだ。
寡婦となったラトナ自身は「口減らしのためにムンバイでメイドをしてる」と言っていたが、夫の家族にとって自分達の収入源を確保するため、始めからラトナは稼ぎ手として嫁がされているのである。
「じゃあ結婚しなければ良かったのに」と思うところなのだが、そうであっても娘を結婚させなければならないのもまた、村の風習のようなものだ。
いつまでも嫁がない娘、というのも世間体が悪く、年頃の男がいなければ自分より年上の男性に嫁ぐしかない。それはそれで死別のリスクは高く、結局村の女性の人生は似たようなものだ。
一方、そんなラトナのご主人様は、NYから家業を継ぐために帰国した次男坊。元々跡取りだった兄が死んでしまったが故の帰国で、多分彼は外国でのびのびと生きていく予定だったのだ。
外国に行くことで「我が家の常識・世間の非常識」みたいな衝撃を味わったに違いない。これはインドだけでなく、日本だってアメリカだってそうだろう。
ラトナとご主人様はインドの常識を越えた関係性を育み、お互いに見知らぬ世界を垣間見る。
昔、北朝鮮から脱出してきた人のコメントを読んだとき、「北朝鮮の暮らしは悲惨でしょう、と言われても、それが当たり前だったから(北朝鮮に)いたときは何とも思ってなかった」という意味の言葉に衝撃と妙な納得があった。
いろんな情報にアクセス出来る生活と、自分の世界しか知らない生活。
「知らないこと」には思いを馳せられない。
主人とメイドでなければ出逢わなかった二人。主人とメイドだからこそ一緒になれない二人。
ご主人様が「ラトナと結婚したい」と思えばそれで大丈夫、な気がしていたが、実際には「メイド上がり」と陰口を叩かれ、テーブルマナーの覚束なさを指摘されたり、と結局惨めな思いをし続ける未来。
それはラトナや周りの友達から指摘されなければ、ご主人同様、観ている私たちも思い至らない現実だ。
そんなラトナが「自立した女性」として夢見た職業に就き、さらに自分を閉じ込める世界から羽ばたく。その象徴が「名前を呼ぶこと」なのだ。
ムンバイでデザイナーになったラトナが、元ご主人様のアシュヴィンと結ばれるかどうかはわからない。でも、名前を呼びあう関係になったことこそが、ラトナにとっての「ハッピーエンド」だ。そんなささやかな幸せが胸に迫る良い映画だった。ラトナが「アシュヴィン」と呼び掛けるシーンで、涙腺が崩壊したのかと思うほど泣いちゃったよ。
ちなみに本国インドでは残念ながら未公開。インドという国の様々な問題が浮かび上がる「ラブストーリーの皮を被った超社会派映画」であることがうかがえる。
もっと衝撃的なのは、こんなに女性の人生が「自分ではどうにもならないこと」に支配されているインドより、日本の方がジェンダーギャップ指数で下位につけてることだ。
「当たり前だと思っているけど、外から見たらおかしいこと」を、娯楽性を損なわないストーリーに乗せて描いたら、日本が舞台でも作れる下地はあるんじゃないだろうか。
インド映画っぽくない
華美なインド映画とは違うテイストの映画。
と思ったら、フランスとの合作なのか。
特に何もなく過ぎていくが、普通の恋愛映画よりドキドキするシーンがあった。
主人公2人が離婚と婚約破棄に合っていたことを見逃していた。。そこちゃんと把握しながら見ていたらもっと面白く感じたと思う。
インドは奴隷制が未だに残っているらしいが、主人公を雇ったアメリカ人(?)は優しい人で良かった。
主人公のインド人女性はダリット(不可触民)って言っていた気がする。カースト最下層である。
ラストもスっと終わったが、タイトルが「あなたの名前を呼べたなら」だと思い出した瞬間に涙が出た。
単純な脱亜入欧話ではない
『19歳で夫を亡くしました。その後、人生はどうなるとおもいます?』
『・・・』
『それで人生は終わりです』
親父の親父、つまり、祖父の母親がラトナだった。だから、僕がその血筋の成れの果てと思うと、他人事ではない。
曾祖母のその後の人生を聞くと、艱難辛苦を乗り越えなければならない大変な人生であったようだ。120年以上前の話だが、日本の明治の中頃の話である。
今の発展途上国の映画の多くが、こう言った格差をアメリカが解決してくれると、語っているようだが、僕はそこが共感できない。この前の『ブルース・スプリングスティーン』かぶれの映画もそうだった。
しかし、この映画はハリウッド的大団円を避けて『邦題の意味する所』で留めている。それが洒落ているし、単純な脱亜入欧話ではない。インド、パキスタン系の音楽がふんだんに使われている事を評価する。
なお、ここでの格差は、元来からある『カースト制』による身分格差ではない。人種、経済、性別、門地によるものと思う。ムンバイ辺りはアーリア人種とドラヴィダ人種の混在する都市。6割はヒンズー教だが、4割は他宗教なので、昔のようなゴリゴリのカースト制は形成できないと思う。そもそも、カースト制は宗教上の身分制度。
追伸 やっぱり、女性の監督でした。良かった。
ライム水
インドにおける格差社会。生まれながらにもう生きていく道がある程度決まってしまう。金持ちも選べないとはいえ、ラトナのの置かれた位置はあまりに過酷。実家も亡くなった夫の家族も最低さ。女の人が生きていくのは大変。しかし、日本の主婦と何が違うのか?と思うところもあり。
ファッションデザイナーはあんなに酷い人なのに、手のひら返し。それってあり?大丈夫?
最初15分見逃したけどめちゃくちゃ良かった 終わりの時間を気にせず...
最初15分見逃したけどめちゃくちゃ良かった
終わりの時間を気にせずすっかり見入ってて、最後のシーンのあとにエンドロールのタイトルSIRが映って、思わずうぉーーーんと唸ってしまったよ
これはアメリカで駆け落ちハッピーエンドかな〜と思いながら見てたけど、全然そうではなくって、少なくともこのあと二人はそれぞれ別の道を行くのだろうなと思うと、キュッと切ないけど悲しくなくて前向きで、10年20年たってそれぞれ成功して充実した二人の道がどこかでまた交差するといいな、ってそんな「その後」に思いを馳せながらエンドロールを見ました。
身分違いの純愛物語と言えるほど単純ではない、深く、静かな物語
物語は日常を移すだけで静かに流れていくのですが、
その中でラトナとアシュヴィンとの間に少しずつ恋が生まれていく様が
手に取るように分かる、それがとても印象的でした。
一番の驚きは、ラトナの感情を抑え込むほどの因習の強さでした。
ラトナは自分の恋情を貫くよりも体面の方を気にします。
同僚の使用人たちに身分違いの恋愛を笑われること、
身分違いの恋愛を知られると故郷に引き戻されること。
ま、彼女にとっては彼ほどには恋していなかったのかも知れませんが。
邦題「あなたの名前を呼べたなら」に少し違和感がありました。
果たしてラトナはアシュヴィンを「Sir」(これが原題)ではなく
名前で呼びたかったのでしょうか。
ラストシーンで、久しぶりの旦那様からの電話に対して、
初めて「アシュヴィン」と名前で呼びましたが、
服飾デザイナーとして一歩を踏み出し始めたラトナの
自立の宣言であり、
使用人ではなくなったラトナの決別の宣言だと
私には思えました。
インド社会の差別問題を浮き彫りに
・メイドとは結婚できない
・メイドの部屋にはドアも無く出入りが自由にできる
・雇い主側はメイドに対して失礼な言動をしても構わない
・村では、配偶者が亡くなると女性は一生未亡人として生きていく
・村では、未亡人は腕輪を着けてはいけない
・未亡人は次の結婚ができない。もし破ったなら親戚によって罰を与えられる
・村では、未亡人は姉妹の結婚式に出席できない
・早く嫁入りさせたい、或いは持参金が要らないなどの理由で親が勝手に娘を結婚させる
違う社会で生きている私にとっては
人権を無視したばかばかしく悪しき風習だと感じられる
これらの身分差別や女性差別なども
当のコミュニティで生きているラトナたちは
受け入れて生きています。
でも、その中で幸せになれるよう
精一杯努力している姿にエールを送りたくなりました。
別のコミュニティで暮らした経験のある
アシュヴィンは
ラトナを未亡人メイドではなく
1人の女性として愛しますが
ラトナや友人らに説得されて
風習を打ち破る行動には出られませんでした。
ラストシーンでは
アシュヴィンが愛すべきラトナの幸せを応援し、
行く末に愛を実らせる種を蒔いたのではないかと感じられました。
切ない恋愛映画
身分の違いや古い慣習に縛られ好きになってはいけないのに愛し合ってしまう切ない恋愛映画。インドの生活の様子や貧富の問題など日本とは違う文化に触れてよかった。。恋愛の行方まで描いていないが幸せな気持ちでした。主演の女優の演技が光っていました。
幸せエッセンスをありがとう!
久しぶりにこんな純愛映画を見た気がする。
しかもインド映画なのに基本、歌も踊りもなく、静かにストーリーが展開していくなんて、新しいインド映画の世界観。
身分制度や住む世界が違う二人の恋愛映画という点ではベタな展開だけど、それが可愛らしくて爽やかで心地よい。
また、ここで終わり!?という場面での終わり方だったけど、逆に言えばここしかない!という最高の終わり方であり、観終わった後、幸せオーラで包み込まれた。
また、その後の展開を思い描くことも出来(きっとニューヨークで幸せになったはず!)、それを含め素晴らしい終わり方。
エンドクレジットの曲も良い味出してるし、最近暗めの映画が多くて疲弊してた心の栄養になった気がする♪
実に巧い
基本的に会話劇と言っていいのだと思う。
扱うテーマは、インド特有の背景もあって、なかなか簡単ではないのだけれど。
そうした難しい事情も消化しつつ、主人公2人の生まれや家族の背景なども会話の中で説明され。
そして、ラストも絶妙かつ、納得度が高い。
安易ではないし、主人公2人のどちらの想いも汲んだものになっている。
ラブロマンスって、基本的にファンタジーなんだと思うんだけど。
あまりにご都合主義だと観ているほうはシラけてしまう。
本作は、ほんとうに主人公2人の言動を積み重ねて必然でストーリーを運んでいる。
すべて、さりげなくおこなわれているが、なかなか出来ないこと。
ブレスレット、お酒をこぼしたお姉さん、妹のこと、亡き兄のことなど、すべての伏線が意味を持ち、何一つムダがない。
脚本、演出の巧みさに唸る。
ラストのシークエンス、屋上で、かつて2人でいっしょにここに立っていたことを、ヒロインが想うシーンが秀逸。彼女は、あのときと同じ場所に立つ。忘れてはいない。忘れようもない。それは、想いの深さを表している。セリフもないが、静かに、しかし強く胸に訴えかける。
邦題も巧い。
いわゆる身分違いの恋
現代でも明確な身分制度が存在するインドで、結婚したばかりの妻に出ていかれたアメリカ帰りのエリートインド人と、彼に雇われている未亡人で田舎にいられなくなった若い住み込みのお手伝いさんが、徐々に心を通わせていく。しかし当然、容易には壁を乗り越えられないが…。
身分違いと言っても、アメリカナイズされた価値観を持っている男性と、身分が低いといってもまだ若い女性、ちょっと壁低し。また男性役の俳優も白っぽい人だと思ったらシンガポール人らしい。つまりコテコテのインド人同士ではない設定である。
良いなと思うのは、女性が自立の夢を追うところ。
また、もし2人が気持ちを優先させて一緒に渡米してハッピーエンド、になったところで、2人のアメリカでの生活が数年後も変わらずハッピーとは言い切れないと想像してしまい、この結末は正解かも、と思ってしまった。
男と女が1つ屋根の下で
若い男と若いそれなりに美しい女が1つ屋根の下で住むと、そりゃ、そうならない訳がない。
自分がもし彼女の立場なら、、
そのまま、男女の関係になったでしょう。
ただ、in japanの場合。
インドでは、やっぱりこうなるよね。
切なすぎる。
最後のシーンに希望があります。
個人的には、最後は彼が迎えに来て一緒にアメリカまで行って欲しかったなぁ。
インド版少女漫画
ザツクリ纏めてしまえば、定番の身分違い恋愛もの。
都会の高層マンションに住むセレブな青年と、19歳にして未亡人となった若き住み込みメイド。階級制度や女性蔑視が根強く残るインドの田舎街と、近代化による格差激しい大都会。どちらの世界でも、二人の人生は到底重なりあう事はない。
なのに、生活を共にする内に、優しい二人の、気持ちだけはどんどん近付き寄り添っていく。
社会には受け入れられる筈のない関係に、二人はどう答えを出すのか。
シチュエーションは非常に少女漫画的。
イギリス貴族とメイドとか、韓国IT社長とお手伝いとか、そこここで見た事あるような…な、定番設定。
デザイナーになるラトナの夢を応援し、ミシンをプレゼントしてくれる雇い主アシュヴィン。メイドの彼女にも優しく人間的に接してくれる。失敗を攻め立てる客人から庇ってくれる。夢を掴む切っ掛けをお膳立てしてくれる。そんな都合のいい王子様がおるかーい!と若干ひねくれた突っ込みをいれたくなる(笑)
夢を諦めて故郷に帰ったアシュヴィンが、夢の実現の為に現実に向き合おうとするラトナに惹かれていく感情がきちんと描かれていたので、一方的な夢展開にならずにホッとした。
田舎に帰る車中で腕輪を外し、都会に戻る車中で腕輪をはめ直す(古い風習の根強い故郷では、未亡人が身を飾る事が許されない)、一つ屋根の下に暮らしながら、壁を隔てて背中合わせの二人のアングル、決して食卓を共にせず、台所の床で食事をとるラトナ、パーティーでのセレブ客と下働きの対比など、インド社会に於ける、二人を隔てる身分や格差の強固さが、解りやすく、丁寧に表現されていたのも良かった。インドを舞台に、この設定で描いた事の意味が納得できる。
一度は別れを選んだ二人が、アシュヴィンの電話で、ラトナの一言で、寄り添う未来に向けて少しずつ進めるかも知れない、と、ほんのり観客に希望を抱かせるラストシーン。
ラトナのほんの小さな歩み寄りが、立ち塞がる社会の荒波の強さと、それに抗おうとする精一杯の勇気と愛情を感じさせて、甘過ぎず、苦過ぎず、後味の良い匙加減だった。
女性監督ならではの、女性のツボを心得た結末という所だろうか。
恋愛を超えた、ひととしての関係性が啓かれる
大都会ムンバイで女中をしているラトナ(ティロタマ・ショーム)。
彼女が仕えるのは大手の建設会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)。
ラトナはアシュヴィンのことを「旦那様(Sir。これが原題)」と呼び、決して名前で呼ぶことはない・・・
というところから始まる物語で、アシュヴィンは婚約者の浮気が原因で結婚を破断したところであり、婚約者とまるで性格の異なるラトナに惹かれていく・・・と展開するが、いわゆる身分差の恋愛物語ではない。
ま、そのような恋愛物語の側面も大いにあるが、監督(脚本も担っている)が狙っているのそこんところではない。
ラトナは、寒村(貧しい村のこと。暑いインドなので寒いわけではない)の出身だが、19歳のときに結婚し、結婚後4か月で夫に先立たれている。
村では、夫に先立たれた妻は「死ぬまで未亡人」で、再婚するなどは赦されず、嫁ぎ先(生家もだが)の家名を汚さないでいるだけの存在で、つまりはただの厄介もの。
また、インドでは厳然たる階級社会(階層社会ではない)で、階級によって就ける職業も決まっている。
近代化目覚ましいインドであるが、旧弊は因習と階級差がある。
因習と階級差は、どのようにあっても破ることはできない。
が、アシュヴィンは米国で教育を受けており、基本的にひとは自由で平等ある・・・と考えている。
それが、また、ラトナを苦しめる・・・
と書くと、ありゃ、身分差の恋愛物語みたいですね。
でも、違いますから。
大きなドラマチックなエピソードはないが、因習と階級とそれに対比される自由と平等のせめぎあいと、それに困惑苦悩するふたりが淡々と描かれていきます。
映画の決着点は、恋愛物語としてのハッピーエンドではないかもしれないが、ひととしてのハッピーエンドであろう。
日本版タイトルが示すとおり、ラトナがアシュヴィンのことを「旦那様」ではなく、「名前」で呼ぶ。
ラトナとアシュヴィンが、ひととしての自由と平等を得、恋愛を超えた「信頼」関係になったことを示している。
静かに、心深く、沁みたラストシーンでした。
ラストは、幸福感で終わらせてくれる。インド発の作品
インドの映画と言えば「マダム・イン・ニューヨーク」「めぐり合わせのお弁当」「裁き」を拝見したが、今回の作品はインド色が色濃い作品でした。将来は、中国の人口を超える世界一人口の多い国になると言われている。作品の中では、それでも身分階級が根強い残る点は、映画の中に現れている。
携帯電話の普及率には驚いた。都会の中の街並みと田舎の風景が歴然としている。都会においては、連立する高層ビル群に圧倒されるのにたいし、田舎では貧しい生活でありながら、色彩豊かなサリーを見にまとう女性など、インドの独特文化が描かれている。都会の豪華なマンションに住む旦那様と都会を羨み田舎暮らしの未亡人のメイドの二人が、一つの家で生活すれば、特にメイドが未亡人であり美人で、旦那にあれほどまでに尽くすのであれば、家の中での二人の関係が変化するのは当然なのだが。さらに、メイドが旦那様にお似合いの服を編み。旦那がメイドにミシンを送れば、言わずもがなではないか。そこからの作品の展開は、監督の力量か、展開の速さと言い、二人の立ち塞がる逃れられない身分の壁、想像以上に高いという「苦しみ」とを監督がインドが抱える問題を見事にミキシング出来ている。最後、旦那様の電話にメイドが返答する場面は、思わずやられた。
インド映画は「マダム~」といい、「めぐり合わせ~」といい、空虚感や寂寥感を感じさせながらも、最後は観る者をホッと観方によっては幸福にさせる。心温まる気持ちで終わらせてくれる。しかし、昔のカースト制度ではないが、そこに階級の差があることは忘れてはならない。
後日談として、メイドがファッションデザイナーとして、旦那様が署名な建築家となり、出逢うなんて言う有り得ない続編があったりして。
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