あのこは貴族のレビュー・感想・評価
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「窮屈さ」と向き合う二人の女性の物語…だけで終わってほしくなかった。
○作品全体
貴族側である華子と庶民側である美紀、どちらも生活に窮屈さが隣り合わせになっているけれど、その窮屈さが向かう先が「押込められる窮屈さ」と「抗う窮屈さ」で対比していたのが面白かった。
根底には「東京」という街があって、「東京」の上にあるそれぞれのコミュニティで生きていこうとする登場人物は、性差を超えて共感できた部分が多い。
共感できたからこそ心に響くセリフがたくさんあった。
『どこで生まれたって、最高って日もあれば泣きたくなる日もあるよ。でも、その日、何があったか話せる人がいるだけで、とりあえずは十分じゃない? 旦那さんでも友達でも。そういう人って、案外、出会えないから』
特にこのセリフ。周りからは順風満帆に見えても、その人が過ごした一日にクローズアップすれば、順風満帆な一日なんてそうそうやってこない。自分が選ばずして窮屈さを感じているのであっても、選んだうえで窮屈さを感じているのであっても、それを吐き出せるから闘っていけるし生活していける。心にストンと落ちてくるようなセリフだった。
登場人物にしろセリフにしろ、地に足ついた(自分の生活の地続きにあるような、といったほうが良いか)作品だからこそ、フィクションっぽいというか、ファンタジーっぽい展開にはちょっとがっかりした部分もあった。
一番はラスト。一言で言ってしまえば華子が生活してきたコミュニティをすべて放り投げて友人のマネージャーをやり始めたわけだけど、そのマネージャーというポジションがすごくフィクションだ。音楽家の友人がいるという部分は良いけれど、なんのノウハウもない中で、今まで貴族社会で生きてきた人間がマネージャーという仕事をするというのは、求められる能力もそうだし、代償があまりにもなさすぎないかと感じてしまった。離婚をしたときに青木家側から酷い仕打ちを受けるけれど、言ってしまえばそれだけで、社会的にマイナスになるわけでもない。もちろん、華子が新しい環境で「泣きたくなる日」を過ごしていないとは思っていないし、友人という「何があったか話せる人」がいるからこその前向きなラストなんだろうけど、それこそ本作の根幹である、コミュニティという要素は「友人」というコミュニティにも、「仕事仲間」というコミュニティにも該当するはずだ。「友人」というコミュニティから「仕事仲間」というコミュニティへと変化した世界を、ちょっとないがしろにしていないか、と思ったりした。
自分はもちろん貴族側のコミュニティでもないし、「東京の養分」から足掻こうとしているわけでもない。それでも生きている中での窮屈さだったり、周りからの目線というものは嫌というほど感じている。そういった部分の描写は素晴らしかった分、ラストの幸一郎の態度も含め、ファンタジーな部分が正直残念ではあった。
おそらくファンタジーっぽいと感じてしまった根幹には、幸一郎のポジションが曖昧なことにあるんだと思う。
女ったらしの二枚舌なわけだけど、最後は華子を尊重している。緩さを持ち合わせている幸一郎らしいといえばそうだけど、そうだとするならば離婚をした後の幸一郎は、「厳格な世界で生きなければ行けない幸一郎」であって、それは救われているのか?と思ってしまう。離婚をすることで間違いなく風当たりが強くなる。それはきっと、庶民の世界以上の風当たりなんだと思う。だからその逆風を与えるだけの「悪役」たる要素がないから、可哀想という感想を抱いてしまう。
幸一郎自身、結婚生活に限界が来ていたのかもしれないけれど、幸一郎は物語の途中で政治の世界で生きていくことを余儀なくされる。この部分に幸一郎がどういうスタンスで臨んでいるのかが語られていないから、幸一郎がどうしたいのかがわからないまま物語が進んでいってしまう。
女性の価値観の描写はセリフも含めて洗練されていたけれど、「仕事で疲れて不機嫌なダンナ」っていうステレオタイプを被せられている幸一郎を見ると、寄り添わない男という記号に逃げてしまっている気がする。それでいてラストはなんとなーく離婚を許容している幸一郎がいるし、ポジションが曖昧になっているなあ、と思ったりした。
メインキャラクターは華子と美紀の二人だけれど、その2人に繋がるのは幸一郎なんだし、幸一郎も含めてそれぞれが感じる社会の窮屈さを描いてあげてほしかったな、と思った。
○カメラワークとか
・橋の上で二人乗りをする少女たちと手を振る華子のシーンが凄くよかった。夜更け、街灯、橋、道路…いろんな要素によって華子と少女たちの世界が切り離されていることが演出されているんだけど、すごく些細な邂逅でありながら、それぞれが一生懸命に今ここで生きてるんだってことを伝えあっているようなシーン。
○その他
・正直一番納得行ってないのは幸一郎と別れたこと。
『どこで生まれたって~』の会話の後、華子は幸一郎に出会ったときに話した映画を見たかを聞く。幸一郎はその映画を見ていなかった。だからそこに華子は「何があったか話せる」人ではなかったと見切ったんだろうけど、そうした場合この華子と幸一郎のシーンって、なんだかチグハグというか、ミスリードな気がするんだよなあ。
そもそも華子という人物は「探る」ということを敬遠する人物として描かれていたはずだ。幸一郎の浮気の気配があるメッセージも見てみぬふりをしていた。この時点で幸一郎が裏表のある人間であることは分かっていたはずなのに、最後の最後で「本当に映画を見ていたのか」と幸一郎に投げ掛けるのは、むしろ「何があったか話せる」人に近づいたように感じてしまうんだよな。結局これは華子にとって「最後だから」で聞いたことなのかもしれないけれど。
距離感も謎だ。今まで二人が崩した姿勢で並んだのは幸一郎がクタクタになって帰ってきて、ベランダに腰掛けたときくらいだ。そこは華子が幸一郎寄り添おうと距離を近づけようとした(結局はそうはいかなかったが)空間だった。映画の話をぶり返すところも、二人は相当に体を崩して、リラックスした空間で話している。それであればここは「近づく」シーンだと思ったのだが、そうではなかった。このミスリードに意味があるとは、ちょっと思えない。
映画の話をするシーンって、今までの環境から変わってしまう決定打でなければ行けないと思うんだけど、そうではなかった。そういった映像演出もあって、納得いかんなあ、となった。
自分自身を生きるということ
華子と美紀の生き方が対照的で面白かった。
規則や嫁としての生活にがんじがらめだった華子は
美紀や逸子の生き方を見て自由を求めて離婚する。
離婚する前までは愛想笑いばかりだったが、
逸子と共に働き始めてからは笑顔が増えていて良かった。
男が善人過ぎる。作り過ぎな設定!残念!
会話を大事にした映画だと思う。
傑作になろうと思うが、夫婦の関係を表現する時に、政治家を選んだ事が悔やまれる。政治家に対する偏見が生まれる。
また、
撮影方法をカットを多用して、正面から捉えて、小津安二郎監督風にすれば味わいも良くなったと思う。
勿論、僕の独断である!
追記 『色々な階層が住み分けられた街が東京』って言う様な台詞が出て来るが、港区大門辺りはダウンタウンとは言えないと思うが。
オフビートな時間経過なんだけど、なんか時間設定が違っているように感じる。短い時間に色々な事が起きすぎている。もっともっとオフビートにして、出来れば、オムニバスにすれば『真っ白なワンちゃん映画』になったと
独断で思う。
この演出家は才能豊かな演出家と思うがしかし。
日本映画界はどこまで育てられるものやら。
旧体制からの女性の自立を細やかなディテールで描写
東京の中にある階級差の表現はなかなかに面白いが、それも俯瞰で見れば旧態依然の村社会・家社会の呪縛で雁字搦めの穴の中、田舎と同じじゃん、そこから脱出した方がいいんじゃねというのがリアルだ。また上流であるほど得られるベネフィットに対して自らの自由度が制限されるのは、最上位の皇室を見るまでも無く明らか。
物語の主眼は旧体制からの女性の自立ということで、友人との起業を快諾して、2ケツ自転車を漕いでいく風景の、何気ないけど自然なカタルシスが良かった。同じく2ケツ自転車のJKを含む、女性のバディのコントラストが強めに描かれ、対する男性陣はかなり影が薄いのだけど、幸一郎の諦念・諦観は高良健吾の憂いを帯びた佇まいと演技と雨で丁寧に表出されている。なんとミキと最初の出会いでノート借りた日も雨だった。
小物の扱いが秀逸で、母の婚約指輪!を始めとして、使い込まれたケリーバック、シャネルのバック、ミキのまっさらなグローブトロッター等、階級差をモノと時間で表現しているのも見事。車と自転車の使い分け、場所の上下感の選択も周到で、作画とフレーミングに往年の巨匠の香りが漂う。華子が幸一郎家にお目見えの際の、お茶事の席入りのような所作の先には、男3人が床の間側、女3人が廊下側で据え膳が整えられていて、幸一郎の膳は炉畳の上に配されているとか、祖父の慇懃無礼な言動と共に、最早化石のような世界を容赦無く描き切る。結婚式の記念写真のど真ん中!に政治家の叔父がでんと陣取り(背が一番高く、悪人面)、撮影直後そそくさと幸一郎を庭に連れ出し既に政治活動が始まっている描写も行く末を暗示していた。
金持ち喧嘩せずというが、華子とミキの面会時の「お雛様展のチケット」の入った茶封筒が出てきた時、心の薄汚れた私は「手切れ金」かと思ったがさにあらず、母と一緒に美術展→姉妹毎のお雛様→クリスマス、これらはマウント取っているのではなく、唯々邪気が無く言っているのが凄いのだ、だからこそミキはアッサリと幸一郎との腐れ縁を切る決心をするのだろう。ちなみに三井家所蔵のお雛様....なので場所は日本橋か、榛原家は三越の「外商」枠なのだろう。華子が自立するにあたっての修羅場での、幸一郎母のビンタにはちょっと驚いた(嫁の両親のいる前で)が、すかさず幸一郎父の、「事を荒立てる訳にはいかないので、今日のところはお引き取りください」と言うところまでがコトバ通りの「手打ち」で、流石の顛末だった。
一方で、幸一郎とミキの「手打ち」は、キャバクラ再会後に行った馴染みの町中華で。背景にちらっと見えるメニュー立てに再会時はメニューは机上で「使用中」だったのが、最後は「納まっていた」のが穏やかな終わりを暗示。そこでミキは初めて自分の出身地を帰省土産の「ホタルイカの天日干し」でもって表明する。
快調なテンポ感と無駄のない緻密な作画、小物やディテールへの細やかなこだわりが素晴らしく、複数回の視聴に応える映画。ラストシーン、高いけどステージから遠い幸一郎、ステージに降りる階段途中の華子の位置関係、認め合って微笑む二人が希望を感じさせて爽やかなエンディングだった。
貴族はほんのひと握り。そこに愛はあるんか。
いるいるこういう内部生。
えてして受験組の方が賢く、勉強と無縁の脳内ながら、家柄だけは良く、タチの悪い遊びだけは覚え、親の手伝いをして議員になる。
いるいるこういう上京組。
生きていくのに必死な様子もあるけれど、
必死に東京に馴染むよう努力している。
背伸びがあざとくがめつくさもしく見える時もあれば、たくましく見える時もある。
いるいるこういうお嬢。
お嬢とされる中でも家柄が良すぎて、相当な世間知らず。俯瞰で立ち位置を見極める力がなく、
どこにいってもおっとりぼんやり。
婚活で本当に見合うお育ちの方と出会えず、絶対に生活水準が違う層に出会いを頼んだりする。
どれも身近にいた。
どれも生きづらさがあるだろうと思う。
私含め世の大半はどれでもないから。
華子ほどのお嬢は、世に言うお嬢様扱いされる生い立ちの中でも、ほんのごくごくひと握り。
日本に〇〇家は限られるので、家柄同士で選ぼうにも母数が少ないから、大変そうだと思う。
大抵は、現代の日本人女子は生い立ちの経済力に関わらず、逸子タイプか美紀タイプ。
仕事をして自立していないと、日本人未婚男性の結婚対象としてはおろか、日本経済にとってもお荷物な風潮。また、富裕層の既婚妻でも、職を持ってないのは作中に出てくる階級という表現では下の方だと思う。働かずともお金が回る仕組みを女も持っていてこそ、富裕層出身女性らしいとなるのが現代よ。
ゆとりある家庭の子は頭が良く、手放す必要のない仕事に就き、家庭と仕事を両方持ち、臨機応変に華子のような振る舞いもできるが、中身は同世代男性顔負けで、毒舌。これが現代のリアルよ。
なので、作中の、家事手伝いなど死語で非現実的に思えるが、逸子の言う見えない階級は確かに存在する。
ダージリンやアールグレイを飲み慣れている層もいれば、マウントレーニア片手に仕事する層もいる。
どの層にいても、どんな事情でも、
泣きたい日も嬉しい日もあるし、
その日あったなにげないことを話せる人が誰でも良いからいれば上出来という美紀の言葉はその通りだと思う。
そして、どの階級でも自立力が問われる。
富裕層に生まれ家系に囚われる人生でよく似た生い立ちで性格も合う人を見つけるよりも、上京の孤独を分かち合える同郷の友を見つける方が確率的には簡単だろうなと想像するが。
でも色んなことをひっくるめて、昔からの女友達は楽。そういう関係性を求めた時に、階級を超えて見つけることは本当に難しい。
それが改めて映像化されている作品。
飲むお茶、お茶にかけるお金、行くお店、買うお肉、出会うところ、全てが異なるから。
結婚も、出会いの形だけ本人が模索する形式なだけで、もともと恋愛結婚ではないのだから、婚約に結婚にと進んでも幸一郎も華子もまっったく嬉しくなさそうで。その隙間隙間でわずかな愛が芽生えれば良かったのだが、同じ富裕層の中でも幸一郎と華子は階級が異なり、言い合える関係性にはなれない仕組みだから、やはり合わないんだなぁこれが。
頑張って稼いで背伸びしても、埋まらない違いは根底からあって、その階級差は下から上を見ると同じに見えるが、上の中でも細かくある。
青木>>華子>=逸子>>>>里英>=美紀
水原希子扮する美紀が、流れを掻き回さない、わきまえた良い子だから成立している話で、この子の味わった惨めと孤独とそれを乗り越える根性と生命力たるや凄まじい。それでも決してそれを人に言わず言動を荒らさないのが、実に富山県民のイメージそのものな気がする。猛勉強して慶應に入れたならキャバ嬢の世界でもアホくさい思いを沢山しただろうし、なんの苦労もなく何の見栄でもなく当然のように無職でエルメスを提げる人達の前では、美紀のヴィヴィアンやカルティエのバッグも虚しく見える。
門脇麦には、存在感が強く肝の据わったイメージがあり、この陰鬱とぼうっとした華子役は顔立ちの華やかさで決まったのかな?抑えた演技がストレスでないのかな?と思いながらも。
違和感を感じているが出さない感じが逆にリアルで上手だなと感じた。芸能界の女優さんで、お嬢様はほぼ見た事がないし、いても芸能界に入るほど奔放なお嬢様なので、自分の人生を自分で決める本物お嬢様の物申すタイプが多い。だからこの役をこなせる方は限られる中で、この女優さん本人の生い立ちは?
と気にならせないのは門脇麦さんが演じたからだと思う。上京組でもたくましい生立ちでもないからこそできる役。
石橋静河は初期の役に意地悪なものがありその印象が強かったのだが、最近はどの役で見ても素敵。
自立しながらも誰かのためにひと肌脱ぐが姉御でもガサツでもなく、落ち着いた役がとても似合う。
作中で楽器を引く姿がとても美しく、姿勢の良さが際立っていた。
高良健吾には、役の設定からして海運王の慶應出?そんな男性で、敷かれたレールの結婚という肩書き目的の女性だけで満足するはずがない。そんな人いないってと最初からわかりやすい。田舎ヤンキーも飲んだくれも浮気性もできる俳優さんでそちらが実に近いのではと思うがこの役ではそれらは封印させられている。
ただただ、本音を出さない関係性でも垣間見える、真を見つめない冷たさが伺える。
薄味な印象
山内マリコ作品が好きで、原作は読んでいた。『アズミ・ハルコは行方不明』の実写化も微妙だったので期待せず視聴。
現代女性の痛々しいほどリアルな心理描写が山内作品の魅力だと思うが、映画用にきれいにまとめられた結果、全体的に薄味な作品になってしまったように思う。幸一郎ってもっと嫌な奴の印象あった。
襖の開け閉めやカフェの注文などから華子の育ちの良さを表現したり、同窓会で所在なく空いたグラスをまとめるシーンから美紀の性格を表現したりと、細かい描写の拘りは感じられた。
終盤、美紀と華子の会話で「どこで生まれたって最高と思う日もあれば泣きたくなる日もある。でもその日あったことを話せる人がいるだけでとりあえず十分」と話すくだりがあり、この映画のまとめのような発言ととれたが、イマイチピンとこなくてすっきりしなかった。
まとめると、
・狭い世界の価値観に囚われるな
・女同士で争うな、協力していこう
・どんな境遇の人でも悩みはあり、人生そう完璧にうまくいくもんじゃない。日常の小さな幸せとつながりを大切に
映像が暗い。雨のシーンも多いけど、昔の日本映画のような暗さだ 映画...
映像が暗い。雨のシーンも多いけど、昔の日本映画のような暗さだ
映画は結婚は子供産んで家を継ぐ事だと思っている華子と大学の学費払えず中退して仕事にもやりがいを感じられない美紀の人生を交互にみせる
どちらも幸せとは言えないところから脱して、笑顔が戻ってきた
階級の違う二人の女
映画冒頭、私は庶民なので庶民である美紀の気持ちの方に寄り添ってしまったが、箱入り娘として育ち、何不自由ない憧れの存在のように見えていた華子にも物語が進むにつれて華子なりの生きづらさを理解した。
不自由なく育ち世間を知らないという欠点が’’家’’に囲われるかごの中の鳥の状況を生んでいく華子。
一方で田舎出身の美紀の方は学費が払えずホステスとして働くも大学を中退。お金があればそんななことにはならなかったと思ってしまうが、その後、昼間の仕事に就きひたむきに自由に働く美紀の姿がかっこよく映る。
そして、出会うはずがなかった階級の違う二人をハイスペック男子が引き寄せ、華子は自分自身を解放していく。
お金があってもなくても自分の生きたい人生を歩んでる人が一番かっこいい。
そう思わせてくれた映画。
P.S.
階級が違いすぎると女のバトルにならないのなんとなくわかる。
原作とは別物の良さ
公開された時に気になっていたものの見に行けず。
最近、原作小説を読みとても面白く、やはり映画がみたいなぁと思っていたらタイミングよくABEMAで無料配信していたので見ました。
小説であれだけ言葉で説明されていたことが、映画ではほとんど言葉にされず、仕草や映像で表現されていて。(当たり前と言えばそうですが。)
要所要所の、小説において私が大事だと感じていた部分の設定が映画と小説で多数異なっており、またラストが、そこで終わるの!?という結末だったため、小説と映画で受ける印象が大きく異なると思います。
映画だけ見ると、ラストあのまま華子と幸一郎は寄りを戻すのではないかと感じるのではないだろうか。
私は映画は映画で、別物としてとても好きです。ですが小説の物語をベースに見ていたので、華子と幸一郎があのあと飲みに行って綺麗に別れるところまで見たかったなと感じてしまいました。
小説を読まずに映画を見ていたらどのような感想を抱いたのだろうかと、無理ですが体験してみたくなりました(笑)
小説を読んだ直後に映画を見たため、小説との違いに細かく反応してしまいましたが(それが嫌だったという意味ではなく)、読んでからしばらくたっていたらそこまで気にならないのだろうか。
また小説を読んでいてしんどいなぁと感じていたところや雰囲気は映像になることでかなり中和されていたように思います。
小説よりも抽象的なので受け取りやすいかなと。小説の方がダイレクトに女性のしんどさを書き綴ってくれていて、読みごたえはあります。
門脇麦ちゃんも水原希子ちゃんも大好きで、映画の予告のイメージがあり、脳内で2人を想像しながら小説を読んでいました。
そのため実際に映画を見たら本物だ~!といった嬉しい気持ちになりました。笑
麦ちゃん演じる華子は小説のイメージよりもとても可愛くて可愛くて、品がよく、仕草や口調言動から明白に高貴な人物だと伝わってきて、とにかく美しかったです。
希子ちゃん演じる美紀は小説のイメージ通り美しく、またやはり可愛いらしかったです。小説から受ける印象よりも、人間らしくて可愛いなぁと感じました。
どんどん垢抜けていくビジュアルの変化はとても清々しく美しかったです。
小説を読んでいた時に幸一郎役がどなたかは確認せずに読んでいたため、映画を見て初めて高良健吾さんだと知りました。
高良さんもとても好きな役者さんです。
そのためか、小説の幸一郎はかなり嫌なやつという印象だったのですが、映画の幸一郎にはあまり強い不快感は抱けませんでした。
とても人間らしくて、憎みきれませんでした。
余談ですが
私は原作が小説、漫画、アニメ問わずなんでも、実写化作品が好きで、とくに実写映画化が好きです。
当たり外れはありますが、人間がその人物像(キャラクター)を表現するのを見るのが好きなんです。
原作の人物やキャラが現実世界にいたらこうなるんだろうなと納得できるような演技や世界観を見られるととても嬉しく感じます。
幸一郎はまさに人間が演じることで、こういう人いるよなぁと、血が通った姿が見られてとてもよかったです。
また、小説ではあまり描かれていなかった、美紀と平田さんが起業していく流れが映像で見られて嬉しかったです。
山下リオちゃんも好きな役者さんなので、平田さんにとても合っていて、希子ちゃんとリオちゃんのシーンは2人がきゃっきゃしてるのが可愛くて微笑ましかったです。
華子がひとり歩いている向かい側に自転車に2人乗りする女子高生がいて、華子の視線に気付いて手を振っているシーンもとても好きです。
原作にはないシーンなのに、あったのではないかと感じられて、小説の奥行きがさらに増えたように感じました。
原作にはないシーンで言うと、幸一郎と離婚するときに華子が幸一郎の母にビンタされるシーンは衝撃でした。
幸一郎しっかりしろよ!とムカつきましたが、華子も覚悟の上での離婚なんですよね。
同じ東京テアトルさんの作品で、『ちょっと思い出しただけ』も大好きなのですが。
東京の街を舞台にタクシーが行き来したり美しい風景が流れるのを見て『ちょい思』を思い出しました。
出演者みなさん可愛く美しく、とてもいい映画でした。
ぼんやり
いいところ生まれの人も、地方から出てる人もきついんですよ、と、わかりやすく教えてくれた感じ。どちらかというと、地方出の人間の方が楽しそうに描かれていたのがなんとも。
とはいえ、「あのくらいの年代はさ、年上に憧れがちじゃん?田舎から出てきてさ」はいたく共感した。嫌な日も楽しい日もありつつ、あんなキラキラ社会人になりたい。。
外と内
何故か気になっていたタイトル。
門脇さんに惹かれてたのかなとも思ってた。
静かな作品だった。
というか…日常にある音だけが描かれているようで、気負いがなかったのかもしれない。
うるさくもないし、静かすぎるわけでもない。
なんか、馴染む。
物語的には結構な別世界で、上流階級の人々が描かれる。冒頭から見た事もない空間ばかりで、東京にもこんな場所があるのかと、自分の境遇が痛々しい。
門脇さんの雰囲気が素晴らしかった。上品な事もそうだけど、だからこその息苦しさを自覚もなく漂わせてる空気があったように感じる。
メインキャストの皆様はそれぞれ素晴らしく、役を全うするというか、雑味を全く感じない。だからこそ、台詞や、それが揶揄する事柄に目を向けられたような気がする。
物語も案外、起伏に富んではいるのだけれど、作品のトーンが認識させないというか、極めてなだらかなように流れて行く。
特別な事とか結構起こるのだけれど、全然特別なような気がしない。登場人物達が直面する日常として描かれていたからなのかとも思うけど、とても繊細な演出であったように感じる。
棲み分けみたいな事が描かれてはいて、見えない壁とか国境のようなものも感じはするのだけれど、環境の差はあっても、根本的には変わらないなぁと思ってみたり…特に女性が求めるモノは共通なようにも感じた。
なんか、親ガチャとか才能のあるなしはあったりもするのだけれど、結局のところプラマイゼロなのかなぁと。
何に憧れようと、誰を羨もうと、自分の目の前にある事にしか対応は出来ず、変えていけるのも自分の目の前にある事だけなんだなぁと。
自分の問題を、いとも容易くクリアにできる環境の人はいて、その力が自分に無い事を嘆いたところで事態は好転していかないので、自分がどうにかするしかない。
問題の大小は、人によって捉え方は変わるけど、自分にとっての自分の問題は常に大問題なのである。
良い事も悪い事も、他人の物差しでは測れない。
そういった意味で人は平等とも言えるのだろう。
2人が再会し、お互いにまだ好意的であった事に救われた。今度こそ運命的な人に出会えたようにみえた。
このラストをもって、分断や区別をする壁はありはするが、地続きではあると言われたような気がする。
なんか、個々の差を描く事で、その差を取り払った時の同一性を描くような演出なのかな。
ま…その差が漫然とありはするし、それに左右されてもしまうのだけどね。
ただ…この監督のこの作品は好きだなぁ。
どこかど問われても困るのだけど、とても好き。
詩的にも思うけど、見えてるモノの焦点がブレてないようにも思う。
上面だけの人々で苦手な世界だった!!
長い治腐敗とコロナというショック・ドクトリンで、上級国民はまた一気に資産を増やしたので、上級国民を題材にした映画なぞ観たくないですが、このご時世であえて作ったのは挑戦的だと思います。女性原作なので、あらゆる男性の描写が薄く頼りなく感じます。というか、どの人も表面的なので映画としての深みも無く、この世界は私はとても苦手でした。主人公は特に自分の考えや優雅な振る舞いなどは無く流されるままなので、タイトルはインパクトで付けただけで違うと感じました。学生時代の描写はまだ生き生きとしていました。特にオチも無く、え!?これで終わり!?という感じでした。「ココ・シャネル」(2008)もそうでしたが、貴族を題材にした映画に凛とした姿や思慮深さを求めるのは間違いだと思いました。
田舎の学級委員長女子が都会の私立大学に進学する
レンタル110
よく見る動画サイトの2021年邦画のベスト10に入っていた
山内マリコの小説の映画化だと
同じ著者の ここは退屈…も映画化されているようだ
5回くらいに分けて観たが
そういう風に章が分かれていて見易かった
この監督の作品は初見
高橋ひとみのビンタ一発で経過を表現しているところとか
なかなかオシャレだと思った
原作をどう解釈しているのかも気になるところ
観る前は主役ふたりのイメージが逆だったがこっちでよかった
オラは田舎の平民なので
田舎の学級委員長女子が都会の私立大学に進学する様がリアル
そういうタイプに憧れがあった
その後の苦労も想像できた
ニュアンスは若干異なるが
オラが東京の会社に就職したときも貴族はいた
山手線の内側に家がある人とか桁外れな金持ち
貴族と平民の間の嘲りとか妬みとか
ぐちゃぐちゃな内容を想像していたのだが
いい意味で裏切られた こういう前向きなテイストが大好きだ
ラストも爽やか あぁいい映画だったなと
最後はみんな好きになる
地方住まいのおっさんから見れば、今どきの若者たちの感性は最初どれも感情移入できない。
でも、少しずつそれぞれの人生に触れるにつれ、それぞれの感情が理解できるようになる。
そして、ステレオタイプと言いたがる人に向けての敢えての設定だと気づかされる。
簡単に言えば、時間はかかったけれども自分らしく生きる選択をした女性たちの話だ。
悲しいのは、自分を含めて男はなかなかそうはいかないと気づかされた今。
女性をたいへんうらやましく感じた映画でした。
そして、見終わった今、演じた四人の女優さん(門脇麦,水原希子,石橋静河,山下リオ)みんな大好きになりました。
資本主義が生んだ格差社会を描く
本作は貴族の女性と貧困の女性の2人を対比して描かれる。主人公は貴族の子だった。
貴族の女性は、今まで意識せずに上流階級を生きていたが結婚を機に違和感に気づく。財産分与、男尊女卑、結婚に対する価値観等々お金持ち特有の考え方に生きづらさを感じたが、気づいたタイミングが少し遅かったのかもしれない。ヴァイオリニストの友人のように早めに気づいていれば。
一方、貧困層の女性は高校時代に努力の末慶応義塾大学に入学した。しかし、父親の失業を機に生活費や学費の確保に困窮して水商売を始めた末に中退をしてしまう。彼女は在学時もランチに平気で5000円をかける内部生を見て、住む世界の違いを感じて惨めな気持ちになっていた。
この作品から得た教訓は、階級の違う人とは相性が合わない、幸せと自由は自分から行動を起こさないと手に入れることはできないということを学んだ。とはいえ、教育を受けるためにはお金が必須でありお金がないと学ぶ余裕もないので注意をしないといけない。
みんなの憧れで作られていく、幻の東京
映画「あのこは貴族」(岨手由貴子監督)から。
映画なのに「章」分けされていて、ちょっと違和感。
せっかくだから「章」ごとの気になる一言をピックアップ。
■一章 東京(とりわけその中心の、とある階層)
「東京って棲み分けされてるから。
違う階層の人とは出会わないようになっているんだよ」
■二章 外部(ある地方都市と、女子の運命)
「あんな馬鹿が今や土建屋の3代目だよ」
「えっ・・」「田舎って闇、深すぎ」
■三章 邂逅
「日本って、女を分離する価値観がまかり通っているじゃないですか。
おばさんや独身女性を笑ったり、ママ友怖いって煽ったり、
女同士で対するように仕向けられるでしょ。
私、そういうの嫌なんです。本当は女同士が叩き合ったり、
自尊心をすり減らす必要ないんじゃないですか」
■四章 結婚
「でも家にいたら、旦那さん嫌がらない?」
「うち、子供ができるまで、
しょっちゅう『ちょっと働けば?』って言われてた」
「周りに奥さん遊ばせてるって思われたくないんだよ」
「でも、しっかり働くのは嫌なんでしょ?」
「そうそうそう、家のことできる程度に働けってことなんだよね」
■五章 彷徨
(東京タワー観ながら)「こういう景色初めて見ました。
ずっと東京で生きてきたのに」
「みんな決まった場所で生きてるから。
うちの地元だって町から出ないで、
親の人生トレースしてる人ばっかりだよ。
そっちの世界とうちの地元ってなんか似てるね」
■「一章から五章まで」書き出してみたけど、選んだのは、
ラストシーンでの会話のワンフレーズ。
「田舎から出てくるとさ、こういうわかりやすい
東京っぽい場所ってやっぱり楽しいよね。
外から来た人がイメージする東京だけどねぇ。
そう、みんなの憧れで作られていく、幻の東京」
東京の人たちの生活って、私たちにはわからないことばかりだな。
あのお爺ちゃん恐ろしかった。。。
ああいう政治家の家系っていうのにリアリティを感じた。戦前から続いている財閥出身のおうちなんだろうなあと。
あの影にはいろんな悪事があったんだろうなあと想像する余白が楽しかった。あの爺さん、二号さんとか三号さんとかいたんだろうなあと。
個人的にはきっこさんの方に近いので、きっこさんたちの成功を応援したい。
自転車が自由の象徴として扱われているのには拍手したい。
車連中よりよっぽどかっこいいんだと自信になった。
すごかった
主人公が当たり前のようにタクシー移動することや、結婚をするにしても全く恋をしないことに、なんだこいつと思う。主人公の空っぽぶりがすごくて、いけ好かない映画を見たなと思ったのだけど、後から思い返すとだんだんすごいものを見たような気になってくる。
当たり前のようにタクシーに乗ったり、高そうな服を着ていることなどなんの説明もなく、当たり前のように描かれ、現実も当たり前にそのような暮らしぶりの人が存在し、身分に合わせて恋愛などせず、主人公のように離婚しないまま年老いて死んでいく人がいることが垣間見えるような気がする。映画では描かれなかった立場での責任感などもあるのだろう。そういったものを省いて描いて堂々としているのもすごい。
恋愛映画のような体なのに、誰も恋愛をしていない。映画では最後の最後、主人公に高良健吾が未練たっぷりな感じで幸福な未来を感じさせる。高橋ひとみが怖い。
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