ペトラは静かに対峙するのレビュー・感想・評価
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章が変わるたびに驚きが迸る。静かな中に激情が貫く力作
田舎の村を訪れる女性。どうやら彼女は絵描きのようで、とある大物芸術家のもとで創作活動をしようとしているらしい。映画は穏やかに、かつ静かに展開し、その先に何か起こるとしたらせいぜい芸術論をぶつけ合うくらいしかないのではないかというほどだ。が、これが一つの事件をきっかけに、時代や記憶、繰り返される悲劇などを絡めた、小さくとも深くて激しい、うねりのある叙事詩へと転じていく。
物語をそのまま時系列に並べると、古典的な文芸作のように仕上がったはず。ところが作り手はそうはしない。あえて時系列を操作することで、観客がスクリーンを見ながら抱いていた「違和感」の答えらしきものを後付けで提示し、さらにチャプターが変わるたびに「えっ!」と言うスリリングな心境をもたらしてくれる。静けさは激情の裏返し。観客は何が起ころうともこの結末を見届けずにいられない。結果的に、強靭かつ骨太な人間ドラマがそこには出現していた。
文学作品
ペトラは静かに対峙する
2019年スペインの作品
原題名が「ペトラ」であるのに対し、「静かに対峙する」という邦題を付けた理由は、この作品がペトラの内面を描いていることを明確にしたうえで視聴してほしかったからだろうか。
この作品には確かに物語性が存在する。
しかし、純文学でも通用する。
日本における芥川賞と直木賞同時受賞作のようだ。
そしてこれはスペイン版の因果応報を描いていたのだろうか?
加えて、この作品を第1章から第7章までを小説のように区切り、この章をバラバラにして映像として提供している。
あまり一般的ではないこれらの手法の是非
一昔前では過去と現在を混同させて描くのは一般的だったが、最近ではそんなトリックはややこしいだけで面白さに欠けるとされてきた。
それなのになぜ、このように章をバラバラにして提供したのだろう?
この物語は物語性があるものの、派手さは控えめだ。
ペトラが創作活動としてやってきた本当の理由 彼女の過去
これらを先に出してしまえば物語が単調になるからだろう。
しかしこれは原作が脚本なので、そこはもう少し工夫してほしかった。
さて、
邦題に従ってペトラの内面を見ていきたい。
この作品の主な舞台は家の中と野山だが、家の中のシーンは独特で、誰かが隣の部屋を覗くようなカットが至る所に見られる。
それは伏線ではなく、まるで真実が別の場所にあるかのようでもあり、ペトラの本心が別のところにあるかのようでもある。
しかしそのシーンで描かれるのは他愛もないことで、それらのカットの意味はわからない。
ペトラはどうしても自分の父が誰なのかを知りたかった。
一番可能性の高かったのがジャウメだったが、彼はきっぱりと否定した。
ペトラの内面は、創作活動によって表現されていた。
大きなキャンバスに男性の顔を描こうとしたが、おそらく「顔」そのものを想像できなかったのだろう。
つまりペトラの中の父親を、彼女はどうしても描けなかった。
彼女はそれ以降自分自身を絵の題材にした。
それは悪くはないものだったが、ジャウメによって「自己セラピーのための絵」と酷評される。
この言葉はペトラの創作意欲を削ぎ落していったのだろう。
父かもしれない男の酷評は、父ではないものの偉大な芸術家の言葉であったのは間違いない。
その彼に「大成しない」ときっぱりと言われたのだ。
しかし同時にペトラはジャウメの息子ルカスと恋をする。
この間に一つの出来事が起きた。
それが使用人テレサの自殺
彼女は無職の息子のことを心配していた。
夫のファンフォは、ルカスに頼み込んでジャウメの下で働かせてほしいと懇願した。
ジャウメは直接テレサと会って話すと言ったが、テレサと寝て、この事実は約束通りファンフォには言わないが息子のパウには言うと言ったのだ。
さて、、
ジャウメという男
芸術とは嘘がないことだと思うが、おそらく彼の作品は一切の妥協がないことから、嘘はないのだろう。
しかしその人間性は決して良いとは言えない。
「息子にこのことを言う」と言った理由は、息子の目を覚ますため。
しかしそれ以前にジャウメには人間性と言えるものは無いように感じる。
彼はそれをギブアンドテイクと言ったが、つまり「対価」に加え「弱み」を握ったということだろうか。
ここだけ取れば「中共」と同じだ。
この思考は人を不幸にする。
ジャウメはペトラに、「私はどんな人間だと思うか?」と質問する。
彼が最も嫌いなものが「被害者意識」で、ルカスのこと。
彼は他人からどう見られているのか気になったのだろうか?
気にしているふりをしてみたというのが正解だろうか。
大金持ちで偉大な芸術家と称賛されているジャウメ
彼の本当の顔は、他人を見下し、冷酷で憐れみを持たないが、彫刻でも絵画でもその一瞬を表現する能力に長けているのだろう。
その一瞬は人々に感動を与えるが、その前後にあるのは失われた人間性。
しかし妻マリサは、夫の芸術を「嘘」だと切り捨てた。
それは、人間性とは切り取られた一瞬ではないことを意味しているのだろう。
妻への関心は薄く、息子にはダメ出ししかしない。
考えているのは芸術を使った金儲け。
マリサはペトラに告白した。
ルカスはジャウメの本当の子ではない。
この告白に、ペトラには思うことがたくさんあっただろう。
自身が父が誰かを求め続け、それが絵となり心の表現となっていた。
しかしその父という人物はまるで人間性のない男だった。
このことがペトラの創作意欲を一気に削いだのだろう。
素晴らしいと感動した彼の芸術は、実は虚無で、他人の作品にダメだしする行為は、他人に心の中を土足で歩くことと同じだと感じた。
ジャウメの言う芸術が「本物」であるならば、そんな世界には居たくない。
そうしてルカスと引っ越した。
そしてわからないのが、ジャウメがペトラを呼び出し、「本当は、お前は私の子だ」といったこと。
この事実は、兄妹同士の結婚と近親相姦、そして娘の成長におけるリスクを孕んでいた。
ペトラにとって受け入れられないこと。
そしてその後、ペトラとルカスはこの問題について話し合う機会さえなかった。
なぜなら、翌日、ルカスの家にジャウメが訪ねてきたからだ。
「お前の偽りの幸せを壊すために黙っていた」 この言葉
ルカスが自殺したのは、猟銃を構えながら、結局父を殺せなかったということで、父がルカスに言い続けた言葉通りに、「軟弱」な自分を思い知ったからだろう。
父という大いなる虚像
ルカスがなぜ自殺したのか?
ペトラは当然家に彼が来たことを推測した。
破壊と創造
ジャウメの中に宿る破壊という名の創造
これが彼の「芸術」なのだろう。
破壊という場所にいなければ、そこから何を創造していいのかわからなくなる。
だからジャウメは人々の心までも容赦なく破壊する。
それが彼の芸術
この物語には、テレサの葬儀だけが描かれている。
ペトラの母、ルカス、ジャウメの葬儀は描かれてない。
それは、因果の終わりを象徴しているのかもしれない。
ペトラの母、ルカス、ジャウメの死は因果の連鎖で、この部分にペトラの認識の変化、つまり「対峙」があるのだろう。
そして、
ペトラは長い時間をかけて人の心と寄り添い方を思案した。
孫に会いたかったマリサの想いに寄り添った。
この人間性こそ、下らない因果を終わらせるただ一つの方法なのだろう。
永いペトラの対峙とその答え。
また、
この物語の大どんでん返し
パウが猟銃でジャウメを射殺したこと。
おそらくジャウメは、その言葉通りテレサとの関係をパウに話したのだろう。
パウはその機会を待ち続けていた
母の死とジャウメの告白によって、パウの中に芽生えた復讐心
因果応報
破壊から生まれる創造と、もう一つの「真実」
なかなか文学的な作品だった。
【時間軸を巧妙に入れ替えた作品構成が、不思議なサスペンスの迷宮に誘い込もうとする作品。】
ー ハイメ・ロサレス監督は、7章立てで物語を進める。だが、時間軸通りではない。ー
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・著名な彫刻家ジャウメ(ジョアン・ボティ:77歳にして、本作で演技デビュー)の、傲岸不遜で権威を振り翳す、人間性の欠片もない振る舞い。こんな人間がいるのか・・。
・彼の過去、現在の行いのために、ペトラ(バルバラ・レニー)始め妻マリサ(マリサ・パレデス)や”息子”ルカスは、振り回されていく。人生を狂わされていく・・。
・ジャウメは、実はルカスが自分の子ではないと知っていたのではないか。出なければ、”お前の偽りの幸せを邪魔するためだった・・”などと言う言葉は出て来ないだろう。
<ジャウメは、自分で身を立て、名を上げながらも実は中身のない空虚な人間だったのではないか?
出なければ、あのような最期はを遂げる事はなかったであろう。
何とも、切ない物語。
第7章のペトラが全てを理解したうえで、マリサに対して行ったラストシーンに救われた作品。>
<2019年7-8月頃 京都シネマにて鑑賞>
<2021年8月11日 別媒体にて再鑑賞>
パウでかした
嫌な奴だが仕事はできて金はある
静かなざわめき
懐の深い世界観
一筋縄ではいかない映画である。タイトルからして、スペインの家族の物語が淡々と映されるのかと思っていたが、まったく違っていた。映画の紹介ページに書かれていたとおり、最初に起こる事件は家政婦の自殺だが、映画を見ている限りまさかこの人がという人が自殺する。
そこから先はこの映画では何が起きるか解らないと身構えて観ることになる。そして確かにいろいろなことが起きる。しかし事件の瞬間やその後の愁嘆場のシーンは殆どない。必ずいくばくかの時間が経過したシーンにジャンプする。そしてそのシーンではペトラは起きたことを静かに受け止めて次に進んでいく。
強すぎる自意識は得てして悲劇を生む。本作品のジャウメのように強気な人間なら尚更だ。何事も自分が世界の中心でなければ気が済まないから、他人を信じないし、他人の成功や幸福が許せない。こういうタイプは珍しくなくそこら中にいる。ある飲食チェーンの創業社長は、社員のひとりが料理長のことを「大将」と呼んだことに激怒して、その社員をボコボコにした。自分以外に「大将」がいるのが許せないらしい。文字通りお山の大将である。社員の全員がこの社長を軽蔑していたが、身の振り方は三通りに分かれていた。呆れて辞めていく者、給料と同僚のために我慢して残る者、そして社長に取り入って得しようとするイエスマンたちである。社長はいつもイエスマンに囲まれて悦に入っていた。その会社はいまでも、長時間労働と薄給に耐えて頑張る社員たちの犠牲の上に成り立っている。
日本では大金を手にしている体制側の人間は殆どこのタイプだ。言うなれば世の中は自意識過剰の人格破綻者によって支配されているということである。暗愚の宰相アベはその筆頭だ。他人の成功や幸福が許せない総理大臣をいただいた国民ほど不幸な国民はない。
それでもまともに生きていく人はいる。主人公ペトラである。度重なる死を受け入れ、自暴自棄にもならず、インセストの問題も克服して、母から受け継いだ命を母と同じ名前(?)の娘に繋いでいく。生命のリレーはいつも女たちに委ねられるのだ。
物語の描き方はユニークである。モザイクのようなシーンを嵌めていくと、全体像が浮かび上がる。観客はその作業のために頭が休まる暇がない。ペトラの絵はジャウメによって息の根を止められるが、ペトラの人格にまでは影響を与えられない。ジャウメの苛立ちはペトラに対する不快感でもあっただろう。
人格破綻者のジャウメは周囲の人々の人格を蹂躙し、まともな男たちは弱くて、悲劇の犠牲者となる。一方で女たちは彼を鳥瞰するかのように、はるかな高みから見下ろす。人間の不条理をこれでもかと見せ続ける作品だが、女たちの強さの物語でもある。不思議に暗い気持ちにならないのはカタルシスの効果でもあるが、子宮に包まれているかのような懐の深い世界観のせいでもあるだろう。奥行きのあるいい作品である。
対峙しないカメラ、対峙するペトラ
話の内容は、かなり濃い目ではあるが王道のサスペンス。
一つの家族とその周辺人物が、嘘や秘密により運命を絡ませ、悲劇的な結末を迎えていく、ごく狭い範囲の愛憎劇。
神話や悲劇の典型とも言える人間の業罪をモチーフに含む所など、古典の雰囲気もある。
物語は7つの章から成り、しかし順番に語られる物ではない。2、3章が先に語られ、その後1章に遡ったりする。
難しい内容ではないが、キャラクターの顔や名前、役割を把握するまでの間は、少し混乱した。
カメラワークやサウンドなどから受ける感覚が、一種独特。
展開の殆どが、二人の人物の会話からなる。何故かカメラは、会話する二人を同時に捉える事を殆どせず、周囲の風景から一人の人物へとゆっくり視点を合わせていき、その人ををフレームアウトして会話の相手へ、そしてまた最初の人物へ…と、留まる事なく、ゆるゆると動き続けるのだ。
会話や出来事の中心人物が写らず、カメラが風景や部屋を嘗めるように移動し、会話だけが聞こえているという時間も多い。
また、起こった出来事の結果を写さず場面が転換し、どうなったのかという不安を引きずったまま、後になって経緯が明かされる事もある。
BGMは殆どなく、ただ効果音のように、不安や哀しみを示唆するサウンドが時折流れ、それも場面転換や会話の開始でプツリと絶ち切られる。
会話と出来事だけが、ただ淡々と語られていく。
提示されるのは各人の語り言葉だけなので、その真偽や本当の心情までは、観客には計り知れない。行為の理由も、観客が自ら推し量るしかない。
カメラは特定の人物や出来事に注視する事をしない。
意図的に感情移入を阻まれ、傍観者としてただ運命の成り行きを見守るしかないような、奇妙な疎外感と不安を感じた。
古典悲劇では度々、親の因果が子に報い、過去の出来事が現在を形作る因果応報的公式に縛られ、登場人物達は大方その定めから逃れられないが、ラストのペトラの行為は、その悲劇の糸から抜け出し、大切な物を守ろうという強い意志の表れではないかと感じた。
人間の罪、業、悪意、運命。ペトラが対峙したものとは、何だったのだろうか。
いきなり二章!?
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