「ギリシャ悲劇」ペトラは静かに対峙する f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
ギリシャ悲劇
母の死に際し、ペトラは「芸術家ジャウメが実の父である」ことを知らされ、彼のアトリエがある村を訪れる。
だが彼から突きつけられたのは、ペトラが娘ではないという証拠であった。ペトラは村を去り、芸術家としての仕事も捨てて、通常の職を得る。
そんな彼女のもとを、ジャウメの息子ルカスが訪れる。2人は愛し合い、子供が誕生する。
だがそのタイミングで、ジャウメがやってくる。彼は「自らがペトラの実の父である」ことを認めた。ペトラとルカスの愛を最悪なものにするために、2人が血縁関係(異母兄妹)にあることを隠してタイミングを伺っていたのだ。
以前から女性関係に奔放で、傲慢な態度から恨みを買ってきたジャウメ。
村の若者の1人に職を与えるため、その母親に肉体関係を要求する。
「体と引き換えに息子の職を得たことを息子本人に伝えるぞ」と、サディスティックな一面を見せるジャウメ。それを受けて母親は自殺する。
厳しいジャウメだが、部下となった若者を信頼をしていく。
しかし、母の自殺の理由を知った若者は彼を射殺する。
ジャウメの息子だと思われていたルカスだが、実子ではないことが判明する。
ジャウメの妻もまた奔放であり、不倫によってできた子供がルカスであった…
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実際の作品では、以上のようなあらすじを7章に分割し、順序を入れ替えて提示しています。
そのため、初見では登場人物の意図や目的が分かりにくくなっています。
一度通して鑑賞し、2回目に鑑賞すると、理解が深まります。
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各章の内容と、映画における順番は次の通りです。
第1章:画家ペトラは、母の死に際し、実の父が著名な芸術家ジャウメであることを知らされる。
第2章:ペトラが、ジャウメのアトリエがある村を訪れる。宿泊先で、使用人テレサや、ジャウメの息子ルイスと出会う
第3章:テレサの息子に職を与える対価として、ジャウメはテレサに対し、肉体関係を要求する。息子にこのことを知らせると脅されたテレサは、自殺する。
第4章:ペトラはジャウメに対し「自分は娘である」と告げるが、ジャウメは証拠を出し、自分は父親ではないと述べる
第5章:ジャウメから「父親ではない」と告げられたペトラは、芸術家としての仕事を捨て、保育士の仕事を得る。退屈な毎日を送るペトラの元をルイスが訪れ、2人は愛し合う。
第6章:ジャウメがペトラの元を訪れ、自分が父親であると告げる。ジャウメはペトラが娘であることを黙っていた。ルカスとペトラが愛し合ったタイミングで、父親であることを明かしたのだという。異母姉妹と交わったことを知ったルカスは自殺する。
第7章:ルカスとの間にできた子供を育てるペトラ。そこにジャウメの妻マリサが訪れ、実はルカスはジャウメとの息子ではなく、マリサと不倫相手との間にできた子供であると明かす。ジャウメは、テレサの息子によって射殺される。
【ポイント】ペトラが、ジャウメの息子ルカスと交わったのは、ジャウメが自分の父ではないと言われ、それを信じたからだ。しかし、ジャウメがペトラとルカスの血縁関係を隠していたため、絶望したルカスは自殺する。だがジャウメが知らなかったのは、不倫によって妻がルカスを宿したことだった。ペトラとルカスのあいだにできた子供に遺伝病の心配はないが、失ったルカスを取り戻すことはできないのであった。
※ジャウメの不倫によってできた子供がペトラであり、ジャウメの妻の不倫によってできた子供がルカスである。ジャウメは妻の不倫による妊娠を知らなかったため、ルカスを実の息子だと思っていたし、ルカスもそう思っていたから、このような悲劇が生まれた。
作品内における順序
2-3-1-4-6-5-7
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【解説】
「異母姉妹と寝て子供を作ってしまった男が自殺するも、実は血が繋がっていなかったことがあとから判明する」という、ギリシャ悲(喜)劇的構造を持つ作品です。
実際、ギリシャ悲劇に『オイディプス』という作品があります。
そのあらすじは、「都市テーバイ(テーベ)を悩ませる怪物スフィンクスを倒した英雄オイディプスだが、道中で殺した人物が実の父であったこと、王になって娶り交わった妻が実母であったことを知り、罪悪感から自らの両眼を潰す」というものです。
また、『ロミオとジュリエット』に代表されるシェイクスピア作品も同様に、情報の行き違いによる悲劇を描いていますね。
このような悲劇は、現代映画において、クリストファー・ノーラン作品の中にも多少盛り込まれています。
映画『ダークナイト』の中で、ジョーカーに捕われたヒロインの救出に向かうバットマンですが、嘘の情報を伝えてられていました。ヒロインがいると思った場所にはハービー・デント(トゥー・フェイス)が、デントがいると思った場所に、本当のヒロイン、レイチェルが捕らえられていたのです。結局、ハービーは救えたものの、嘘の情報のためにレイチェルの救出は間に合わず、彼女は亡くなってしまいます。
※余談になりますが、クリストファー・ノーラン作品においては、登場人物が仮の情報に踊らされるだけでなく、観客をもまた仮の情報で踊らせるという娯楽的要素が見られます。これは、悲劇を神視点で描くのではなく、主観視点によって描くことで成されていると言えます。(神の視点で悲劇を描くと、喜劇にも見えてしまいます。喜劇王チャップリンが残した言葉が、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」。こうして見ると、笑顔のピエロの顔に涙も描かれている理由がわかるかもしれませんね。ジョーカーは、主人公にとっては悲劇となる出来事を、神の視点から笑うピエロなのです。最近では、トッド・フィリップス監督による『ジョーカー』が、悲劇的人生を自己嘲笑する姿を描いていましたね。)
『メメント』は、嘘の情報にしたがって行動する人物を描くノーランの出発点ともいえる作品です。
虚構によって観客の心を踊らせる映画というものを、「日々の活力を与える」という点でポジティブに捉えているのがノーランなのかもしれません。
さて、このように「情報の錯綜により生まれる悲劇」は、古代ギリシャから始まって、古今の西洋文学における1つの主題であることがわかります。
本作は、ギリシャ的悲劇をスペインの荒涼とした大地を背景に描いた作品であると言えるでしょう。
情報が2転・3転し、結局ルカスとペトラは血縁関係になかった(したがって、生まれてくる子供の遺伝病の不安が弱まる)わけですが、それによって悲劇と喜びの入り混じったような複雑な感情が入り混じります。この点において、シンプルなギリシャ悲劇よりも重層的ではあります。
「兄妹ではない」「やはり兄妹だった」「やっぱり兄妹ではなかった」という情報を時系列に提示するだけでは面白みにかけるため、順序を入れ替える構成にしたのでしょうか。
また、ギリシャ古典の悲劇と、本作とを比較した場合、「ギリシャ古典は神の視点から描かれているのに対し、本作は主観視点によって描かれている」という違いもあります。
ギリシャ古典では、本来作者だけが知っている情報を、観客も共有しながら進みます。観客と主人公とのあいだでは、持っている情報に差があるのです。一方この作品では、作者が観客に対して情報を隠しており、観客が知らないことは多くの登場人物のほか、主人公も知りません。(これはノーラン作品も同様です)
「ギリシャ悲劇の単なる焼き直し」と批判された本作ではありますが、再鑑賞による面白さもあります。
たしかに、物語の本質を理解してしまえば上述の通り「兄妹ではないと思っていたから寝たけど、やっぱり兄妹だった、と思いきや実は兄妹ではなかった」という悲喜劇(?)でしかありませんが、それは物語を鑑賞し、内容をわかりやすく再構成したから言えることです。物語の理解と再構成の過程に、面白さがあるというものです。
非常に退屈な映画で、最初に鑑賞したさいは何度か中断を挟みながら見ました。しかし物語を理解したあと、登場人物の発言や行動の意図がわかるため、2回目の鑑賞では面白さがあります。新たな発見が、2度目の鑑賞によって得られるのです。そのため、本を読み返すようにして楽しむ作品であるといえます。
そういった意味で、オンデマンド配信での鑑賞は非常に適しており、上映当時見逃してしまったものの、今回VODで作品を見つけることができたのは非常によい体験となりました。