「ささやかなシュヴァルの人生」シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ささやかなシュヴァルの人生
恵比寿ガーデンシネマは恵比寿ガーデンプレイスの外れ、ウェスティンホテルの向かいにあり、隣にはジョエル・ロブションのグランメゾンが堂々と建っている。噂によると中はいくつかの空間に分かれていて、それぞれ値段も違うとか。一番高いガストロノミー(フランス語で食道楽)ではランチが3万円、ディナーが5万円ほどするらしい。注文するワインによってはもっと高額になることもままあるとか。
ここほど高くはないが、フランス料理店で二人で夕食を食べて、ワイン込みで10万円払ったことは何度かある。しかしそのいずれもややこしい料理ばかりで、何を食べたかあまり記憶に残っていない。もちろんどの料理も素晴らしく美味しかったことは憶えているが、人間の味覚は大抵の料理を美味しく感じるように出来ている。フランス料理もラーメンも、同じ程度に美味しいのだ。それにどちらかと言えば寿司やラーメンのように臨場感のある料理のほうが記憶に残っている。多分素材をストレートに連想できる料理のほうが印象が強いのだろう。
さて本作品では主人公シュヴァルがパンを捏ねる。パン屋で働いた経験があるからだ。指ではなく手のひらを使うのがコツだと語りながら、力強くパンを捏ねる。焼き上がったパンはとても固そうだが、美味しそうでもある。多分記憶に残る味なのだろう。フィロメーヌは無口な夫を少しずつ理解する。シュヴァルも、慣れない子供の相手に次第に慣れてくる。生まれたアリスは頭のいい可愛い娘になった。
フィロメーヌを演じたレティシア・カスタがいい。昨年(2019年)末に「パリの恋人たち」を観たばかりで、若い恋人を手のひらで転がすようにもて遊んでいた美熟女の役が記憶に新しいにもかかわらず、本作品の地に足のついた女の役も自然に受け入れられる。大した演技力である。
この住みにくい世界でフィロメーヌに出会えたことは邂逅だと、最後の最期にシュヴァルは愛の言葉を語る。ささやかなフィロメーヌの人生。しかし幸せな人生。シュヴァルの行動を無条件に受け入れ助けてくれたフィロメーヌ。無口なシュヴァルの愛情がひしひしと伝わってくる。
出来上がった宮殿はとても見事である。あちらこちらに鏤められたシュヴァル独自の教訓の言葉。観光客が訪れるのは、この宮殿に人生があるからだ。ささやかなシュヴァルの人生。フィロメーヌとともに歩んだ半生。思いを言葉にすることなく、ただ黙々と作り続けた宮殿には、シュヴァルの家族への愛と悔恨が山のように盛られ、固められている。
シュヴァルは昔から古い建物が好きだった。動物も昆虫も、風も星も好きだった。宮殿を建てようとした動機は単純だが、それだけに力強い。生き物と自然と宇宙を共にして、一緒に宮殿を造り続けた。アリスもフィロメーヌも応援してくれた。決してひとりではなかったのだ。
長距離を歩く郵便配達と夜を徹しての宮殿づくりに身体を酷使し続けるシュヴァルを心配しながら観る映画だが、エンドロールになってはじめて、シュヴァルの素晴らしい人生を振り返ることができて、思わず涙が溢れてきた。名作だと思う。
観終わってガーデンシネマを出ると、ジョエル・ロブションのグランメゾンがやけにみすぼらしく見えた。