「憎悪犯罪の抑止のため」主戦場 イハテコレアンさんの映画レビュー(感想・評価)
憎悪犯罪の抑止のため
テザキ監督はこの映画を作る目的として、「憎悪犯罪の抑止」を掲げているが、これは致命的な世迷い言である。なぜなら、この映画は憎悪犯罪の抑止のために、何の役割も果たせておらず、むしろ持論の展開のために彼が行った情報の取捨選択および誘導は、憎悪を助長させる可能性すら抱えているからだ。
テザキ監督は「慰安婦問題を論じる右派団体、ひいては日本の政党は、アメリカの国粋主義者と同じように自国の汚点となる過去の行いについて認めたがらない傾向がある」という認識を持っている。彼がアメリカを愛していて、本気でその点が不服なのならば、彼は自国の国粋主義者どもに対して米軍の検証可能な過去の汚点を悉く暴露して、目を覚まさせる事を優先すべきだろう。
自国の恥ずべき、解決すべき課題は導入でさらっと棚上げして日本の慰安婦問題について論じ始めるという点に、彼のアメリカに対する愛国心の薄さと日本の粗探しへの執念を感じた。その点では、もはや彼をアメリカ人としても日本人としても尊敬できない。
アメリカには戦勝国として覆い隠してしまった様々な戦争犯罪がごまんと眠っている。フィリピンでの無差別爆撃など、米軍が被害者に対して責任の追求を禁じ、風化を促進させたような悪魔めいた事例は探せばいくらでも出てくる。なぜアメリカ人に差別的な扱いをうけて育った経験を持つ彼が、アメリカの国粋主義者どもではなく日本を相手取ったのか?答えは至極簡単だ。シーシェパードと同じ理屈である。日本ならそこまで手痛く報復されないからだ。結局は弱い者を叩きたいだけなのだ。ただし、ここでいうところの弱い者いじめとは、強い者ではなく臆病者のする行為だ。テザキ監督のご先祖様たちは、彼を勇敢なアメリカ人として賞賛するだろうか?
テザキ監督は映画の公開に際し、詳しくもないのに慰安婦についてYouTubeで論じて炎上した過去を語っているが、トニー・マラーノ氏もその点は全く同じ経歴を持つ。彼らの大きな違いは、マラーノ氏は敵対論者の言い分に反証しようと努力するうちに様々な気づきを得た点に対し、テザキ監督は「感情的なネトウヨに襲われた被害者」として自らの未熟な点に対する指摘に耳を傾けず、敵対論者にレッテルを貼って情報を遮断し、持論に固執した点だ。テザキ監督は対話のために来訪してくれた一方の論客をはじめから「歴史修正主義者」として扱った。対等な立場に立とうとするならば、そんな無礼で愚かなことはしないだろう。彼は、はじめから対話する気など無いのだ。テザキ監督はYouTubeで炎上した過去の地点から、なにひとつ成長していない。同じような考え方をするお友達が増えて持論に酔っているだけだ。
もしもこの映画が監督の宣言とは別に、慰安婦問題に詳しくない者への簡単な導入を目的としていたと仮定しよう。これにも問題がある。なにより、情報不足であった。なにせ軍が性奴隷にしたという第一次資料が、証言主体という体たらく。あれはすでにヤカラのいちゃもんと変わらない。また、インタビューやディベートの編集が、そのあと予定してある「日本の政党もアメリカの国粋主義者と同じなんだ!」という持論の展開に持って行くためにかなり意図的に誘導させている。日本軍の強制連行を論じたいなら、日本軍の命令指示書または米軍の偵察報告書などの第一次資料をもって論じるべき話題を、戦時中の被害者の証言主体に、それも戦時中の彼女たちのインタビューは隠し、戦後70年程度たって180度変わってしまった彼女たちのインタビューばかり引っ張り出して、韓国の主張にばかり与する切り貼りを行った。敵対論者の反証は映画に載せなかった。これはドキュメンタリーとは認められない。それどころか、韓国に利するプロパガンダと呼ぶほかない。
「確かに公平性を欠くかも知れない。だがしかし・・・」といった旨の、朝日新聞が好んで多用する擁護方法を使うレビューをよく目にするが、「公平性を欠いた」時点で対話は成立しないと言うことを理解願いたい。不公平を認めたなら、この映画はその時点でダメだろう。