「恣意的な「作品化」-ドラクエを信じきれない弱さ」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー isomeさんの映画レビュー(感想・評価)
恣意的な「作品化」-ドラクエを信じきれない弱さ
以下、ネタバレを含み、ドラクエ5の用語の使用をします。ご了承ください。
自身でドラクエ5をプレイしていたのもあり、3Dでの映画化ということで興味本位(怖いもの見たさ)で映画館に足を運んだ。公開初日ということもあり前情報もなく、映画館は同じような心持で集まったであろう往年のドラクエプレイヤーが集まっているような雰囲気だった。この段階ですでにあまり期待はしておらず、「映画館でドラクエを見る」という経験をすることが第一の目的であり、3Dで画面を動き回るキャラクターが見られればそれでよいかな、と考えていた。もとよりゲームがもとになっている映画なのでストーリーは既存のものをアレンジしたものになるであろうし、むしろ一時間半という時間にいかにして長大なストーリーを編集してその要点を組み込むかというところが見どころだと考えていた。
映画が始まってまず目に入ってくるのは、ファミコン版のドット絵のスライドショーからなる少年時代のダイジェストである。この導入の段階で、描写される対象が「ビデオゲームの世界」であることが強調されるのだが、個人的にはそのような形ではなく、「ゲームによって虚構的に作られた世界観」の内部から出発して、最初から3Dの描写でカットインするくらいでよかったのではないかと見ていた。しかし、このような「ビデオゲームであること」の強調は、後述するこの映画の構造を示す伏線であった。
少年時代は上記のダイジェストにより「スキップ」され、パパスとの旅およびパパスがゲマにやられてしまうところにつながる。子供時代スキップということ自体は、映画としての都合上仕方のないことであるのかもしれないと思いながら見ていた。パパスがゲマ一行にやられてしまうシーンから始めるということは、その後のシナリオ進行上の動機づけの強調としては一つのやり方であろう。個人的には、ビアンカとの冒険を描写してほしかったし、そこを描写しないとビアンカと結婚するということの「必然性」の要素が薄れてしまうところがある。この部分のカットは映画としての尺的な都合であろうし、この部分もまた、後述する映画の構造に起因する問題だったのである。
ゲマに敗れ奴隷となった主人公とヘンリー(マリアはいない)は肥溜めの中身を利用して死体のふりして神殿を脱出。その後マスタードラゴン扮するプサン(トロッコには乗っていない)に助けられなんだかんだでラインハットに戻り、ヘンリーと別れる(にせたいこうはたおさない)。その後サンタローズの実家の地下室でパパスの手記を見つけ(サンタローズがラインハットに壊滅させられたかは不明)、勇者としての役目を自覚し天空の剣をもつルドマンのもとへ向かう。道中でスラリンとゲレゲレをさらっと仲間にして、サラボナへ到着。サラボナではブオーンが暴れており、ルドマンはブオーンを倒した者にフローラと結婚する権利を与えるとのお触れを出している(リングは集めなくていい)…等々の展開を加速させる変更も、初見では急な展開の大味さに違和感を覚えるものの、まあ仕方ないし、映像もきれいでふつうに楽しめていた。
ドラクエ5において「ビアンカ―フローラ論争」は避けられない問題であり、映画でそれがどう処理されるのかは興味があった。この映画で主人公は、フローラに求婚するという方向で話が進められる。首尾よくフローラにプロポーズした夜、ある老婆が「本当の気持ちに気づく聖水」を主人公に渡し、それを飲んだ主人公は、「じこあんじ」によってフローラを選んでおり、本当はビアンカと結婚したいということに気づき、フローラとの結婚を解消し、ビアンカと結婚することになる。聖水を渡した老婆は主人公のビアンカへの思いを察知したフローラが変身したものであった。この展開は、賛否あろうが、ビアンカとフローラを双方立たせるという点ではよい落としどころだと思ったし、フローラを選ぼうとしてもビアンカを選んでしまう心理をよく表しているとも感じた。しかし、「じこあんじ」とゲームのセリフ枠が深層心理に表示される演出は、どこか醒めた感情を引き起こすものであり、先述したようなゲームであることの強調の必要性を疑問に感じさせる部分であった。そういう演出もありか、とその場では納得したのであったが、これも、映画の構造の伏線であった。
その後、ビアンカと主人公の間に男の子が生まれる(双子の女の子はいない)。同時にゲマ一行が襲撃、主人公とビアンカは石化、その後成長した男の子が石化を解き、なんやかんやでマスタードラゴンに乗って大神殿へ行ってゲマと戦う(イブールはいません)。ヘンリーやブオーンが助けに来たり、最終決戦的な雰囲気。主人公はマーサを殺したゲマに突撃、ジャミとゴンズを一撃で粉砕(えぇ…)、ゲマを息子と協力してやっつけるも、ゲマが魔界の門をなんか開いて、そうはさせまいと息子がそこに天空の剣を投げ込む…と、ここでも急展開ですが、映画の進行上、ああここでミルドラースを封印するか、もしくは戦って倒して終わりかな、という気持ちになり、大味だけど映像よかったからいいか、と心を締めに向かわせていたとき、急に停止する世界。現れたのはミルドラース?に組み込まれたコンピュータウイルス。なんでも、このゲームの世界を破壊するためにハッカーがたわむれに入れたもので、その意図は「大人になれ」(こんなげーむにまじになっちゃってどうするの)。
この映画の構造として、ここまで見てきた映像は、体験型ドラクエ5VRの世界であり、それを遊ぶドラクエ好きな青年(ドラクエ5をやった世代ならいい歳)の見ていた映像だったことが明かされる。消え去るドラクエ5の世界、そこでスラリンが山ちゃんの声で急にしゃべりだす。なんとスラリンはウイルスに対するワクチンだった。スラリンから出てきたロトの剣?ワクチンでウイルスをやっつける主人公。ゲームは虚構世界に遊ぶものだが、それ自体がリアルな経験の一形態であり、そうした経験の場において、ゲーム内の世界およびキャラクターもまた実在する。そうした経験は「あなた」たちひとりひとりによって生じるものであり、それに合わせてたくさんの「ストーリー」ができたんだ。という趣旨のメッセージによって、ドラクエ世界は復活、大団円でエンディング…?ということになる。
この結末に関しては、賛否、というよりも否のほうの意見が多く出るであろうことが予想されるが、実際に見た時の感想は、虚無感に近いものを感じた。まさに、RPGをやりこんでやることがなくなったとき、ああこれはゲームでしかなかったのか、という感覚、エスタークをヘルバトラーとかで数ターンで倒せるようになって、「ひとしこのみ」とかで散々遊んだあとに残る虚無。そして、いままで見てきた世界が虚構でしかなかったと悟った時の虚無。そして、楽しかった時間とか、レベル上げの作業とか、すべて終わった後の虚無感とか、そういうもののすべてがリアルなんだって、そういう感覚(こういう感覚を与えることも含めて意図されたものだと思うし、その点は成功していると思う)。
こういう構造が設定されていると知ると、前半に感じていた違和感がすべて説明されることになる。冒頭のダイジェストは「スキップ」設定だし、参加者のインタラクションで生成されるゲームシステムがシナリオを都合よく改変していたし、フローラを選ぼうというのは「じこあんじプログラム」だし(ここでゲーム内でフローラが聖水飲ませてビアンカと結婚させてるのどういうこと?ってなって???ってなる)、その他の諸々も、「ゲームだった」で済ませられる。正直このオチは納得できないところがあるが、ドラクエを映画として成り立たせる手段としては苦肉の策的に(実際にどう思ってこうしたかはわからないが)一つのやり方だとは思った。
真面目に原作ゲームの内容を踏襲することは困難だ、そこでかなりはしょった内容にしなければならないし、エッセンスだけは抽出しなければならない。おそらく、ドラクエ5で行きましょう、ということもなんらかの都合で決まっていたのだろう。パパスの「ぬわーー」とか「ビアンカ―フローラ論争」とかひっくるめて「人生を体験できるゲーム」として作られた5の理念はそもそも「your story」だった。その要素を端的に示すために、メタ的要素として映画=ゲーム画面という設定を使った。動いてるドラクエキャラを見たいという気持ちと、それを一つの映画に落とし込もうということを手軽に解消できる手段として。
しかし、こうした処理は、結果として恣意的に映画を完成させようとする強引さや短絡さのようなものを醸し出したのではなかったか。私の感想として、以下のような過程が推測された。まずは普通にドラクエのストーリーを映画の尺に収めて王道に仕上げようとしてみたものの、制作上の都合や予算の関係もあり、ぶつ切りの急展開プロットになってしまった。そこで、そうしたまとまらなさの口実として、ゲームオチを持ってくることでそれなら仕方ないか…という逃げを打ったようにどうしても思えてしまった(監督の意図としては映画化することが最優先であったであろうから、最初からオチは決まっていたのだろうが、客観的にそう見えてしまう)。
なぜ、最後にミルドラースとの決戦を描いて、普通に終わらせられなかったのか。それは、ドラクエを真面目に映像化することに、制作側がマジになれなかったからではないかと思われてならない。「勇者ヨシヒコ」に代表されるように、5はパロディにも恵まれている。いまさらベタベタな周知のストーリーをなぞって映像化することに意味があるのか?この問いに対して、心からあるとは言い切れなかったのだろう(実際、監督はドラクエの映画化に難色を示していた。もし作るとしても、「ゲームの副産物」にならず、映画として自立するものを目指しており、この姿勢自体は評価したいが)。心のどこかで「大人になれよ」と「ウイルス」がささやくのだ。そうした葛藤を吹き飛ばして、ドラクエの世界を完結させることができず、逡巡をスクリーンに映さざるをえなかった、そうした迷い、あるいは作家としてのポリシーが効果的に働かなかったがために、未消化感の残る結果につながったと私は思う。
私は、普通に、王道に、魔王を倒して凱旋する勇者一行が見たかった。動いているその姿を、フロー状態のままドット絵に重ねて心のうちにもって帰りたかった。しかし、結局は、醒めた自己言及の虚無感を再び抱くことになった。ああ、ゲームなんてしてないでその時間勉強してたら、もっと変わってたかもしれないのになあ、というゲームの存在意義を失わせる悲哀とともに(たぶんこういう思いを「ゲーム世代」のわれわれが抱くことも、この映画のメッセージには含まれているのだと思うが)。
以上に大筋の感想となるが、もう一点指摘したいことがある。それはBGMに関してである。この映画では5と6(それ以降のものもあったかな?)のBGMが使われているが、その選択が?である。なぜ6のBGMが入ってきているのか。これは何らかの意図もあるだろうが、結局は先述したメタ的要素の補完の一環であろうと私は考えている。それよりも気になったのは、ドラクエのBGMを使うというのはゲームを主題としている以上そうなのだが、映画の画面とあまりシンクロしていないように思えたのである。そもそもゲーム音源はゲームプレイの場面を想定して作られたものだ、それを映画のシーンに当てはめるように使うことは、既プレイ者には懐古的によいものではあるかもしれないが、映画のために作られた音源や、映像に合わせて特別に作られた音源などの音響効果と比べれば、どうしても「とってつけた」ような印象を受ける。私はドラクエのBGMは大好きだが、映画としての「BGM」というものはそれはそれであるように思うのである。